good boy | ナノ
約束の7日を迎えるまでの間、冨岡先生はある提案を私にした。
「7日にドライヤーを一緒に買いに行かないか?」と。
そして「それまでは俺が名前の髪を乾かしたい」とも。
前者に関しては断る理由もないので快諾したが、後者に関してはただでさえ変な所でスイッチが入りやすくなってる冨岡先生の前で無防備な姿を曝す訳にもいかないと全力でお断りをした結果

「今日も頼む」

お風呂上がりで濡れた髪を携えながら家に訪れてくるという図式が完成した。
「……座ってください」
最初こそ反論していたものの、数日も経てば諦めに近いものが占めて、ダイニングの椅子に腰掛ける背中を眺めつつ、溜め息を吐く。

どうしてこうなったかと言えば、ある意味折衷案というやつだ。
髪を乾かされる事を拒否した私に、冨岡先生は閃いたように使い終えたドライヤーをほぼ無理矢理残していった次の日、髪を乾かして欲しいと訪ねてきたものだから、拒否が出来なくなった。
今にして思うと、完全にこの人の作戦勝ちだったと思う。
今更後悔しても仕方ないんだけども。

「…乾かしますよ」
「あぁ」

短く答えると目を閉じるその表情は穏やかそのもので、この間の補給のお陰なのかここ数日はふざけた事をされている訳ではなく、まぁ良いか、なんて思ったのが、いつも失敗の所以なんだとこの後思い知らされる事になる。

半分程、水分が飛んだか否かという所、この人の髪の毛って凄いブローの時間掛かるんだよな、と思いつつ出来るだけ多く空気に触れるよう小刻みに風を当てていく。
「行きたい所は決まったか?」
突然の発問はこれまた小さいもので辛うじて聞き取る事が出来た。
「いえ、まだ決まってないです」
というかこれといって行きたい場所はないんだけど、正直に口にしてシュンとされても暴走されてもそれはそれで困るのでそう答える。
一応、懸命に案は出そうとしてるけど、デートというデートなんてした事がないので正直全く思い浮かばない。
王道に、喋らなくて時間が潰せる映画、と考えて調べてみたけどそこまで気になる上映作品がある訳でもなく、今話題の泣けるという恋愛映画をこの人と観た所で白けて終わる未来が何となく見えるので選択肢から外した。
あとは何だろう。行きたい所…。
「…海が観たいですね」
小さく呟いたためか、返ってくる事のない反応に、小さく苦笑いを零すとそこからは黙って髪を乾かすのに集中する事にした。


good boy


「出来ましたよ」
均等に乾いた事を確認してからそのスイッチを切る。
「いつも思うがお前の指でされるのは気持ち良い」
さっきまで大人しくしていたのに急にまた暴走仕掛けてるのを認識して、敢えて何も答えず線を抜こうとしゃがんだ瞬間、背中に乗る重量感に動きも思考も止めてしまった。
「…名前…愛してる…」
吐息と共に出された言葉で勝手に心臓が動く。
「だからどうしてこう、いきなり始まるんですかね?スイッチが入る何かありました?」
「スイッチなら常に入っている。普段は抑えているだけだ」
「それなら今も抑えていただきたいんですが」
「お前が愛おしいという感情が溢れ出して止まらない」
「そこを何とか頑張って止めてください」
「無理だ。俺の意思では止められない」
左耳を甘噛みしてきたかと思えば胸を揉みしだく右手に無意識に仰け反ってしまった。
「…冨岡先生!?」
「…名前…」
吐息混じりの囁きが熱を持っていて、これは、そうだ、とてつもなく危険なやつだ、と冷静に考える。
ジャージの隙間、下着さえ縫って入ってくる指先に固く目を瞑ってしまった。
「……ッ…ん!」
それこそ私の意思では止められない声が漏れて、このままでは終わると細目で見た先、コンセントを視界に入れてそれを引っ張る。
手元の武器にするつもりで手繰り寄せたそれは、ゴッ!と音を立て、突然解放された圧に振り返れば後頭部を押さえる姿が見えた。
「……まさかとは思うんですけど頭の上に落ちました?」
「…そのまさかだ」
「すみません、狙った訳じゃないんですよ。それで殴ろうとしてただけで上から落とすつもりはなかったんです」
「どちらにしてもサド的なのは変わらないんだな」
「人聞きの悪い事言わないでください。正当防衛ですよ」
こんな事、前にも言った気がする。
「サドな名前は尚更好物だ」
引く所か圧を強める両手に組み敷かれて、冷たい床を背中に感じた。
「…わかりました。冨岡先生は私に嫌われる道をご所望という事ですね。それならどうぞお好きになさってください。日曜の約束も反古という形でよろしいですね?」
「そんな事は一言も言っていない」
「今の状況ではそう判断せざるを得ないですよ」
ホックを外そうと背中に回す手が止まったものの、引こうとしないその眼差しを睨む。
髪を撫でる右手に警戒を強めたが
「…海が好きなのか?」
その一言で一気に緩まってしまった。
「…聞こえてたんですね」
「お前の言葉は一字一句聞き逃さない」
「逃してくださって構わないんですけど。独り言なので気にしないでください」
「海デートか。悪くないな…」
ブツブツ言い出した姿に苦笑いするしかない。
「無理しなくて良いですよ。こんな寒い中海行ったってやる事ないですし、ただ私が久々に観たいと思っただけですから」
「無理などしていない。お前が行きたい所が俺の行きたい所だ」
そう即答出来るのは、凄いとしか言いようがない。
「良いんですか?ほんとに」
「良いに決まってる。海ならば此処から電車で1本だ。移動が大変な訳でもない。7日は海デートで決定だな」
そう言って自然にキスしてこようとする顔を右手で止めた。
早々に掴まれた手首の力によって退かされて、その顔が何故か驚いてる。
「…何で驚いてるんですか?」
「お前が珍しく全力で抗ってきてるのに驚いている」
「珍しくも何も常に全力なんですが、伝わってませんでした?この間拒否はしてないとか散々好き勝手言ってくれたんで、これからは諦めないで果敢に拒否し続けていこうと思い直したんです」
「そうか。ならば俺も全力でお前の全てを手に入れる事とする」
言うが否や背中の締め付けが緩まった感覚で、ホックが外されたのを気付いた。
「…え!?ちょ…冨岡先生!?」
そのまま胸に移動してくる指の動きに身体が反応してしまう。
先程頭上に落ちてから床に転がったままだった私にとって唯一の武器を手にするも振り被った所でいとも簡単に止められ
「予期していれば回避など造作もない」
勝ち誇った表情に抵抗する術がなくなった事を知った。

* * *

突如動きを止めたかと思えば、カーソルが矢印からクルクルと回る円へと変化したのに気が付いて、キーボードから手を離した。
何を更新しているのか、それとも保存しているのか、随分と長い間止まってる気がするのは気が急いてるせいと、若干の機嫌の悪さから来るものだと思う。

昨日の光景が蘇ってきて目を固く瞑った。
もう巻き慣れたストールが少し窮屈に感じて指先で緩める。
胸元にまで拡がる無数の痕に愕然としたのは瀕死になりながら何とか逃げ延びた直後。
ほんとに散々、散々人の身体をオモチャみたいに…

「…苗字先生?」

後ろから飛んできた声に、反射的に振り向くもそれが胡蝶先生だと認識したのはその表情が驚きに変わってからだった。
「…どうしたの?凄く暗い顔してるわ…」
「すみません、パソコンがフリーズしたので色々余計な事を考えていただけです。気にしないでください。どうしました?」
「これ、学園メールで校閲依頼が来てたから印刷しておいたの」
「ありがとうございます。助かります」
「本当に大丈夫?」
心配そうに覗き込んでくる瞳にあぁ、可愛いなと思う。
「大丈夫です。胡蝶先生の顔を見たら元気出ました」
「…ふふっ。それなら良かったわ」
癒しだ。本当胡蝶先生は私にとって女神で癒しでしかない。
そう考えてから、冨岡先生にとっては私がそうなのか、と浮かんだ事を無理矢理意識の外へ追いやった。
とりあえずあの暴走犬の事は考えたくない。
「そういえば、苗字先生、バレンタインはどうするの?」
「え?冨岡先生になんてあげませんよ?」
頭の中に秒で戻ってきたな暴走犬め。
「あら…そうなの?…えーと、冨岡先生もそうなんだけど…そうじゃなくて、職場の皆には配るのかしら?」
ヤバイ、胡蝶先生を困らせてしまった。
「…そっちですね。すみません暴走犬のせいで私まで暴走しました。胡蝶先生は毎年どうしてるんですか?」
「私も特には用意してないんだけど、事務の先生方は配ったりしてるから、苗字先生は用意するのかしら〜?って思ったの」
「全く考えてませんでした。そんなイベント自体忘れてましたよ」
「苗字先生らしいわね」
ふふっと笑うその表情がまた愛くるしい。
「でね、それは前置きとしてなんだけど」
抑え気味になる声に耳を傾ける。

「苗字先生にチョコ、作っても良いかしら?」

今度はパソコンではなく私自身がフリーズしてしまった。
胡蝶先生が?私に?チョコを?
「…え…?良いんですか…?」
思わず狼狽えてしまうのを必死で隠したつもりがそんなに隠せてないと自覚する。
「今年はカナヲが手作りしたいって言うから、手伝うんだけど、折角だから私も誰かに贈りたくなっちゃったの〜。苗字先生が貰ってくれたら嬉しいわ」
「私の、方こそ嬉しいです」
こういう時、語彙力がなくなるのはどうしてなんだろうか。
嬉しい気持ちを伝えたいのに、嬉しいという言葉しか出てこないこの歯痒さが辛い。
「じゃあ15日に持ってくるわね〜」
「ありがとうございます。…楽しみに、してます」
ニッコリと微笑った表情が踵を返して、デスクに戻っていくのを見送る。
胡蝶先生から…手作りの…。
弛んでいく頬を両手で隠しながら未だフリーズし続けるパソコンを見つめた。
逆にフリーズを続けてくれて良かったのかも知れない。
今此処で動いてくれたとしても口元を隠す両手を退けられそうにない。
そっか、世はバレンタインか。
…私も何か胡蝶先生に用意した方が良いのか、それともホワイトデーにお返しする方が良いのか…。
思考を巡らせた事で治まった頬の弛みに少し遅れて動きを取り戻したパソコンへ向かいながらもまた考える。
「…どっちの方が嬉しいんだろう」
折角だから胡蝶先生が喜ぶ方を選びたい。全力で。
どっちも渡すのは気を遣わせそうだからナシとして…
「俺はどちらでも嬉しいが」
「そう思います?私も胡蝶先生ならどっちにしても喜んでくれるとは思ってるんですけど、どうせなら…」
違和感に気付いて言葉を止めた。
いつの間にか戻ってきていた右横に目を細めてしまう。
「余りにもナチュラルに脳内に入り込んでくるものだから答えちゃったじゃないですか…」
「俺が思った事を言ったまでだ。何の話だ?」
「冨岡先生には関係ない話です」
「胡蝶がどうのと言っていた」
「…そうです。胡蝶先生と私の話なので冨岡先生が入る隙はないです。これっぽっちも全く1ミリも1ミクロンもないです」
「見た所かなり怒っているようだが…」
「そりゃ怒りますよ。散々暴走して挙句に…」
あぁ、駄目だ。また思い出してしまった。
口に出来る訳がない。
「乳首を舐めた事か」
「ダイレクトに言わないでくれませんか。冨岡先生ほんと頭狂ってますよ。何でそんな重大で残念なバグ抱えながら平然と生きていけるんですか?天は二物を与えずって言うのは間違いないですよね」
この人の場合、見た目に全部大事なものを持っていかれたのだ。きっとそう。
あぁ、でも胡蝶先生は見た目も中身も完璧だな。
いや、胡蝶先生は特別だから仕方ない。
「あれは一瞬にも満たない。お前が暴れたせいで全く堪能出来なかった」
「そりゃ暴れますよ。死ぬかどうかの瀬戸際なんですから」
「死にはしない。気持ち良「それ以上ほんと言わないでください。ビークワイエット。静かに」」
口を噤んだと同時、冨岡先生の後ろを不死川先生が通っていく。
良かった。間一髪聞かれずに済んだ。
「…胡蝶と何があった?」
「喋って良いって言ってないんですけど」
気配で不死川先生が椅子に腰掛けたのを感じて立ち上がる。
「見回り行って来ます」
これ以上此処で攻防を続けると思わぬ所に飛び火して目も当てられなくなりそうだ。
「俺も行く」
「来なくて良いです」
そう言ってもついてくるのはわかっているんだけど言わずにはいられない。

出来る限り人目につく廊下を選びながら、特に目的はないまま足を進める。
「胡蝶と何があった?」
6度目の質問を背中で聞いた所で眉を寄せながら振り返った。
「…バレンタインの話です。胡蝶先生が妹のカナヲさんの手伝いついでにチョコを作って私にくれると言うのでお返しを当日するべきか1ヶ月後にするべきか悩んでいました」
「…胡蝶が?」
「冨岡先生には関係ない話です」
「…そうか。…バレンタインか」
絶対自分にもくれだの手作りがどうこうだのめんどくさい事を言い出しそうだなと身構えるも
「それなら俺もお前にチョコを贈ろう」
遥か斜め上を飛んでいく言葉に一瞬理解が追い付かなかった。


普通はではないかと


(貰う方じゃないんですか?)
(胡蝶が手作りで攻めるなら俺も受けて立つ)
(まだライバル心燃やしてたんですね…)


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