good boy | ナノ
一緒に住んだら──……。

暑さでぼうっとしながら考えたのは、今の私にできることがそれくらいしかないためだ。

バスタオルを1枚纏ったまま、洗面所で蹲り込んでいるのはどうにも滑稽に思えるけど、そうするしか気持ち悪さを誤魔化せないでいる。
ついでに意識をしっかり保とうと働かせようとする頭も、実のところさほど回っていない。

毛先から滴り落ちそうな雫をバスタオルに染み込ませることで、床に垂れるのは阻止した。

すぐさまベッドで横になりたいというのが正直なところだけど、こんな濡れてる状況じゃそれも叶わない。

家主はそんなこと毛頭気にせず寝室まで運ぼうとしたから、何とか必死に説得してこの蹲る姿勢を続けている。

それだけでも、少しは楽だ。

ガチャッ。

開いた扉に上げた顔は、随分とゆっくりなものだと自覚している。

「大丈夫か?」

目が合った途端に屈んでは添えられる手の温かさに、少しばかりの情けなさから苦笑いが出た。

「…大丈夫で」

心配をかけないようにした返事は、抱えられたことで途切れる。

「簡易的だが寝床を作った。横になれ」
「……。はい」

咄嗟に出ようとする強がりを抑えて、素直に返事をした。

リビングに広がるバスタオルの下が、柔らかい感触だとそこへ寝かされてから知る。

濡れても大丈夫なんだろうか?

どうにも気になるのは性分なんだけど、訊いたところで返ってくる言葉はわかりきっているので黙っておく。
髪に触れる手が優しく水分を拭ってくれているのだと知って、自然と目を閉じた。


good boy


暫くそうしていたことで、ぐるぐると回るような眩暈が完全に引いたのに気が付く。

「すみません、もう大丈夫です…」

身体に巻いたバスタオルを支えながら、念のためゆっくり起き上がった。
問題なく動けるまで回復はしたらしい。

「服、着ますね」

心配そうに見つめ続けるその表情が安心するよう、少し口角を上げる。

「俺が着させる」
「いえ、いいです。ホントに。そんな赤ちゃんじゃないんですから」

こういう時、冨岡先生も過保護だよななんて、つい笑ってしまいながら渡された下着を手に取った。

前と後ろを確認したところで、じっと見つめてくるものだから今度は目が窄まる。

「……あの、視線が痛いんですけど」
「体調が悪化しないよう見張ってる」
「や、もう大丈夫ですって。そんな近くで見られてると着替えにくいです」
「気にしなくていい」

これは何を言っても効かないパターンだ。
仕方ないので最小限の動きで下着に足を通して、腰まで上げる。
それ自体を目にするのは初めてでないはずなのに、物珍しそうにしている表情が良くわからない。

「何ですか?」
「脱ぐ姿もエロいが履く姿もエロいな」
「そういうこと言うならあっちで着てきますよ」
「嫌だ。見る」

洗面所に向かおうと立ち上がろうとしたところで当たり前に阻止されて、目だけで不満を訴えつつ、それを再開させる。

「ホックは俺が嵌めたい」

その言葉に不信な顔も作ってはみたけれど、断る理由がないので肩紐を通してからバスタオルを解いた。

「お願いします」

向けた背中は、何だか心許ない。

当たり前のことなんだけれど、外す時と違って触れる両手はいつもと違って心臓を速くさせていく。

それが無言で行われているっていうのが、ドキドキを誘う要因だ。

何度か引っ張られた感覚のあと、完全に離される手でそれが完了されたことを知る。

「できた」
「ありがとうございます」

少しばかり位置を直そうと手で触れれば、まるで追うように冨岡先生の手がそれを掴んだ。

「もう少し下か?」
「…よくわかりましたね」
「違和感がある」

この人の視点と思考はどうなってるんだろう。
いや、常人が狂人を理解などできるはずがない。そう言い聞かせて考えるのをやめた。

「……っ!」

カップの中にスッと入ってきた掌に肩が震える。

「直してるだけだ」

脇から持ち上げられる胸に、眉を寄せつつ黙って身を預けた。
ここで過敏に反応するのはよくないと経験が……

「こうしてると尚更エロいな」

吐息交じりの声を耳元で聞く。

「……ぁっ」

抑えたはずの声は、突起に触れられて勝手に漏れていた。

「脱がしたくなった」
「何言ってるんですか。駄目です」
「…わかってる」

項にチュッと音を立てて離れていく手は物足りなさそうだけど、その次に渡されたものを脊髄反射で受け取れば、それが期待に満ちた顔へと変わる。

「いいんですか?本当にお借りして」

今更といえば今更なんだけど、一応悪い気がするのでお伺いは立てた。

「構わない。久しぶりに俺のジャージに包まれる名前を見たい」

言い終わるより早く、それを攫っては肩に羽織らせる速さに瞬きしかできない。

それでもふわっと香る冨岡先生の匂いに満たされていく何かを感じた。

袖から半分ほどしか出ない指でチャックを上げれば、またも浴びせられる熱視線。

「…何ですか?」
「どちらもエロいな」
「何と何を比べてるんですか…」
「チャックを下げた時と上げた時の差だ。時折見えるのも堪らないが、今のように全く視界に入らないのもいい」
「……。そうですか」

よくわからないけれど、楽しんでいただけているならよしとしておこう。

「腹が減っただろう?」

言われてから、初めて空腹であることを認識した。

「…そうですね」

ようやく湯あたりが治まったことで、簡易的な寝床を片付けつつ、テーブルに置かれた平らな箱に目をやる。

「多分、というか絶対冷めてますよね…。温め直しましょうか」
「俺がやる。名前は座ってろ」

お言葉に甘えようと思いはしたものの、この人が立ちはだかるであろう壁がすでに見えているのでその後をついていった。

「それ、大きさ的に半分ずつにしないとレンジの中に入らないと思います」

当然ながらひとり暮らしのキッチンに、ピザの直径がすんなり収まる大きさの電子レンジはないわけで、そうなると工程が増えることになる。

「…そうか」
「私がやるので、冨岡先生は飲み物の準備をお願いしていいですか?」
「わかった」
「お皿、お借りしますね」

一応断りを入れてから棚から手にした丸皿。

本当に数少ない食器がポツンと置かれているそこはひとり暮らし故じゃなく、圧倒的に物が少ない。

ここまで何もないと不便ではないのかと考えはするけれど、あぁ、だから505号室には物が増えていく一方なのかと納得もした。

「そういえば、おいくらでした?」

見つめた目はきょとんとしてる。
しまった。主語が抜けていた。

「ピザの代「出さなくていい」」

絶対に言われると思ったけれど、まさかこんなに早く返答されるとは思わなかった。

「いつも飯を作って貰っている。足りないが礼だ」
「…そうですか?では、お言葉に甘えて、ご馳走になります」

大人しく引き下がったのは、何というかそれも配慮だ。

そういう律儀なところが好きなので。なんて、続く言葉は心の中だけで思うだけにした。

温まったピザを一口頬張って、

「美味しいですね」

そう言えば、今まさにかじったばかりの一切れと共に頷く姿が可愛いと思う。

いつもと違う部屋は新鮮で、でも私達の会話や心境にさして変化がないのは少しずつ、一緒にいることが当たり前になってきたのだろう。

穏やかな時間を過ごして、就寝しようと横になった途端、包まれる匂いには少し心臓が跳ねたけれど、

「おやすみ」

そう言って抱き締めてくれるから、

「おやすみなさい」

柄にもなく照れながら返したりした。

隙間なく抱き締められた胸板から少しだけ顔を上げて、目を瞑ればすぐに意識を手放して、お互いに朝までぐっすり眠ったように思う。

うろ覚えだけど、ずっとこうやって一緒に住んでいるような、そんな夢を見た気もした。



しかしまぁ、実際問題だ。

また現実に突き当たったのは、それからすぐのこと。

ダイニングテーブルに置いたスマホを指でつついては、何度目かの嘆きの溜め息を出す。

何度計算し直しても、導かれた数字は変わらずだ。

やっぱりどう考えても、出費が嵩んでる。

主に、食費の。

その原因は突き詰めて考えるまでもない。

成人男性1人分はそりゃ嵩みもするだろう。
食費だけでなく、光熱費も微々たるものだけど上がっている。

さて、これはどうしたものか。

これから早々に模索すべきなのは、解決策だ。

できればわずかに聞こえてくるシャワーの音が止むまでには見つけたい。

切り詰める。というのは勿論な話なんだけれども、これでも切り詰めてはいるし、外食やデリバリーといった大きな金額はありがたいことに冨岡先生が負担してくれている。

これ以上出費を抑えるというのは、土台無理な話だ。

そうすると少しずつ預金を切り崩すか。

いや、それも現実的じゃなく、ただのその場しのぎだ。

数ヶ月は持つにしても、貯えがなくなった時がいよいよ悲惨なことになる。

正直、充分と言える額でもないので、できればこれからも貯蓄は続けていきたい。

となると…。

冨岡先生にありのままを話すしか、現状を打破する道は残っていない。

要は月にこれだけの収支があることを説明し、足りない分を補ってもらう。

そうじゃないと、金銭的にこの生活は続かず、頓挫するだろう。

それでも開示することに気は進まないのは何ていうか、あまりにも現実的だからだ。

付き合って1年にも満たないのに、それはアリなのだろうか?なんて甘いことを考えてしまっている。

だけどもう、それは紛れもなく生きていくための選択なので、溜め息をひとつ吐いて、覚悟を決めた。


お風呂から上がったジャージ姿が、いつもと同じように椅子に腰掛けたことで、濡れて重くなった髪を目の前で見る。

「ドライヤー、かけます?」

そう提案すれば、目はすぐにキラキラと輝いた。

「かける」
「ちょっと待っててくださいね」

洗面所へと向かい、それを片手に戻ってきたところで見える背中はウキウキしているようにも見える。

「…犬ってドライヤー好きでしたっけ?」

冗談混じりに言えば、

「俺は好きだ」

真剣に返されて、また笑ってしまった。

「かけますね」

そこからは風の音だけが響く。
重たい髪の毛がちょっとばかり軽くなるまで、どう話を切り出していいかを考えていたように思う。

あと、ほんのちょっとの恨み辛み。

はぼ無理矢理とはいえ教務主任という役職に就かせたのなら、もう少し待遇が良くてもいいのではないかという不満はどうにも沸き上がる。

去年はともかく、今年もなにひとつ数字は変わらない。

明細を見ると、どうにも割に合わないと思いはする。

それでも何とかやっていけているから、有難いと思うべきなのか。

「冨岡先生」

ドライヤーのスイッチを切ってから、名前を呼んだ。

「折り入ってお話があるんですけど」

自然の流れで出したかった話題だけれど、この人のことだ。私が構えているのを見抜かれていてもおかしくない。

「結婚のことか?」

振り向いたその真剣な表情に、目が点になってしまった

一緒に住むという話は確かに出ていたけれど、そこまで進んでいたっけ?
…いや、いなかった気がする。

「まぁ、ゆくゆくはそこに繋がる話です」
「聞こう」

促されて、自分の椅子へと戻ったのはいいけれど、これで違うと言っていたらどうなっていたんだろうかなんて少し気になった。

そんなことより、どう話を切り出そうか。

今更考えても仕方がないと、小さく息を吸った。

「毎月の生活にかかる諸経費の話です」

どうにもこう、改まると堅苦しくなる癖は抜けないらしい。

「実は、お恥ずかしい話今日はっきりと気が付いたことなのですが、最近出費が増えまして…」
「……俺がいるからか」

察しが早すぎる。まぁ、でもすぐに気が付くとは思ったけれども。

「大人2人では物理的に倍になりますからね。そこで提案があります」
「わかった。少し待ってろ」

突然立ち上がったかと思えば、玄関を出て行く背中に呆気に取られてしまった。
しかも靴箱に置いてあるこちらの鍵を手に、きちんと施錠していくものだから余計に。

何を考えているのやら。

スマホを見せようとしたまま固まる手を一度下げて、ひとまず帰りを待った。

その間に、節制できる箇所をもう一度確認してみる。

記録された画面を動かしてみて、一番気になるのはやっぱり光熱費だ。

冨岡先生と一緒に住めば、二重に支払わなくていいという利点はある。

しかしそれだけで同棲を決めるわけにもいけない。

正直言えば、もう少しロマンというものが欲しいというのが本音だ。

実家への送金を少し減らしてもらうか。

いや、それも万が一の時を考えたら後悔する時がくる。

ただでさえ私が送ったお金は使わず、というか使えないで貯蓄していると言っていたから、少しでも多くの貯えはしておいてほしい。

ただでさえ弟はこれから学費やら何やらで出ていくお金が多いんだから。

そこまで考えてから、おもむろに顔を上げた。

……。少しばかり遅いのではないか。

そう思った瞬間、鍵が動いて、少しドキッとする。

開けた主は紛れもなく冨岡先生なんだけど、こういう出迎えはあまり慣れない。

「…どうしたんですか?突然いなくなりましたけど」
「探すのに手間取った」

そう言いながら椅子に腰かけるまえに目の前に差し出された通帳と印鑑。

しかもひとつじゃない。

「…何です?これ」
「家中の預金を探してきた。全て名前の好きに使っていい」
「いえ、いいです。大丈夫です。そういうことではなくてですね」
「特にこの定期は俺が生まれた時から貯めていたものらしい。結構な額が入ってる」
「だからそういうことじゃないんですってば。ご両親が残してくれたものですよ。大事にしてください」
「名前なら大事に使ってくれるだろう?」
「いえ、だからそういうことではないんです」

さっきと同じ台詞しか返せない中で、見せられたページに確かに結構なかなか、と納得する自分へも突っ込みを入れたくなった。



だからそういうことじゃなくて



(何で問答無用で全財産を寄こそうとするんですか…)
(暗証番号は)
(言わなくていいです!)


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