good boy | ナノ
むせ返るような暑さが少しだけ和らぎ始めたころだ。
テレビから流れる花火中継をぼんやり眺めながら、コップに数cmほど残っていたコーヒーを飲み干す。
カランッと音を立てる氷で夏らしさを感じた。

「綺麗ですね、花火」

次々と上がっていく大輪は、きっと肉眼で見たらもっとそう思うのだろう。

リビングの定位置に座る存在に話し掛けたはずなのに、当の本人はテーブルに顎を乗せたまま何やらブツブツ言っている。
その表情たるや、不満の二文字を見事に表していた。

同じコップに入った残り少ないコーヒーを見止めて、

「もう1杯飲みます?」

そう訊ねてみても返答はない。

それも仕方がない。今のこの人は、多分"犬"だ。
言うなれば飼い主に散歩に連れていってもらえない犬。

「…花火も…水着姿も見られなかった…」

辛うじて聞こえた呟きに、溜め息よりも苦笑いが零れる。
もうすぐ夏季休業が終わるという事実に気付いた先ごろから、ずっとこんな調子だ。

付き合って初めて迎える季節なのに、ロクに夏らしいことができなかった。

それが今の冨岡先生の不満であり、絶望らしい。

最初こそ「また来年もあるじゃないですか」「旅行には行きましたよ」などと励ましの言葉もかけたけれど、一向に立ち直る様子がないので、ひとまず落ち込んだままにさせている。

しかし、そろそろ本気で帰還を促した方が良さそうだ。

何を言えば効率的にこちらへ戻すことができるか考えていたところで、鳴り出したスマホに視線を落とす。

不死川先生だ。

音声通話に珍しいと思う反面、多分用があるのは私ではなく一緒にいる人物なのだろうと気が付いた。

「もしもし、お疲れ様です」
『あ?苗字?悪ィな休みのとこォ』
「いえ、構いません」

そのまま冨岡先生がいることを告げようとしたけれど、

『明日お前暇?』

そう言われて、しばし固まる。これはまた、とても珍しいことだ。まぁ、不死川先生のことだから何かしらの意図があるのだろうけれど。

「用件によります」

だからそう答えれば、機械越しの溜め息が聞こえた。

『言うと思った。今冨岡は一緒かァ?』
「一緒といえば一緒ですが、一緒じゃないといえば一緒じゃないです」
『は?』
「ちょっとご自分の世界に入ってらっしゃるので」
『あァ。そういうことなァ』
「代わりますか?不死川先生なら戻ってくるかも知れません」
『いや、いいわァ。それより明日バーベキュー来ねェ?』

これはまた、すごく珍しい。
思わず言葉に詰まった間で、向こうから聞こえてくるのは朗らかな数人の笑い声だ。
多分、弟さんか妹さんか。わからないけれど、在宅しているのは確かだろう。

『さっき煉獄たちとそんな話になってよォ。どうせならお前らも来ねェかなって思ったんだが』

途中で切れる語尾で、半ば諦めに近いものを感じる。
今までの私なら"行かない"。その一択だっただろうし、不死川先生なら容易にそれを予測しているだろう。

だけど、未だに顎をつけてふてくされている犬の帰還が見込めない今、これはある意味、蜘蛛の糸に近いものなのかも知れない。

「夏っぽいですね」
『アァ?』

完全な独り言のつもりが拾われてしまったのですかさず続ける。

「参加させていただきます」

そう答えたのは、しゅんとしたままの犬に対する救済処置みたいなものだと思うことにした。


good boy


不死川先生との通話を切って、すぐにLINEを確認する。

『詳細はグループLINEに載ってから見とけェ』

最後にそう言ってくれたことで初めて通知が溜まっていたことを知った。
遡ればそれは丁度シャワーを浴びた後の夕飯時だったので、ここに置きっぱなしだったスマホが鳴っていても気が付く筈もない。
冨岡先生に至っては、スマホ自体を506号室に置きっぱなしなので論外だ。

だから連絡がつかないと不死川先生から連絡があったのかと思ったけれど、それもどうやら違ったらしい。

最初こそ新学期の準備について話していた内容も、お盆休みについての話になり、

"夏らしいことをしてない"

誰かが言ったその一言で話題はバーベキューの実施へ向けて動き出した。

最後まで読み終えて、時間と場所を反芻する。

11時頃に電車で二駅ほど行ったところの河川敷。

さすがにキメツ学園の教師陣がすぐ近くの河原でバーベキューをしていたとなると色々な問題が起きるということで、少し距離がある場所を選んだらしい。

こういう時、不死川先生は勿論、悲鳴嶼先生も宇髄先生も頼りになる。

これまでの経験も手伝って、紛れもなく常識人だからだ。


「冨岡先生」
「不死川と何を話していた?」

名前を呼んだのと同時、いや、多分それより早い発問に少し考えてしまう。
いつからご帰還なさっていられたのかということを。

「バーベキューに誘われました」
「駄目だ」
「脊髄反射で答えないでください。冨岡先生もですよ。夏季休業の最後にキメツ学園の教師陣で夏らしいことをしたいという発案で開催に至ったそうです」

一瞬上がった眉は、訝し気なものへと変わっていく。

「胡蝶がいるから行きたいのだろう」

尖らせた口に笑っていけないとわかっていても可愛く感じてしまう。

「それはまぁ否定はしませんが、飼い犬が"夏らしいこと"ができなかったとふてくされていらっしゃったのでせめて、と思ったのですが嫌ですか?」
「嫌じゃない。行く」

即答されたことには、幾許かの安心も得た。
じゃあ、と口にする前に攫われる左手を目で追う。

「今度こそ指輪は着けていくだろう?」
「……それは」

じっと見つめてくる瞳はそれこそ犬の懇願のようで、小さく息を吐いた。

「わかりました。着けましょうね」

根負けしたように従ったのは他でもない。
薬指に光る指輪をまだキメツ学園でしたことがないからだ。

正式な夫婦になったわけではない。それが一番の理由。

いくら私達の関係が公になっているとはいえ、あまり目立つようなことをすれば自ずと敵を増やすことになる。
保護者のひとりが教育委員会にクレームを入れようものなら、今までのような生活ができなくなるのは明白だ。

それに、実家で紛失しかけた出来事も手伝って、仕事中は外しておきましょうといった旨を伝えたところ、冨岡先生も渋々だけど受け入れてくれた。

だから明日は、着けることを希望している。仕事ではなく、休日だからだ。

所望する気持ちがわかるので、素直に従うことにした。

「今日は泊まっていきますか?」

コップを片付けながら定番になった質問をしてみれば、その瞳は悩むように動く。

「今日は帰る」
「わかりました」

スマホも置いたままだし、明日の準備もあるだろう。
納得だけを返して靴を履く背中を見つめた。振り返ったあと、

「ん」

催促する口唇に、背伸びをして口付ける。
もはや習慣となっているためか、最初よりそこまで恥ずかしくもなくなった。

「おやすみなさい」

頭を撫でるのも自然な動作で、そうやって目を細める満足げな表情も見慣れたといえば見慣れたものになっている。

「明日の名前を楽しみにしてる」

唐突にそれだけ言って帰っていくものだから、意味を考えてしまった。

夏らしいことができるから楽しみなのではなくて、"私を楽しみにしてる"?

寝室へ入ってからベッドで横になる犬のぬいぐるみを見て、おもむろに抱き締める。
"隣人ごっこ"をしてから、ここが定位置になったおかげか、冨岡先生本人がいない夜も、そこまでひどく寂しいと思う日は少なくなった。

一緒に住んでしまえば、この別れ際の侘しさもないんだろうな。

そこまで考えて、さっきの言葉の意味を理解した。

冨岡先生にとって、多分明日のイベントごとは新鮮なもの。
いつだかも言っていた。"待ち合わせ"から楽しみたい。そんなようなことを。
だから今日は大人しく自分の部屋に帰ったんだ。

明日の私に会うために。

正確な答えかどうかはわからないけれど、多分近いものだと確信してる。

そうなると、少しばかり身なりに気合いを入れたほうがいいのかもしれない。でもそれはそれで他の男に見られるだのと暴走が始まる気もしなくもない。

とにかく明日、起きてから考えればいいか。

2号から香ってくる冨岡先生の匂いに眠気を誘われ横になる。

明日、楽しみだな。

素直にそう思ったのはきっと眠りに就く直前だったから。そういうことにしておく。

* * *

寝ている時ほど時間が経つのが早いものはない。
いつの間にか朝だと気が付いたのは窓から差し込む光だけど、目覚ましなしに起床したのはこの日差しによってじゃない。

ピンポーン、ピンポーン。

さっきから何度も鳴り響いているこの音だ。

お陰で飛び起きる羽目なったけれど、すぐに冷静に考えて訪問者を割り出す。
2回のチャイムはマンション内。
そうなると常識なく鳴らしまくってる人物の心当たりは1人しかいない。

念のためモニターを見て確信を得て、玄関へ向かう。

一体なんなのか。

非常事態なのかもしれないとスマホを見ても連絡の一切もなかった。
もしかして連絡する余裕がないほどの用件?

「……おはようございます。そんなに鳴らさなくても…」

寝惚けてるせいで思考が追い付かないまま、強引に開け放たれる扉で更に困惑する。
思いっ切り抱き締められる、というか拘束に近い腕の力にも。

「どうしたんですか…?」
「……名前っ!」

頭上から聞こえる呼び掛けにドキッとした。こんな必死に名前を呼ばれるのは、それこそ最近じゃ行為中の時くらいで…

「いなくなったのかと、思った……」

一瞬弱まったはずの力はまた一気に強くなる。

「いなくなるって、私がですか?」

訊き返してみたが、まぁ九分九厘そうだろう。
でなきゃこんな存在を確かめるような抱き締め方もしてないはずで、ピンポンを連打してきたのも納得がいく。早朝はさすがに勘弁してほしいけれど。

「名前が俺を捨てた」
「捨ててません。そんな非情なことさすがにしませんよ」
「捨てられる夢を見た」
「……。あぁ、そういう」

ようやくこの行動の一貫性が見えてきたところで、そろそろ骨が痛くなってきた。
離してくれるよう頼んでも、この状況じゃ無理な話だろう。ひとまず気持ちを鎮めないと。

「怖かったですね」

よしよしと頭を撫でてみる。

「もう、どこにも行くな」
「もうも何も最初からどこにも行ってませんよ?大人しくベッドで寝てただけです」
「俺も一緒に寝る」
「まぁ…、いいですけど、じゃあ一回離れましょうね」
「離れたくない」

更に締まる腕に、息が止まりそうになった。

「力は弛めていただけませんか…?ちょっと意識が飛びそうなので…。あと靴を脱いで上がってください」

無言ながら、従ってはくれるらしい。
踵を返せば後ろから覆いかぶさるようについてくる行動はやっぱり犬だと思う。

容赦なく掛けられる体重をどうにか引き摺りつつ、寝室へと向かった。

「どうぞ」

座るように促したつもりだったのに、こちらを巻き込んで倒れ込むのもある意味犬みたいだ。
怯え切っている様子に、頭を撫でつつあやす。

「一体どんな夢を見たんですか?」
「言いたくない」

胸元に擦り寄ってくるのも、やっぱり犬にしか見えない。
しかし夢を見ただけでここまで落ち込んでしまうなら、何かしらの理由をつけて一緒に寝ようと誘うべきだったか。

声を掛けるより、体温で伝えようと抱き返すと頭を撫で続ける。
そうすることで徐々に身体の力が抜けていくのを感じた。

「夢の中の名前は、怖かった」
「……どんな風に怖かったんですか?」
「言いたくない」

これは…、結構なトラウマを植え付けられたのか。
たかが夢だといえど、妙にリアルな上に、起きた時の心労は相当なものだろう。私も何度か経験があるので、察して余りある。

なので沈黙を貫くことにした。

そうすることで、ゆっくり吐露されていく言葉たちをただ耳に入れる。

「まさか名前があんなことを…」
「いや、俺が悪かったのか」
「本当に愛想を尽かされたのかと思った…」

重苦しい溜め息とは反対に、出そうになる笑いを堪えるのが精一杯だ。

そこまで不安になるほど、私という存在に重きを置いてくれている。こうやって再確認するたびにやっぱり嬉しくなる。

当の本人はそれどころじゃないというのはわかってるので、口元に力を入れて我慢はするけれど。

ただただ頭を撫で続けたことで落ち着いたのか、顔が上げられるころにはいつもの表情に戻っていた。

「……。恐ろしい夢だった」
「そうですね。とても怖い夢ですね」

寝直そうにも完全に目が覚めてしまった今、寝付くまでには時間がかかりそうなので意識を変えてみる。

「少し早いですけど、朝ごはんにします?」

多少なりとも気が紛れるだろうと提案すれば、再び埋めてくる顔で拒否という意思を悟った。

「じゃあ時間になったら起こしますね」

このままこの人が少し眠れるのならそれでいいか。なんて甘いことを考えて添い寝に徹しようとした。

「……時間?」
「忘れました?河原でバーベキューですよ。行くんですよね?」

そう言った瞬間に腕の力が強まったものだから、多少驚きはしてる。

「行きたくない」

これはまた、駄々っ子が始まってしまった。
それどころか服の中に侵入してくる手に困惑する。
捨てられたという夢から考えるとその行動は理解もできるし、今日はどこにも出掛けたくないくらいに意気消沈しているとなれば、納得もできる。

だけど、それとはまた違う気がして仕方がない。あくまで勘だけど。

「…名前の全部が欲しい」
「だからそれは無理な話ですって」
「思考も全て俺のものにしたい」

元々自尊心があまり強くない方だけど、何故こんなに殺気立ってるのか。

「義勇」

ホックが外される前に制止したあと、顔を覗き込んだ。

「何を隠してるの?」

敢えて強い口調で訊ねれば、下がっていく眉には申し訳ないとは思うけど、そのまま続けた。

「どんな夢を見たのか教えて?」

私が冨岡先生を"捨てた"だけなら、こんなに尾を引くはずがない。それ以上のことを見た。もしくはその理由がこの人にとって耐えがたいものだった。
でも、想像するにもさすがに情報が足りない。

「……。お前が」
「私が?」

観念したように視線を落とす瞳をじっと見つめた。
それでもすぐにハッとしたように顔を上げる。

「言いたくない」

参った。夢の私は相当な何かをしでかしたらしい。

また強くなる腕の力に、ぐえ、と潰れた声が出たのも気にしていられない。

しがみつくくらい辛い思いをした。
たとえ夢であろうがそれを無理に聞き出そうとするのは私の自己満足にしか過ぎない。

「……。やっぱり今日は家でゆっくりしましょうか」
「いいのか…?」
「構いません。不死川先生にはあとで連絡しておきます」

理由がどうあれ行きたくないと言っているのに無理強いもできない。
こうやってくっつくことで安心するなら、それが一番だ。

そう思ったら少し心の余裕もできて、撫でる手はさっきより優しいものになっていく。

それなのに、

「いや、やはり行く」

突然起き上がるこの人は何を考えているのか、全く読めない。

「大丈夫ですか?」
「あれは夢だ。名前じゃない。現実のお前は俺のものだ」

まるで言い聞かせるようにブツブツ言いながら洗面所に消えていくフラフラな背中を見送りながら、大丈夫じゃないんじゃ、と若干心配しながらも見つめた。



どんな夢を見たらああなるのか


(お帰りなさい。…って冨岡先生)
(準備は出来た。行こう)
(前髪水浸しですよ。また髪留め使わないで顔洗いましたね)


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