懐かしい匂いの中で、温もりに包まれながら眠ったからか、鮮明に過去を思い出した。 多分、それは微睡みの中で見たもので、起きた時にはもう何も憶えてなかったけれど、"幸せだった"という実感だけは、今も言い得ない温かさを心に残してる。 そろそろ起きようかと動かした頭は、 「名前…」 寝起き特有の掠れた声で止まった。 「…おはよう、ございます」 抱き締められる腕の強さに何事かと怯む間もなく、太腿に感じる硬さに眉を寄せた。 「……どうしたんですか?」 「どうしたもこうしたもない。朝勃ちだ」 「…いえ、そういう現象の解説ではなくて」 たまにこうして一緒に眠ると、そういったことが起きると聞いたのはいつだったか。 男性にとってそれが自然なものだというのも教えられ、納得もした。 だから、そこに関しての疑問ではなく、 「妙に嬉しそうですね」 何となく感じたその雰囲気。 朝方にこんなに機嫌がいいのは、なかなかあることじゃない。 「妙に、じゃない。至上の嬉しさを噛み締めてる」 「…何かあったんですか?」 これでもかと頭を撫でてくる力には、身を縮めたくなる。 「さっき擦り寄ってきた名前が最高に可愛かった」 「……。擦り寄りました?」 「あぁ、寝惚けながら俺に身体を預け言った」 憶えてないせいで、なんとなく身構えてしまう。 「お父さん、と」 それを聞いた瞬間、一気に顔が熱くなっていく。 「恥ずかしがることはない。俺はこれから飼い犬兼恋人兼飼い主兼婚約者兼父親になる」 「いや、ならなくていいですよ…。またカオスじゃないですか」 「名前の父親か…。可愛い娘を持てて幸せだ」 共に出される含み笑いに、何か不気味なものを感じるのは気のせいじゃない。 「ちょっとやめてくれませんか?怖いんですけど…」 「怖がる必要はどこにもない。飼い犬と恋人では踏み込めなかった部分も親なら都合がいい。これからは父親として降りかかる全てからお前を護る」 「……今でも充分すぎますし、その情熱は私ではなく、将来産まれるかもしれない、まだ見ぬ我が子に向けてほしいんですけど」 冨岡先生がお父さんとか、娘になる人はさぞかし大変そうだ。そんなことを他人事みたいに考えてみる。 「……。そうか。子供を作ればいいのか」 「…どうしてそうなるんですか?」 「名前にお父さんと呼ばれたい。子供がいれば自然とその呼び名になるだろう」 「動機がこれほどまでになく不純ですね」 「これも勃ってる。丁度いい」 「丁度良くないですよ。ピル飲んでるんですから無理です」 「やめればいい」 また無責任な…。 思わず溜め息混じりに言い掛けた言葉は、一呼吸置く間もなく呑み込んだ。 この人が無責任なことなど、これまで一度だって言ったことがないのを知っている。 「その人生設計はもうちょっと先の話ですね」 だからそう答えた。 途端に止まる動きに、苦笑いをしてからその腕から抜け出す。 「楽しみにしてますよ。お・父・さ・ん」 敢えて強調した呼称を耳元で囁けば、覆いかぶさってこようとする身体をすんでで交わした。 私も少しは、冨岡先生の行動パターンが読めてきた気がする。 嬉しくなったのも束の間、 「……。家に帰ったら覚えておけ」 拗ねた犬みたいに本気で吐かれた恨み節は恐怖しかないので、聞こえないふりをした。 good boy 「やっべぇ!めっちゃカッケー!」 目をキラキラさせて、目の前の商品を食い入るように眺める弟を少し遠巻きに見つめる。 生意気にはなったけれど、何だかんだ言ってまだ子供だなと思うので、大きな独り言については注意しないでおいた。 「どれにしよっかな〜」 ひとつひとつ確認していっては品定めする姿は多分、決まるまで相当な時間を要するだろう。 静かにその様子を眺めている横顔に視線を向けた。 「冨岡先生も何か見たいものがありましたらどうぞ」 そう促してみれば、無言で店内に入っていく背中を見送る。真っ直ぐどこかに向かっていったけれど、何か気になるものでもあったのか。 不思議には思いながらも、いまだテンションを上げ続ける弟に苦笑いに似たものを零した。 実家の最寄り駅に近いこの商業ビルは、良く見知った場所。 そしてここに入るホビーショップのテナントは、小学生から通う場所でもある。 昔は目についたものを何でも欲しいと何度も寝っ転がって弟が泣き喚き、あの手この手で気を紛らわそうとしたものの、最終的には両親が折れ、買い与えていた光景が懐かしい。 「こっちか、こっちだよな」 そんな聞き分けもなかった子が今、ゲームで出てくる武器を模したおもちゃをひとつに絞ろうと真剣に選んでいる。 年齢でいったら当たり前のことなんだけど、成長はしたと実感していた。 「…どっちがいいと思」 振り返った瞬間、怪訝な顔をされたのに眉を寄せたけれど、 「……。アイツは?」 用があるのは私ではなかったことを悟る。 「お店の中、見に行ったけど?」 「なんだよ。どっちがいいか訊こうと思ったのに使えねーな」 ぶつくさ言いながら手にした外箱を熱心に向けられる瞳は、概要を読んでいるのが窺えた。 口は悪いけど、何だかんだいって冨岡先生に心を許してるんだろうなというのは伝わってくる。 それが顕著になったのは、仕事だからと家を出た両親を見送ったあと、私達も帰り支度をし始めた朝のこと。 相変わらずマイペースにゲームをしていた弟が、おもむろにヘッドフォンを外すと、 「これクリアできる?」 冨岡先生にそう問い掛けた。 ソロだのレベルだの、やり込んでいない私にとってはチンプンカンプンでしかない会話を交わしたあと、コントローラーを受け取った冨岡先生はいとも簡単にそれをクリアしてみせたのが、弟の心を揺り動かした大きな要因だった。 「何でそんな上手いんだよ!?」 わかりやすく興奮している弟に、当の本人は涼しい顔をしたまま答える。 「上手いわけじゃなくコツを掴んでいるだけだ」 「何それ!教えて!」 今みたいにキラキラした目は純粋そのもので、冨岡先生に懐いてる。瞬時にそう感じた。 元々は裏表がなく人懐っこい性格な子だから、その流れは納得できたんだけれども、 「冨岡先生、いつの間にかそのゲームにハマってたんですね」 ついその疑問が口に出ていた。 "togi"として登録した目的は、ゲーム自体を楽しむためじゃない。 だけど昨日今日の動きを見る限り、それはもう、とても慣れたもの。 コントローラーを握るのを見るのすら初めてだったから、余計に驚きを隠せない。 「ハマってはいない」 今しがた享受されたクリアのコツとやらを実践している弟の背中を見つめながら、 「このゲームに慣れていればこれから先、名前の力になる場面が出てくると踏んだからだ」 そう言い切った横顔は、あぁ、やっぱり冨岡先生だ、なんて嬉しくもなった。 「姉ちゃんは!?」 怒鳴りに近い声で我に返る。 「…え?なに?」 「こっちかこっちか!さっきから訊いてんだけど!」 不味い、過去を回帰していたせいで完全に自分の世界に入ってしまっていた。 すっかり不機嫌になっている弟をどうにか宥めなくては。 「見せて?」 険しい顔はされながらも、渡された玩具を見比べてみる。 正直、その細かい違いがわからないので真っ先に見るのは… 「安い方とかケチなこと言うなよ?」 参った。値段を確かめようとしたのはバレバレだったか。 「……。言わないよ」 4ヶ月遅れの入学祝いだ。多少奮発するのは止むを得ない。ちゃんと造形や性能を比較しよう。 そう思って真剣に睨めっこした結果、 「よくわかんない」 その結論に落ち着いた。 「はあ?使えねーな」 「使えないとか言わない。冨岡先生に訊いた方がいいんじゃないの?」 噂をすれば何とやら、青ジャージから覗くいつものスニーカーが見えたことで視線を上げる。 「冨岡せんせ」 い、までを言えず止まったのは他でもない。 その両手に抱えられた猫のぬいぐるみに度肝を抜かれたからだ。 「……。何ですか?それ」 脊髄反射で疑問を投げ掛けてしまったけれど、その顔はどうにも見覚えがある。 「名前を見つけた」 ずい、と前に出された姿に怪訝な顔をするのは弟だ。 「何だよそのぶすっとしたやつ」 「ぶすっとはしていない。むすっとしてるだけだ」 どこかで聞いた台詞だなと思いつつ、そんなことより思い浮かぶのは―… 「それ、2号に酷似してませんか?」 つい口を突いた言葉には、待ってましたと言わんばかりの表情だ。 「どうやら2号から派生した猫らしい」 「2号って?」 「なるほど。シリーズ展開ってやつですね」 「おーいぃ!聞いてる!?」 ひとり置いてけぼりになっている弟に叫ばれて、視線を向けたタイミングは同時だったけれど、 「ぬいぐるみの話」 「名前に似ているだろう?」 全く違うことを口にしたために、もっと険しい表情で見比べられた。 「それより冨岡はどっちがいいと思う!?」 何となく掘り下げてはいけないものだと察知したんだろう。まるで天秤にかけるように玩具を持つ両手を上げた。 正直どう説明したらいいか難しいものがあるので、そうやって流れを変えてくれるのはあがたいとは思うんだけど、 「冨岡"さん"でしょ?」 そこに関しては、どうにも口出しせずにはいられない。 だけどそう言った瞬間、ハッとした顔をするのは当の本人だった。 その驚きのような表情が何に対してか考察をする前に戻ったのと、 「俺は構わない」 全く気分を害すことなくそう言う姿に、頭は別の方向に動く。 「すみません。ホントに生意気で「で!?どっち?」」 咎めるため視線を鋭くしても反抗的な目を向けられるだけで、その間に箱を受け取ると真剣な表情で見比べる冨岡先生に免じてひとまずは黙ることにした。 「こっちの方が合ってる」 差し出した右手に疑問を感じたのは私だけじゃないけれど、 「何でそんなすぐに言い切れるんだよ?」 ますます怪訝な顔をしていく弟は、本当に失礼そのもの。 「射程距離の長さより連射力の速さを好んでいるからだ」 それでも瞬時に、何の迷いもなく答えた冨岡先生に輝いていく瞳はやっぱり懐いていると言える。 「やっぱそうだよな!じゃあこっち!姉ちゃん買って!」 押し付けに近い渡され方に目を窄めるより早くそれを攫っていく冨岡先生の思惑を瞬時に察知した。 「いいです大丈夫です」 「名前を買うついでだ」 「だから語弊がある言い方しないでくれませんか」 多分この人のことだから、3号とか名付けるんだろうな。 「それ冨岡が買ってくれんなら姉ちゃんはこっち買えばいいじゃん!」 まるで妙案閃いたりといった具合に渡される箱に苦言を呈す前に、 「やった〜!これでどっちもゲットできるぜ〜!」 両手でガッツポーズをする姿で絆されそうになるのを堪えるより早く、会計に向かう冨岡先生を止める手立てが思いつかない。 「……。ありがとうございます」 だからせめてものお礼を言ったけれど、返ってくる言葉はなかった。 * * * 駅の改札前、ふたつの箱を抱え両手が塞がっている弟は言う。 「じゃあな!」 いつもなら、それだけ?と言いたくなる心境になるはずが、今はどうにも違う方向に意識が向いてしまう。 「大丈夫?」 家まで送ろうか?という言葉は、横から飛んできた鋭い視線によって呑み込みはした。 「ほんっと姉ちゃんって心配性だよな!大丈夫に決まってんだろ?」 勝気なその言い方も、きっと私に心配をかけないため。それを汲めないほど、愚かでもない。 冨岡先生が教えてくれたから、理解を示せるようになった。 「そう。じゃあ、気を付けてね」 どうしてだろう。今までこの子の気持ちがわからなくて、まるで本当に赤の他人のようだとすら思ってしまいそうだったのに、今は違う。 「また連絡するから。お母さんとお父さんのことよろしくね」 何の虚勢を張ることなく、自然とそう言えた。 それは単純に、成長という過程もあるかもしれないけれど―…。 「おう、任せとけっ」 歯を見せて誇らしげに笑うこの子の顔を見られたのは、間違いなく冨岡先生のお陰だ。それだけで良かったと、心から言える。 こちらの姿が見えなくなるより早く家路に向かう背中に、言いたいことも訊ねたいことも正直たくさんあるけれど、今は苦笑いで見送ることにして私も踏み出した。 「冨岡先生」 少し遅れて続くその足を目端で捉えながら名前を呼ぶ。 「ありがとうございました」 今、言わずにはいられない。歩きながらなのは照れ隠しだけれど。 本当はちゃんと、立ち止まって目を見て言うべきなのはわかっていても、声色だけで察してしまうこの人に完全に甘えてる。 だけどこの場で返ってくるのは沈黙だけで、さすがに振り向いた。 猫のぬいぐるみを抱えながらどこか一点を見つめる姿に訝しい顔をしてしまう。 「冨岡先生?」 話し掛けても反応がないということは、ご自分の世界に入っていらっしゃるのか。 「…義勇?」 もう一度、群青色の瞳を覗き込んでみれば咄嗟に後ろに引く。 それがどういう意味なのか目線だけで問い掛ければ、何度か瞬きをされた。 「考えていた」 「何をですか?」 「名前が俺のことを"冨岡さん"と呼ぶ場面だ」 全く予想していなかったことに、思わず絶句してしまう。 あの時、弟へ注意した私に向けられた表情は驚きからじゃない。むしろ閃きに近いものだった。 「余り訊きたくはないのですが、答えは出ました?」 「出た」 食い気味に答えてくるのにはますます不安が加速する。 「隣人の場合だ」 理解できないはずなのに、わかってしまうこの思考をどうにかしたい。 「同僚という前提がなく隣に越していたら、お前は確実に俺のことを"冨岡さん"と呼んでいた」 「まぁ、そうでしょうね。それしか呼びようがないですから」 「そしたら隣人としての恋が始まっていたというわけか」 「いえ、始まってなかったと思いますよ正直な話」 想像でしかないけれど、事前情報がない状態でこの人と隣人になっていたら関係が深くなるどころか、お互い挨拶すら交わすかも怪しいところだ。 もし万が一、"冨岡さん"が何らかのきっかけで私に好意を寄せたとしても、あの調子で迫ってきていたなら、にべもなくそこを引き払っているとも言える。 「隣人からの恋仲への発展もいいな」 「いいなって…、まぁ想像は自由ですけど」 現実には有り得ないとわかりきっていることを、ここでわざわざ否定するのも憚れるので、好きにさせておこう。 多分ご自分の世界に入っているのをそっとしておいて、家路を進む。 「今日の夕飯は何だ?」 脈絡もない質問に、一瞬思考は停止したけれど返答を考えた。 「何にしましょうね?考えてませんでした。何か食べたいものあります?」 「カレーがいい」 間髪入れずに言い切ったその表情を窺ってしまうのも、もはや癖だろう。 「……。何か狙いがありますね?」 思惑はハッキリとわからないながら訝しんでみた。 「裾分けをされたい。隣人の特権だ」 「……そういうことですか」 一瞬にして想像がつくのがまた面白い。 いわゆる"これ作りすぎたんで良かったら"とか言って、隣を訊ねる。そういうシチュエーションを望んでいるというわけだ。 「ホントにそういうの好きですね」 思わず笑ってしまった瞬間、じと目になるその表情で咳払いをする。 「わかりました。いいですよ」 途端にキラキラしていく瞳には、どうにも弱いことを再確認した。 というより、そうか。 この人の感情の機微すべてに弱い気がする (いいのか?) (隣人ごっこくらいなら構いません。そんな驚くことですか?) (隣人として俺のモノを(それはできない相談です)) [ 179/220 ] [*prev] [next#] [mokuji] [しおりを挟む] [back] ← ×
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