good boy | ナノ
こちらがまともな神経で勝てないならば、相手にもまともな判断力を持つ時間を与えなくすれば良い。

当初の作戦を大幅に変更したのは、それに気付いてからだった。

何をしても効かない冨岡先生を抑止するより、常人であるあの人が持つ私への期待、そして希望を打ち負かした方が手っ取り早いのではないか、そう考えた。

私の何に期待と希望を見ているのか。
突き詰めて考えた時、過去が蘇った。

「俺、男慣れしてる子って苦手なんだよね。比べられてるみたいでさ。だから、俺が名前にとって初めてで良かった」

もう思い出したくもないのに、その台詞だけが鮮明なのは、嬉しさより違和感だったのだろうと今になってわかる。

あの人の劣等感を埋める存在が、たまたまそこに居た私だった。
重きを置いているのは私自身ではなくて、異性に対しての堅苦しい考え方なのだと。
そう思考を向けると私が平手打ちをした時、笑っていたのも頷ける。
あれは単純に、簡単に靡かない嬉しさから込み上げるものだったのだと。

だからその期待を、希望を、幻想な上に虚像として崩そうとした。
そしたら私への一切の興味を失くすだろう。

だから一切の概念を捨てた。
思い込むために。
開き直るために。

それなのに

「名前に触るな」

この人が出て来たものだから、思考を働かさざるを得なくなった。


good boy


「犬?何だ、やっぱ付き合ってないんだろ?」
さっきまで追い詰めた表情が余裕さを取り戻しつつあるのに眉を寄せるも
「俺は飼い犬兼飼い主兼彼氏だ」
そう言いながら私の手首を掴む手を早々に放させる手に戸惑う。
「冨岡先生」
この人が何処まで把握しているか正直全くと言って良い程わからない。
余計な事を口走らせてはいけないと制止しようと呼んだ名前に、その群青の瞳は一瞥を返すだけ。

「言った通りだっただろう。名前は俺と付き合っている」
「荒唐無稽な作り話じゃなかった訳だ?」
「当たり前だ。そして昨日の会話は録音している」
ポケットから出したボイスレコーダーに
思わず息を止める。
確証はない。けれど、私が失くしたものと同じ物だ。
「へぇ、やるじゃん」
「お前は名前には最大限の警戒を怠らないが、知能で劣る俺の事は全く意に介さない。それを利用した。暴力でしか解決策を模索出来ない、勉強会で敬語も使えない俺がまさかお前の足をすくうためこれを仕掛けてるとは思わないだろう」
「ただの感情論で乗り込んで来たってのも印象操作かな?」
「当たり前だ。名前でも勝てない相手に何の策略もなく乗り込む程愚かじゃない」

…あれ?何か、私除け者になってない?
そう気付いたと同時、口を開いた。

「全く状況判断が追い付かなくて申し訳ないんですけど、出来れば私にもわかるように話していただけると助かるのですが」
「後で話す。黙ってろ」
今までにない真剣な瞳に思わず言う通りにせざるを得ない。
「これ以上名前に手を出そうとするのならこの音声をお前の大好きな教育委員会とやらに送る」
「俺が処分される前に君の教師生命を抹殺するけど良いのかな?」
「別に構わない。名前が居る。それだけで良い」
あぁ、いつかもそんな事言ってたっけ。
って言われた通り黙ってる場合じゃない。
「…冨岡先生、教育委員会に送るよりネットでばらまけば良いんです。そしたら全く身動き取れなくなるんで」
「そうか。今の世は便利だな」
「また時代遅れの親父みたいな台詞になってますよ。この人と父親を潰すなら生温いやり方じゃ駄目です。それ何が入ってるんですか?」
「こいつと俺の会話だ。俺の名前を脅して俺の名前を奪おうとした証拠が入ってる」
何気にここぞとばかりに主張を強くしてくるな…。
「じゃあそれを名前の部分と冨岡先生の声だけ加工して動画サイトに流しましょうか。SNSで宣伝してこの中学校にも事実のビラを撒いたら逃げ場がなくなります」
「流石名前だ。容赦がない」
「当たり前です。今此処で徹底的に打ち負かさないとまた湧いて出てくるんで」
「だ、そうだ。俺は構わないが、どうする?」
その質問の後、冨岡先生と共に視線を向けた先、ぐぅの音も出ない、わかりやすく狼狽える表情を見た。

* * *

スッキリした。
とてつもなく清々しい気分だ。
何ならスキップしながら帰れるくらい心が晴れてる。
恥ずかしいからほんとにはしないけども。
「あの人の顔見ました?笑っちゃいますよねほんと」
完膚無きまでの敗北は初めて味わったのだろう。
しかも自分より格下の相手にやられた屈辱感からか悪役が逃げ帰るみたいな負け惜しみを言ってたけど、もはやそれもどうでも良い。
勝った。
打ち負かしてやった。
最後はもう、ほぼほぼ冨岡先生の活躍だけど、それでも勝てた。
一通りその喜びを噛み締めた後、やってくるのは当たり前の疑問。
黙って歩き続ける右横を見上げる。
「…訊いても良いですか?」
「なんだ?」
何から口にすれば良いのか一瞬迷った。
「いつから、そして何処まで知ってたんですか?」
「…金曜日、お前が座ったまま寝ていた時だ。つけっぱなしになっていたLINEを見た」
あぁ、そうか私、あの時自動画面ロックを解除してたから…。
"冨岡の謹慎が解けた理由は何だと思う?"
その一文を見たという事だ。
「もしかして…だから寝てる所触って来たんですか?」
「あれはフェイクだ。起きた時、俺がLINEを見た事をお前に察知されないため冷静な判断力を欠こうとホックを外しておいただけだ。でなければお前は俺の違和感にすぐ気付くだろう」
「……随分と論理的ですね」
あれも冨岡先生の策略だったという事に、驚きを隠せない。
「お前が恐らく、あの男に脅されているのはすぐ想像は出来た。更に俺には知られぬようにしているのも態度でわかったため、訊ねるのはやめたが…」
視線を落としたと同時に止まる足につられて私も足を止める。
「土曜日のお前の様子でまた俺の預かり知れぬ所で何かあったのだと確信した。更に日曜、業者が運んできた炬燵を配置している時、落ちていたこれを見つけた」
ポケットから出されたボイスレコーダーに目を細める。
「やっぱりそれ、私のだったんですね」
そりゃリビング中、何処を探しても見つからない筈だ。
この人が持ってたんだから。
「消沈している姿と何も音声が入っていなかった事から、反撃しようと何らかの証拠を手に入れようとしたが恐らく返り討ちに遭ったのではないかと推測した」
「…そうですね。全くその通りです」
「何を証拠として残そうとしたのか、それは考えてもわからないままだったので頭を切り替えた。お前が脅されているのなら、俺がその証拠を掴めば良いのではないか、と。だから昨日、あの男に会いに行った。俺にならば油断してベラベラと喋ると思ったからだ。案の定、感情的に乗り込んできたと、小馬鹿にしていた」
「それも冨岡先生の作戦だったって訳、ですよね?」
「そうだ。だが、上手く行く確証はなかった。ただの同僚である俺が吠えた所で痛くも痒くもない。そこで役立つのが思い込みだ。俺は名前の彼氏なのだと思う事であの男より優位な立場を作り、若干だが揺さぶりも成功した」
「…成程、強靱な狂人の法則ってやつですか。ここ数日やたら彼氏面してたのはただふざけてた訳じゃなかったんですね」
「元々ふざけてはいない。あれは全部本気な上に事実だ」
「さっきご自分で言ったのに…ただの同僚って…もう良いんですよ。解決したんですから言い聞かせなくて」
「俺がお前の彼氏だという思い込みと開き直りはこれからも続けていこうと決意を新たにしている」
「その決意はしなくて良いんですけど…」
で、この音声を残した、という事になる、のか。
「それ、あとで聴かせて貰っても良いですか?」
「聴けるものは何も残っていない」
「はい?だって冨岡先生さっき…」
嘘?まさか…
「録音したつもりが何も入っていなかった。どうやら失敗したらしい」
「それなのにあんな事言ったんですか?空のレコーダー持って?自信満々に?」
「だから言っただろう。思い込みと開き直りは時に事実より強靱になると」
「いや…それは、そうですけど…良く出来ましたねそんな事。聴かせろって言われてたらどうしてたんですか?」
「その冷静な判断が出来ないだろうタイミングを狙って出て行った。お前が見事にあの男の精神を揺さぶってくれたため、そこまで気が回らなかったらしい」
「え?最初から居たんですか?」
「居た。あの男が出てくる前から待機していた」
「嘘…。全然気付かなかったんですけど…何処に居…っていうか何で今日会うってわかったんですか?」
対決するのを決めたのは今日の朝だ。
いくら何でも冨岡先生が知る術はない筈。
「お前が俺に封筒を預けに来た時点で何かしらの反撃要素を見付けたのを悟った。近々また会いに行くであろう事も少し考えればわかる。更に不死川ですら圧される程の気迫に満ちていれば今日勝負を仕掛けるのだろうと察しがつく」

凄い。
正直それしか言えなくなってしまった。
何が凄いってその察知能力も当たり前にそうだけども、その全てを私に一切に気付かせる事なくやり切った事。
しかも冷静にこちらへ助言をしながら。

「…俺は…」

地面を見つめる瞳がゆっくり瞬きしたのを見つめる。
「お前が自分を犠牲にしあの男の元へ行くのではないか、と、昨日まで思っていた。だが、そうじゃなかった事に安心した」
「……。最初はそう考えてましたよ。でもそれやっても冨岡先生、絶対諦めないだろうなってわかってたんで、その強靱な狂人の存在と精神をお借りしました」
「先程の悪女な名前には正直興奮した。俺の前でも言って欲しい」
思わず眉間に皺が増えてしまう。
…そうか、それもガッツリ見られてたのか…。
「嫌ですよ。あれはあの人にダメージを与えるため仕方なく言っただけで…。って、思ったんですけど冨岡先生ってどうやったら私に幻滅するんですか?」
「俺が名前に幻滅する事などない。まず理想として見ていないからだ。俺にとって名前の全てが現実で在り、どんな名前でも受け入れる」
「随分と私に対して寛容ですね…」
「寛容とはまた違う。お前は俺の絶対的存在のため、必然そうなる」
「いつの間にそんな大きな存在になってたとは知りませんでした」
「いつの間にかじゃない。最初からそうだ」
群青色の両目に捉えられて、思わず目を伏せた。
落とした視線の先、レコーダーを見止める。
「…それ、ほんとに何も入ってないんですか?」
「……。入ってない」
答えまでの間がとてつもなく気になる。
「じゃあ返して貰って良いですか?」
「駄目だ」
「駄目って…元々私のなんですけど。返してください」
「あの男との問題が解決した今必要ないだろう」
「まぁそれはそうなんですけど、折角買ったんで使おうかな、と。ないよりはあった方が仕事でも使えますし」
「それなら俺が買い取る。幾らだ?」
「…冨岡先生、何か隠してませんか?」
疑いの目を向ける私に逸らした顔がわかりやすく狼狽えてる。
「本当は音声データ残ってるんじゃないですか?」
「残っていない。名前以外の声は本当に録れなかった」

…私の?

「あ!冨岡先生!アレ見てください!」
左方面を思い切り指差した瞬間、視線を向けた隙を見計らってその手からレコーダーを掻っ攫った。
こんな古典的な引っ掛けに騙されるなんて冨岡先生もまだまだだな、と思いつつボタンを押す。
「やっぱり何か隠してたんですね」
録音件数が1件あるのを確認して再生を押そうとするも
「…聴くのはよした方が良い」
冷静な言葉に眉を寄せた。
「何録ったんですか…」
迷いながら再生ボタンを押した瞬間
『にゃあ』
自分の声に動きも思考も止まる。
「……ッ!これ…!!昨日の!?」
「だからよした方が良いと言った。返してくれ」
「元々私のです。こんなもの残しておくなんて信じられないんですけど。何考えてるんですか。だから昨日あんなに強引に鳴けって言ったんですね」
消去ボタンを押そうと指を動かした瞬間、力ずくで掴まれた手首。
「駄目だ。消させない。返せ」
「消しますし返しません」
「ならば力ずくで取り返す。良いのか?」
「それやられると私の方が圧倒的に不利なんですけど、卑怯じゃないですか?」
「だから良いのか?と訊いている。取り戻す事に俺も必死だ。手加減出来る気がしない」
「そんな鳴き声ひとつで大袈裟な…「大袈裟じゃない。返してくれ」」
真剣な表情に自然とレコーダーへ視線を移す。
抵抗しようとしていた力を緩めた事で冨岡先生の右手がそれをさらっていく。
「…そんなに大事なんですか?」
「そうだ。今日も朝起きて聴き、授業の合間に聴き、これから夜寝る前にも聴き癒される」
「ちょっと待ってください。学校でまで聴いてたんですか?」
「あぁ」
「流石にやめて欲しいんですけど。誰に聴かれるかわからないじゃないですか…」
「家でなら良いのか?」
それを言われるともう、何て答えたら良いか…。
「誰にも聴かれなければ百歩譲って、まぁ、許さなくも…ないです」
キラキラとしていく瞳に、溜め息しか出ない。
「その代わり二度ともう鳴き真似なんてしませんからね。それでもう満足してください」
「今の所はこれで満足だ」
「人の話聞いてます?」
「聞いてはいるが確定的ではない未来に対し簡単に首を縦には振れない。だから今の所とつけた」
この人絶対いつかまた鳴き真似させようとしてるな…。
強い風が吹き付けて自然と寒気が走る。
こんな所で立ち話をしててもキリがない。
「帰りましょうか」
そう言うと、いそいそとレコーダーをポケットへしまう姿に思わず小さく笑った。


そこまで大事にしなくても


(…うぅ、寒いですね…手が悴む…)
(俺の手は温かい。繋ぐか?)
(良いです。お気持ちだけ戴いておきます)


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