夏の暑さが和らいで、どこからともなく秋の匂いがし始めた。 毎年恒例の文化祭の準備に向けキメツ学園全体が動き出したことで、自然と1年前を思い出してしみじみしてしまったのは、 "じゃあ水曜日に。楽しみにしてるね" 今しがたLINEを送った相手の笑顔が浮かんだためだ。 月に1回、いつものファミレスでいつものハンバーグを食べる。 いつの間にか習慣となったそれは冨岡先生にも認められていて、最初こそ事前に貰っていた承諾は、いつの間にか決定事項で伝えても抗議すらされなくなった。 今回も彼と2人で会う日を決めたので、あとでその旨を伝えようと、ひとまずスマホを消す。 体育講習で珍しく私より遅い帰宅となるので、すぐに食べられるよう夕飯を用意しながら、ああ、もう1年か、なんて、またしみじみした。 去年の今頃の私が、今の私を見たら相当に驚くだろうし、信じられないとまで思うかも知れない。 それは全ての事象において。 一番吃驚するのは、またあの子と笑い合えるようになったことだろうか。 最初こそ罪悪感からぎこちなかった距離も、1年が経つとなれば、少しは慣れてくる。 敬語を使う頻度が減った私に彼は、こう言った。 『何だか、前の苗字先生みたいで嬉しいです』 それを聞いて複雑な気もしたけれど、本人が嬉しいと感じてくれたならそれに尽きる。 昔の自分を思い出すと、随分と青臭い理想論ばかり振りかざしていたことを思い出してしまって、胸は痛むけれど。 ピンポーン、ピンポーン。 考えている間に鳴ったチャイムに、モニターを確認するまでもなく玄関へと向かった。 『おかえりなさい』なんて私が言ったらどんな顔をするかな。ニヤつきそうになってしまったせいで、目の前に広がる光景にどんな表情をしていいのか全くわからなくなってしまった。 「……。何してるんですか?」 いや、訊かなくてもわかるけど、状況が状況だけにすんなりと飲み込めない。 「見ての通りだ。猫パンチを喰らってる」 確かにそう。 茶色い…、いやこげ茶?の縞々が入った前脚が、見事にその頬を押さえ付けている。 「いえ、そういうことではなくてどうしたんですか?その猫」 見れば結構な泥に塗れているし、その身体を抱えている両腕は相当格闘をしたのか広範囲に渡って汚れていた。 「拾った」 「駄目じゃないですか」 つい間髪入れず突っ込んでしまう。 いや、だけどいくらなんでも飼えないとわかっているのに連れてくるのはそれこそ残酷なことだ。 かといって、元の場所に戻してこいとは言えないのが難儀なところ。 「弱ってる。見てやってくれ」 「私はしがない教員で獣医ではないので無理です。見たところすごく元気に暴れていらっしゃいますが。必死に逃げようとしてますよ。大丈夫ですか?顔ひっかかれてるじゃないですか」 「用水路で溺れかけていた。恐らくかなり水を飲んでる」 「……そうなんですか?」 となれば話は変わってくる。そう言いたいけれどやはり専門ではないので、今この時どうしたらいいか、判断が難しい。 それに子猫とも言い難い大きさに、だいぶ触るのを躊躇してしまう。 「…ゲポッ…」 動いた喉のあと、吐き出される水に血の気が引いた。良く見れば身体も小刻みに震えている。 「タオル持ってきます!」 「その間どうすればいい?」 「身体を覆って温めてください!出来るだけ体温を下げないように!」 咄嗟の指示が正しいかどうかもわからないまま洗面所に向かう。 ひったくるように手にしたタオルを片手に戻ってから、 「冨岡先生!その子を…」 言い掛けた台詞は、また目にした光景で能面になった。 「……大丈夫ですか?」 今度は額を押さえ付けている前脚と、拮抗状態を保っている飼い犬はどうにも間抜けに見える。 「吐いたら楽になったらしい。また暴れ出した」 「…それなら良かったですけど」 それでも解決したわけではないので、改善には尽力しようとタオルを両腕で広げた。 「失礼します」 暴れられるのを覚悟で包んだ小さな身体は、想像より軽くて柔らかい。 「ぐぅん」 大人しくタオルに包まれては喉を鳴らした姿に、可愛い。その一言が浮かんだ瞬間、飼い犬の愕然とした顔を見てしまって、これはまた面倒なことになる。 そう確信した。 good boy 「俺が見たのはそれが全てだ」 着替えたばかりのジャージ姿で胡坐を掻き、髪をタオルで拭く動作と声は面白くないと伝えてはいるが、おかげで概要は掴めた。 始まりは、帰り道で聞こえた小さな鳴き声。 子供のものかと思ったそれは、猫だったという。 そして、用水路に落ちている姿を発見し、保護した。 それ以上の情報は今のところない。 「わかりました」 返事をしてから、膝の上に収まる小さな存在に目を向ける。 飼い猫なのか野良猫なのか。それによってまた変わってくる。 いや、どちらにしても今最優先なのは他でもない。 冷えた身体を温めつつ、今すぐ看てもらえる動物病院を探すことだ。 人肌に温めたお湯を入れたペットボトルを傍らに置いたところ、震えは落ち着きはしたけれど、いつまたさっきのようになるかわからない。 このまま容体が急変してしまったら。そう想像しただけで恐ろしい。 身体を撫で続けるのは、もはや生存確認に近かった。 空いた片方の手で、近隣の動物病院を検索する。 「これからどうするつもりだ?」 恨めしそうに見てくる飼い犬が大人しいのは、この状況が自分が招いたものだとわかっているからだろう。 今ここで「俺も膝に乗りたい」なんて言われた日には本気でお帰りいただいてるところだ。 「病院を探してます。ひとまず異常がないか見てもらって…」 自分で言いながら、そうしてどうするのだろうと考える。 思い付くのは警察に届けることくらいだ。 迷い猫だった場合だったら、どうにか飼い主を見つけるという目的ができるけれど、もしも野良猫だったら? グルグルと大きく鳴る喉を摩れば、押し付けてくる顔に多少なりとも胸が痛んだ。 野良猫だったなら、里親を探せばいい。 幸いにも教師故人脈はあるし、悲鳴嶼先生に相談すれば何とかなる気がしてる。 それなら目の前のことを解決しようと、スマホに集中した。 その間にも羨ましそうに見てくる群青色には気が付いていたので口を開く。 「どうして拾ってきたんですか?」 決して責めてるわけじゃない。 だけど、多少弱っているとはいえ暴れる猫を保護するのは、正直骨が折れたはずだ。 それなのに自分が傷だらけになろうとここまで運んできたのは、この人なりに何らかの理由がある筈だ。 「そのまま放っておいたら死ぬと思った」 「それだけですか?」 随分とまぁ、単純だなと思ってしまった。 「悪いか?」 「いえ、悪いどころか尤もな行動だと思います。ですが、あそこまで暴れていたなら元気だと判断して逃がしませんか?」 「名前に見せたかった」 「見せられても…、ここでは飼えないんですよ?」 一応穏やかに諭してはみるけれど、消沈していく顔にはどうも溜め息が出てしまう。 「義勇」 動けない代わりに名前を呼べば、その意図を読んで差し出される頭を撫でた。 「偉いですね」 「そう、言われたかった」 擦り寄ってくる頭を受け入れようとした瞬間、 「シャーッ!」 威嚇と共に鋭い猫パンチがさく裂する。 幸い寸でのところで避けたため、これ以上顔に傷ができることはなかったけれど問題はそっちじゃない。 「何故俺にだけ攻撃する?」 明らかに不機嫌になる飼い犬だ。 「無理矢理捕まえられたと思っているのかも知れません」 「お前を気に入った可能性もある」 「そうだとしても焼きもちは妬かないでくださいね。連れてきたのはご自分ですよ?」 ぐっと押し黙る喉に軽い溜め息は出たものの、赤く線状に伸びた傷が目立つ頬に触れる。 「綺麗な顔に傷作ってまで頑張ったんですから、敵視しないでください」 本人は決して口にしないけれど、きっと必死だったのだと思う。 それは玄関を開けた時の表情で伝わった。 だからこそ、戻してこいとも言えなかったのだろうと、今になって思い返している。 「忘れないうちに消毒しましょうね」 タオルをかじっている猫を抱き上げようとしたところで、ぐんと迫ってくる顔に眉を顰めた。 「また引っ掛かれますよ?」 「顔だけしか近付けていない。これなら届かないはずだ。それより綺麗な顔と言ったが」 「……。言いました」 「いつもそう思ってたのか?」 質問の意図がわかりかねるので身構えてはしまう。 ここで暴走されると非常に面倒だ。 「いつも、は、まぁそうですね。いや、いつもでもないですけど」 考えて出したつもりの返答は、どうにも自分でも要領を得ない。 ほぼ無意識だったせいか、こうして真剣に見つめられるとちょっと意識するものがある。 「冨岡先生は美形だと思いますよ?あまり自覚はないでしょうが」 「この猫とどっちが可愛い?」 「また変なところで張り合いますね……」 そうは言いつつ、これまた思い当たる節もある。 一目見た時、私は思った。 すごく綺麗な子だ、と。 目もパッチリしていて鼻筋も通っている。正直こんなに整っている猫は初めて見た。 その思考を冨岡先生は私の言動から見抜いたからこその質問なのだろう。 「義勇が一番よ」 鼻筋を指先で撫でれば、目が細くなった。 納得はしていただけたらしい。 「だから消毒しようね」 何がだからなのかは私自身良くわからないけれど話を戻せば、 「名前が舐めればすぐに治る」 また良くわからないことを言い出すものだから、犬を諭すのも骨が折れるな、なんて考えてしまった。 * * * どうにも冨岡先生と話してると物事が進まない。 病院を探していたはずのスマホが真っ暗になってしばらくしてからそれを痛感した。 それと同時に、全く知識を持たない中での病院探しは効率がいいと言えないことにも気付いて、素直に人脈に頼ることを選んだ。 突然の電話にも、突拍子もない内容にも全く嫌な素振りひとつせず丁寧に応対してくれた悲鳴嶼先生には感謝しかない。 今度、日々のお礼に猫グッズなるものを献上しようと決めつつ、教えていただいた通りのことを今実践している。 「…本当にこれっていいんですかね?」 隣にいる人物からは正確な答えが返ってこない。わかっていても訊ねたくはなる。 「大人しくはなってるな」 思わずマジマジと見つめてしまうのは、冨岡先生も同じ。 そこには洗濯ネットで包まれた猫。 包まれたというか、私が包んだ張本人なんだけども。 ケージもキャリーもないこの状態では、それがベストだと教えてもらった。 「とにかく、行きましょうか」 この状態を長く観察するのも罪悪感が生じるので早々に大きめな鞄へと入れる。 猫は周りが見えない方が安心する。それも悲鳴嶼先生に教えてもらったことだ。 「荷物は俺が持つ」 「ありがとうございます」 大元を作ったのはこの人なんだけど、そのさりげない気遣いにひとりではないという大きな安心感は得た。 慣れない場所に訪れるのは、それがどこであれ、大なり小なり勇気がいる。 "動物病院"と掲げられた看板を前に若干尻込みをしてしまうのは、そこが私にとって完全なる未知の世界だから。 悲鳴嶼先生が「悪い評判を耳にしたことがない」と教えてくれたそこも、本当に飛び込みで診てもらえるかの保障はない。 それでも一歩踏み込まなければ始まらないと足を動かした私の心中を察してか、タイミング良く扉を開けてくれた冨岡先生はやっぱり紳士だと思う。 「ありがとうございます」 進んだ先には受付の文字と共に、「こんにちは〜」とにっこりと微笑む女性がいた。 同じ笑顔に「お大事にどうぞ〜」と見送られ、そこを後にしたのは1時間ほどが経過してから。 全く勝手がわからないこちらの狼狽など、どこ吹く風といったように診察から会計まで、滞りなく進んだ。 猫が保護される案件も珍しいものではないらしく皆まで言わずとも、状況を察してくれたので正直すごく助かった。 「これからどうしましょうか」 しかしそれでも、洗濯ネットに包まれた猫を抱えて途方にくれるのは変わらない。 むしろ状況は更に複雑化したと言える。 発達具合から推定で生後半年ほどであるだろうと判断されたが、全体的に身なりが整っていることから迷い猫、あるいは捨て猫の可能性が高いことを告げられた。 「毛並みもいいし肉球の感じもそうだけど、室内猫だったんじゃないですかね?爪も切った後があるしなあ」 そう言って取り出した掌サイズの機械をおもむろに猫の頭に当ててから、 「マイクロチップは入ってないか〜…」 残念そうに言う姿に、悲鳴嶼先生の言葉を思い出す。 "マイクロチップが装着されていれば飼い主情報がすぐにわかる" しかしその期待は一瞬で打ち砕かれた。 そして、病院はあくまで診療を目的とした施設なので保護はできないという結論に至り、私達はひとまずこの猫を家に連れて帰らざるを得ない。 だからこその"どうしよう"だ。 ついでに言うと、動物の病院代というものを完全に舐めてかかっていたというのも。 この間出したホテル代の返済だと、冨岡先生が出してくれたのは素直に有難かったけれど、これもまた結構なお値段だった。 健康上の問題はないという安心感が得られたのはプライスレスなのかもしれないけれど、こうもまとまった金額が出ていくとなると、やはり動物を飼うのは現実問題、無理という結論にも至っている。 そうなると、抱えている鞄をじっと見つめている"飼い犬兼恋人"の存在は、すごくいいとこ取りな気もしてきた。 「このまま捨てるという選択肢はないんだな」 目が合った群青色が、どんな感情でそう言ったのかは一瞬では考察できない。 「それはさすがにないですね」 だけどそれしか答えは出てこなかった。 それが出来るのならこうして病院に連れてきてもいないし、そもそも家に上げてもいないだろう。 しかしそれはそれで"飼い犬"は怒り出すだろうかと思いきや、モゴモゴさせる口に疑問が沸いた。 よくわからないけれど、確実にソワソワし始めてる。 「……。どうしました?」 「……、か?」 「はい?」 か細過ぎて聞き取れなかった声は、 「その猫、飼わないか?」 今度はハッキリとそうおっしゃったものだから、耳を疑ってしまった。 それ本気で言ってる? (誰がですか?) (名前と俺だ) (…いや、え?ちょっと待ってくださいね。状況を整理するんで) [ 186/220 ] [*prev] [next#] [mokuji] [しおりを挟む] [back] ← ×
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