冨岡先生からのLINEを確認したのは昼食時の事だ。 2時間前に届いていたそれに"わかりました。ありがとうございます"とだけ返し、画面を消した所で 「あら、苗字先生。今日はお弁当じゃないの?」 可愛らしい声を頭上で聞く。 視線を向ければ胡蝶先生の綺麗な笑顔があった。 「あ、はい。ちょっと作るのめんどくさくて…」 いつもは食費軽減の意味で前日の夜に仕込んでおくのだが、体調も芳しくなく、今日はもういいやと適当に売店でパンを購入したのだがそれもデスクに置いただけ。 食欲が出ないのは完全に風邪が悪化したせいだ。 移せだの何だの言ってたくせに、あの人は今日も変わらずピンピンしているらしく、これ私キスされ損じゃない?と考えた瞬間、昨日の事が鮮明に蘇ってきてしまった。 good boy 「…大丈夫?少し顔が赤いわ…」 心配そうに眉をさげる胡蝶先生に首を横に振る。 「大丈夫です」 「風邪引いてる時ほどちゃんと食べないと…あ、そうだ!少し待ってて」 返事をする前に自分のデスクへ走っていくとすぐに戻ってきた。 その手には巾着に包まれた、恐らく昼食だろう。 「…良かったら半分食べてくれないかしら?」 「え!?そんな…良いです大丈夫です!悪いですよ!胡蝶先生のお弁当取るなんて出来ません!」 「違うの。実はね、最近少し太っちゃって…ダイエットしてるんだけど、でもお弁当残すとしのぶに怒られちゃうから…苗字先生、協力してくれない?」 悪戯っぽくてへっと笑う表情を見ても、それが真実なのか私に気を遣った作り話なのかの判断は難しい。 「…わかりました」 「ありがとう。助かるわ」 お礼を言うのはこっちの方なんだけど。 ほんと胡蝶先生って優しさの塊だ。 「冨岡先生の席借りちゃって良いかしら?」 そう言いながらスッとそこに腰掛けると巾着を広げる。 「どうぞ?」 まるでテレビで見るような色とりどり且つ栄養バランスを考えられているであろうおかずの数々。 可愛らしく2つの俵型のおにぎりは紫と黄色の混ぜ込みご飯で作られている。 「…凄い、美味しそうですね。これいつも妹さんが作ってるんですか?」 「そうなの。しのぶの卵焼き、なかなか美味しいのよ〜?食べてみて?」 「ありがとうございます。いただきます」 マスクを外すと、引き出しから何かあった時のため用に忍ばせておいた割り箸を手にした。 勧められた卵焼きを一口頬張れば上品な出汁の味が口に拡がる。 風邪のせいで味覚が落ちていてもわかる美味しさに、思わず口元を押さえた。 「…美味しいです」 「でしょう〜?次はね…」 ニコニコと嬉しそうに言葉を続ける胡蝶先生だったが 「苗字先生、ちょっと…」 扉の向こう、手招きする校長に遮られる。 「…ありがとうございました、胡蝶先生」 すぐに席を立つも 「じゃあ待ってるわね」 笑顔を見せるものだからすぐに首を振る。 「いえ、長くなると思うので大丈夫です。胡蝶先生、十分細いんですから、ちゃんと食べてくださいね?ごちそうさまでした」 一息でそう言うとマスクをしながら校長の元へ向かった。 * * * 「つい先程、保護者の方から連絡がありました」 来客用のソファに腰掛けたと同時に口火を切った校長に、返事の代わりに視線を向ける。 「冨岡先生に殴られた、というのは嘘だったという事です」 まるで重大な案件を伝える厳粛な口調だが、こちらは最初から全て把握しているため、まぁそうだろうな、と軽く聞いた。 作り上げた背景と経緯をあの2人に伝えたのは、つい2時間程前だ。 私は通常業務があるため、動いたのは冨岡先生本人。 本来ならば謹慎中に出歩くのも、生徒に接触するのも禁止ではあるが、そんな事を守っていられる状況じゃない。 予め2人には私から連絡をし、共働きで両親が居ない彼の家に集まって貰った。 作り上げた"理由"を同性の冨岡先生に説明して貰う事で、少しでもハードルを下げるという狙いもあったが、頑なに 「お前から話すのは駄目だ。許さない」 それしか言わないものだから仕方なく折れたのも半分ある。 その説明と説得が上手くいったと知ったのは "納得させた" 一言だけのLINEだった。 「では冨岡先生の処分は?」 「嘘だったのであれば処分する必要もないでしょう。明日にも戻ってきてもらいます」 「教育委員会から連絡はきましたか?」 「知っていたんですか…?」 「教務主任として把握すべき案件でしたので少し調べさせてもらいました」 「…そうですか。あちらからはまだ何も…。ですが既に伝わっているとは思います」 「わかりました。ありがとうございます」 早々に会話を終わらせて校長室を後にしてから、西校舎の裏側へ向かう。 いつも冨岡先生が1人でパンを食べている定位置に腰を下ろして膝を抱えた。 いつもあの人は此処で何を見ていたんだろう。 ふと気になってその風景を眺めるも、特に面白い事など何一つない。 「…へっくしゅん!」 階段の踊り場に思ったよりも大きく鳴り響くくしゃみ。 膝を抱える力を強め、項垂れた。 これできっと、処分は免れる。 明日から冨岡先生はいつもと同じように此処でパンをもそもそと食べるんだ、と想像してから 「…良かった…」 小さく呟いたその一言で、自分が思っているよりも安堵している事に気付いた。 * * * とりあえず、着込めるだけ着込んできた。 またいつこの門を通るかわからない人物を待つのに、この間の失敗から来る学習と、これ以上の体調の悪化だけは避けたい。 薄暗くなり始めた空を見上げながらまだ暫くはこうして待つしかないのだろうと視線を下に向けた。 音を立てるスマホを取り出せば、LINEを通しての電話。 「…はい」 『何時に帰ってくる?』 急な発問にそのまま止まってしまった。 「何でですか?」 『余り遅いようなら迎えに行く』 「…いえ、別に大丈夫です。どうしたんですか?急に」 『…学校じゃないだろう。今何処に居る?』 電話越しでも若干声のトーンが下がったのがわかる。 幹線道路に近いため、ひっきりなしに通る車で外に居る事が伝わったのだろう。 「今ちょっと出先です。何時に帰れるかは予測出来ないんで気にしないでください」 『あの男の所か?』 此処で誤魔化すのは後々面倒な事になるな。 「…そうです」 『それなら尚更迎えに行く』 救急車の音を僅かに聞きながら視線を上げた先、爽やかな笑顔でこちらを見つめる存在に眉を寄せた。 私が気付いた事でゆっくりと歩を進めてくる。 「…すみません大丈夫です。ちょっと用事出来たんで切りますね。また後で…出来たら連絡します」 早口でそう言ってから通話を終了させた。 「もしかして…風邪引いた?」 さも心配してます、という表情に感情を一切出さず答えた。 「お構いなく。今日は随分早いですね」 「名前が来ると思ったからさ。この間みたいに寒い中待たせちゃ悪いし」 余裕なその表情で、概要は既に耳に入っているのを察した。 「…ほんとに大丈夫…?」 急に踏み込んでくる足に一歩引いてそれを避ける。 「…変わんないな、その癖」 「…癖?」 「体調が優れない時ほどそうやって大きく人と距離を取ろうとする。移さないためにさ」 ニコッと笑うのは作り物だ。 「今のは体調不良から距離を取ったのではなく、貴男に対する単純な拒否反応です」 「やっぱ具合悪いんだ?」 …上手く誘導された事に気付いたが、それはもう考えず次に進ませる事にする。 「今回ばかりは貴男の思い通りにはなりませんでしたね」 「…生徒が虚偽だって認めたってね。理由がまた…実にくだらなくて面白い」 ははっと小さく上げる笑い声は多分本物。 「そのストーリーを作ったのは…冨岡?」 正直、まさか此処まで見抜かれるとは思わなかった。 「だって名前なら絶対考えつかないでしょ?」 「本当にそう思います?」 「良いよ、はぐらかさなくても大丈夫。こんなくだらない理由が本当なら名前が振り回されて、俺に会いに来る筈がない」 「私は今日までその理由を知りませんでした。あの時点では冨岡先生が暴力を振るっていないのは事実だという情報しか持っていません。だからこそ貴男が仕組んだのではないかと考えたんです」 「詰めが甘いよ名前先生。自分の目で把握すらしていないのにそれを事実だと認定するのは絶対キミならしない」 「買被り過ぎでは?全て把握せずともその時の状況判断で理解出来るものもあります。実際、そうでしたよ。今回に於いては」 一瞬眉を上げる表情に続ける。 「私は貴男が提示した期間内に抗う道を探し見付けました」 「うん」 「あの時はっきり宣言しておくべきでしたが、今言わせてもらいます。これ以上私達、キメツ学園に関わらないでください。これから先、貴男の邪魔をするつもりもないので、貴男も一切関与してこないでください」 「…ははっ…あはは…!私、達…?何言ってんの名前!」 両手で腹部を抱えて笑う姿に眉を寄せるしかない。 「キメツ学園の教師が何て言われてるか知ってる?バカ、落ちこぼれ、能無し。名前がその掃き溜めに居る必要はないんだよ?レベルが違うって自分でも思うだろ?」 「…そうですね。私が思うよりも遥か斜め上にしか進んでいかない人達ばかりなのでほんとレベルが違うと感じます」 「だからそんなの捨てて戻ってきなよ?」 きっと、この人には一生わからないのだろう、と思った。 「楽しいですよ」 「…は?」 「楽しいんです。初めて面白い、教師になって良かったって思いました。最初からキメツ学園に配属されてたら良かったのにって思うくらいに」 「…もしかして、毒されたんじゃないの?大丈夫?」 毒された、か。言い得て妙かも知れない。 「…っくしゅ!」 つい口を押さえたがマスクをしていたのを忘れてた。 「バカで落ちこぼれで能無しなのは貴男なのでは?」 「…本気で言ってる?」 「言ってますよ。頭の良さをひけらかし人を見下して生きていくだけの人生は楽で良いですよね」 珍しい。 本当に珍しい。 本気で私に苛立っている表情。 イジメを隠していた事を責めた時以来だ。 「私に此処までわかりやすく貶されてもわかりませんか?」 暫しの沈黙が流れて、俯いていたその顔が上げられたかと思えばいつもと変わりなく笑う。 「…ほんと名前は頭が良いよね。人が傷付く言葉を的確に読んでる。俺よりも口が達者だと思うよ」 「全く有難くもない言葉ですね」 「でも、だから駄目なんだ」 途端に何か、嫌な予感がした。 「そうやって損得を考えない。この間だってそう。抗う道を選ぶより俺に一言"冨岡を処分しないで欲しい"そう頼めばこんな回りくどい真似しなくても解決出来てたんだよ?別に俺が出した条件を呑まずとも。俺だって惚れた弱味はあるんだから」 「そんなものに頼るなら最初から諦めた方がマシです」 「何でそうさ、上手く立ち回れないのかな」 「頭が悪いからですよ。それは貴男が一番良く知っている筈では?」 上手く立ち回る? それが出来ていたのならこんな目には遭ってない。 「名前は優秀だよ。俺が好きになったくらいだから。でも、まさかとは思うけど、今回の事勝ったとか思ってる?それならほんとにおめでたい」 眉を寄せた私にわかりやすく笑顔を深める。 「名前がこれくらいの案件を解決するのは予測してた。でも冨岡を処分出来る理由なんて探せば幾らでもあるよ?過去を掘り返せば本当に、幾らでも。例えば名前が教務主任として解決してきた案件も蒸し返して問題にだって出来る」 「…ほんとに、最低ですね」 「だから言っただろ?抗う道なんてないって。でもそこまでしたくないから俺の元へ戻ってきなよ」 「嫌です」 「だからそうやって感情に任せて即答するのが良くない。言っとくけど冨岡の謹慎はまだ解かせないよ?」 …どうして? それを表情に出してしまった私に楽しそうに口角を上げるのがとてつもなく腹が立つ。 「冨岡はあと4日で謹慎からの懲戒解雇に決定」 「最初からそのつもりだったんですか?」 「違うってば。何度もチャンスはあげたよ?名前の言動次第だった。結果としては最悪の結末。俺としては最高だけどさ」 反論の言葉が出てこなくなってしまった。 …どう、立ち向かっていったら良かったのだろう。 後悔が押し寄せる。また、あの時みたいに。 頭を下げて、この人の言う通りにすれば最悪な結末は逃れられるのか。 それしかもう、道がない。 「…はっくしゅん!」 こんな時でも出るくしゃみに眉を寄せる。 「…大丈夫?俺ん家来る?」 その誘い言葉は試してるんだろう。 此処で私がそれに頷けば、冨岡先生の処分は完全になかった事になる。 そうした方が賢明だ。 過去の暴力事件を出されたらもう私には太刀打ち出来ない。 全て崩しようもない事実だからだ。 あくまで私の意思に任せようと差し出された右手に手を伸ばそうとしたその時 「苗字先生ではないか!!」 とんでもない声量に肩を震わせた。 振り返った先、黄色と赤のコントラストに必要以上に瞬きをしてしまう。 「煉獄、先生…」 「奇遇だな!こんな所で何をしているんだ!?」 反射的に手を引っ込める私に 「名前の知り合い?」 その言葉に答えようとするも、先に口を開く煉獄先生。 「苗字先生にはいつも世話になっている!俺は煉獄杏寿郎という者だ!キメツ学園では歴史を担当している!よろしく頼む!」 それは理屈でも勝てぬ人 (煉獄先生、どうして此処に?) (どうという事はない!帰宅途中だ!) (この辺に住んでるんですね…) [ 28/220 ] [*prev] [next#] [mokuji] [しおりを挟む] [back] ← ×
|