good boy | ナノ
キャビンアテンダントの指示通り、搭乗券を改札口にかざしてタラップ内を進む。
先にある右と左の分岐点で迷わぬよう、先に声を掛けた。

「冨岡先生、左へ進んでください。機内に入ったら奥の通路を通って席まで行きます」

返事があったかどうかは周りの喧噪で耳に入らないが、その通りに歩を進めていく背に聞こえてはいるのだろうと判断して続く。
人にぶつからないよう、キャリーを前にして転がしながら座席番号を確認した。
「あ、そこです。25番」
見えてないのはわかっていても指で示す。
意味をなさないと思ったそれも、立ち止まると振り返った瞳が追って、番号を確認した事で役には立った。

「窓側どうぞ」
「何か変わるのか?」
「主に視角情報ですかね。離着陸の時なんかは景色が見られるのも楽しいですよ」
「それなら名前が座れ。俺はお前を見られればそれで十分だ」
「…そうですか」
ちょっと照れてしまった。
相変わらず何気にクサイ台詞というか、思っていてもなかなか口にしがたい事を平気でおっしゃってくださる。
「じゃあちょっとこれを」
言い終わる前にキャリーをさらっていく手に驚いたのも束の間、
「ここに入れればいいのだろう?」
座席上の棚へと収納されていく。
眉ひとつ動かす事なく軽々とこなしていくそれも、私にとっては結構な労働なので素直に助かった。その一言に尽きる。
「ありがとうございます」
後ろで詰まる人の流れを感じ、早々に窓際へ移動した。
「冨岡先生もどうぞ」
通路側に位置する隣を五本指で指しながら、その上に置かれた掌サイズのビニール袋を回収する。
「それは何だ?」
「イヤホンです。ここに差し込むと音楽が聴けるようになってて、これも気圧の変化による耳への負担を軽減してくれますよ。使いますか?」
「いや、いい。お前の声が聴こえなくなる」
「…そうですか」
これもまたブレないようで。
慣れない手つきでシートベルトを締める両手の後
「これでいいのか?」
出された発問と、いまいちしっくりきていないという表情。
「もうちょっとキツく締めた方がいいですね」
余ったベルト部分を引っ張って調節をする私の耳元に近付いてきたかと思えば、

「キツく締まるそのナカに入りたい」

息を掛けながら囁かれた内容に、ドクッと動いた心臓が悔しい。
「何、言ってるんですか」
出来るだけ動揺を悟られないように離れて同じようにベルトを締める。
「思ったそのままを言ったまでだ。照れなくていい」
「照れてはないです。引いてはいますけど」
「素直じゃないな」
「それはもうわかりきっている事では?」
つい脊髄反射で返してから、それが肯定するものだと気付いても遅い。
満足げにしている表情は敢えて見ない事にした。

しかしその余裕も、アナウンスの後、離陸に向け動き出した機体の揺れで段々と強張っていく。
これが猫の冨岡先生の片鱗なのかと思うと、どうにかしてあげたい気持ちにはなった。
「飴かガム、どちらか食べますか?」
だけど私に出来る事はそれくらいしかないのでそう訊ねれば
「名前の口唇を啄んで舌を食べたい」
突拍子もない台詞に眉を寄せるのも忘れてしまう。
「それくらい冗談が言えるなら大丈夫ですね」
「冗談じゃない。それらの効力を考えたらキスも大差はないだろう?」
「大きく変わると思いますけど」
「精神面についてか。それは確かにそうだ。名前でなければ得られない安定はある」
「そういう事ではなくて」
呆れ混じりに返してしまったけれど、今の言葉こそヒントなのではないか。
肘置きに置かれた手へそっと自分の手を添えてみる。
「珍しいな」
驚きながらもすぐに繋いでくる指の温度の低さから、隠し切れない心細さを感じた。
「前に私に触れると満足するといった主旨の事を聞いたのを思い出したので」
「流石は名前だ。俺という性質を理解している」
「理解というより、冨岡先生が的確にご自分の事を伝えてくださるからではないですか?私はそれを何となく覚えていただけですよ」
「覚えているというのが理解している何よりの証拠だ」
「…どういう事でしょう?」
「人間は興味のない他人の情報など頭に入れようとしない」
「…それは、まぁ、そうですね…」

妙に納得してしまった。
確かにそう考えると、理解を"しようとしている"のは間違いない。
この人たまに真理みたいな事をさらっと言うんだよな。

「それを言うなら、冨岡先生は究極な私の理解者という事になりますね」

わかりきった事を改めて口にすると気恥ずかしいものがある。
「当たり前だ。俺以外名前を知り尽くす犬も猫も人間も居ない」
自信満々に言い切った横顔には苦笑いしか出来ないけれど。
本人は至って真剣なのがまた面白い。
「お前の性感帯も熟知している。特に耳とナカを攻めた時の感じ方は尋常じゃない。そこに陰核を舐め」
私が言葉を止めたんじゃないし、冨岡先生がやめたわけでもない。

ただ掻き消された。飛行機の飛び立つ音で。

ゴォーッ!という低い唸りは、いつもなら少しばかり緊張を伴うのに、今はそれがあって助かったとさえ思っている。

「…飛びましたね」
「飛んでるのか?」
「飛んでます。今まさに。外見ますか?どんどん地上から離れていってますよ」
「いや、いい」
一瞬、この人まだ怖いのかなと思ったりもしたけれそ、じっと覗き込んでくる群青色から、そこまでに怯えは伝わってこない。
だけど握る手の力は強いので訊ねてみる。
「大丈夫ですか?」
「問題ない。離陸といってもこんなものか。肩透かしを食らった気分だ」
そうやって喉元過ぎれば熱さを忘れるのが、犬に似ていると思う。
「着陸の方が衝撃もスリルもありますよ」
冗談混じりにそう言えば、無言で強まる手は可愛い、なんて自然と笑みが出てしまった。


good boy


飛行時間はおよそ3時間半。
退屈しのぎと仕事の停滞を緩和しようと持参したノートパソコンは鞄から出しただけで、開く事なく着陸体勢を迎えた。
特筆性がある会話はまるっきりしていないのに、この時間があっけなく過ぎてしまったのは、隣に居るのが冨岡先生だからというのは間違いない。
大半が水着についての談義と、この3泊4日の旅行に対する願望や要望。
らしいと言えばらしいので、敢えて耳は貸しておいた。受容はしてないけれど。

「空港に水着が売っていたら買いたい」
「だから着ませんってば」

まだ言うかと呆れ半分で答えてから、耳が詰まる感覚に気付く。
高度が下がり始めたのだろう。
「冨岡先生、これ食べます?」
水着についてひとまずは置いておいて飴とガムを差し出せば、その中のひとつを手に取った。
口に含んでいく表情は変わらないけれど、恐らくは同じように、いや、むしろ私より顕著に感じているはず。
慣れない感覚というのは、それだけで神経を尖らせ不快を肥大にさせるものだ。
私も飴を口に入れてから言葉を紡ぐ。

「そういえばこちらの水着ばかり気にしてますけど、冨岡先生は持ってきたんですか?」
「…ない」
短い答えは緊張感ではなく、単純に何かを口に入れている故の現象に思う。
「じゃあ駄目じゃないですか」
「俺が着れば着るのか?」
「そういう事じゃないですけど…、海に入りたかったんじゃないですか?」
「水着姿の名前と戯れたいだけだ。入りたいのは海ではなくお前のナ」

ドンッ!

地面に着いた衝撃と共にエンジンから逆噴射を起こして、徐々に流れる景色がゆっくりとしたものになっていく。
反射的に握られた手は、犬なのか猫なのか、それとも人間の感情なのか。
とにかく可愛い、ともう一度同じ事を思う。

「着きました」
「…そうらしいな」

穏やかな速度で到着口に向けて移動していく機体とキャビンアテンダントのアナウンスは、トラブルなく空の旅が終えた事を知らせている。

『本日、こちらの天候は晴れ。気温は32℃。厳しい暑さが続いております。どうぞ皆さま、お体には十分お気を付けて、お帰り、またはお過ごしください。本日は当機をご利用いただきまして、誠にありがとうございました。またのご搭乗を、乗務員一同、心よりお待ちしています』

丁寧な挨拶の後、ポーンと軽い電子音を立てて消えるシートベルトサインで、一斉に外す音が響いた。
それでも動かない私に、疑問に満ちた群青色が向けられる。
「外さないのか?」
「手荷物もあるので、人が捌けるまで待とうかと思います」
離れようとしていた手は、そう言った瞬間すぐに握り直された。
「まだ俺とこうしていたいという事か。可愛いな。やはり旅先では誰しも大胆になるというのは本当だった」
むふふと笑う横顔は敢えて見なかった事にして、窓へ顔を向けた。
多分だけど、宇髄先生辺りの入れ知恵だろうな。辺りというか、確実に宇髄先生の。
そんな余計な情報を与えるのは、あの人くらいしか考えられない。

そう考えていたせいか、広がっている光景を脳が知覚するのに遅れてしまった。

「……綺麗」

思わず呟いて、身を乗り出す。
さっきまで散々水着がどうだの話していたくせに、今更ながら実感している。
写真や映像でしか見た事のなかった真っ青な海が、眼前に広がっている事を。
「冨岡先生、見てください!すごい綺麗ですよ!」
振り返った先、一瞬だけど垣間見たとても優しい瞳にドキッとしたのは、それが今見た青にそっくりだったからだろうか?

「人が途切れた。降りよう」

立ち上がると手荷物を抱える背中が頼もしく見えて、黙ってそれに続こうと思ったのに、
「珍しく名前がはしゃいでいる…。これはビキニ姿を拝める可能性もなくはないか…いや、それ以上もあるかも知れない…」
ブツブツ漏れ出す心の声に能面になった。

しかし自分の世界に入っていても、こちらの話は何となくは耳に入れているようで、空港の玄関口を出る時には帰還したらしい。

「車を借りると言ったが、誰が運転をする?」

当たり前に出るであろう疑問に、少しばかり考える。
「一応お訊ねしますが、自動車免許はお持ちですか?」
「持ってない」
間髪入れず返される一言は予測済みだった。
以前の冨岡先生が見ず知らずの他人に教えを乞う、指示に従うという場面を自ら望むとは思えない。
私と出会ってからも免許に関しての話は一切触れてはいなかったから、ないだろうなという推測は簡単に出来る。
「冨岡先生が持っていないのなら、必然的に私が運転するという事になりますね」
だからそう答えた。
タイヤが止まる音がして振り返れば、これはまた面白いくらいに驚いていらっしゃる。

「免許、持ってるのか?」
「持ってます」
「運転してるところを見た事がない」
「まぁ、そうですね。実家に居た時しか運転してなかったので」

どうにも職場や駅が徒歩圏内にあると、車を持つ事に対して消極的になってしまうと感じたのは、単身になってからだ。
不便と感じるのは重量物を購入した時くらいで、それも宅配に頼れば解決はするし、最近では冨岡先生が運んでくれるため、それこそ必要性を感じなくなってしまっている。

黙り込んだまま動かなくなった姿に、もしかして常に運転している訳じゃないから不安があるのかと開きかけた口は

「名前の助手席に乗れるのか…。思ってもみなかった福徳だ」

相変わらず全面的な信頼を寄せるものだと、笑いを堪えるのに自然と結んだ。
だから敢えて言ってみる。
「家族以外では冨岡先生が初めてですよ。助手席に乗るの」
なんて、絶対に喜ぶであろうワードを。
それなのに無言のままこちらをじっと見つめてきた酷く真剣な表情に動揺してしまう。こんな反応は正直初めてだ。
「提案があるんだが」
「…何ですか?」
ドキドキと脈打ち始めた心はすぐに鎮まったし、何なら訊き返した事を後悔する。

何故なら

「カーセ「駄目です嫌です行きますよ」」

本気で言葉を遮らざるを得なかったからだ。

根本というのは、一切ホントに変わらないらしい。
これ以上末恐ろしい事を言い出す前に首根っこを掴んで回収はしたけれど、
「冗談だ。流石の俺もそこまではしようと思わない」
それが本気かどうかは怪しいものだなと思った。

* * *

「それではお気を付けて!」

少しだけ訛りが入った挨拶に、窓越しながら頭を下げる。
ブレーキを踏みながらシフトレバーを動かす行動自体が久々な上に、初めて乗るレンタカーにまだ加減がわからず肩に力が入った。
合流しようと、一時停止のため踏んだブレーキは利きが良いらしい。若干前のめりになって停まってしまって、左横へ顔を向けた。
「すみません。勢いが良すぎました」
「構わない」
返ってきた冷静な返答とは違い、表情は喜びに満ちていて、あぁ、この人本当にブレないなと思った瞬間、入れ過ぎていた力が抜けた気がする。
スムーズに発進して、片側一車線の道路を走り始めた。

緊張が解れたのは冨岡先生のお陰もあるけれど、先ほどレンタカー会社のスタッフさんの事も思い出す。

"うちの島、いつ動物出てくるかわかんないから、みんなスピード出さないよ〜。だから大丈夫です〜"

運転するのは久々だとちょっと気に掛かる事由を告げた際、ゆったりとした口調で言われた。
全くその通りだと、前を走る車と対向車を見ながら思う。
島特有の雰囲気と言えばいいのか。
とにかく皆、のんびりしている。
おまけに中央分離帯には、間隔を空けてヤシの木のようなものが植えられていて、どこか違う世界に来たかのような気分になった。

「…何か、同じ日本じゃないみたいですね」
目につく全てが真新しい。ナンバープレートに書かれた地名にさえちょっと感動を覚えてしまう。
「目を輝かせてる名前が見られる事が喜ばしい。やはり共に来たのは間違いじゃなかった」
やっぱりこの人は変わらないけども。
上げそうになった口角は、右折を告げるナビの指示で結び直した。
確かに少し、いやかなり浮ついた気持ちになっている。
ここに来たのは遊びではなく、仕事だ。気を引き締め直そう。

「小学校までは10分ほどで着きますが、その前に寄りたい所ありますか?」
「海に行きたい」
「…あの、そういう要望ではなくてコンビニやお手洗いといった「遠路はるばるここまで来たんだ。一目見ていくだけなら罰は当たらないだろう」」

こちらを見つめてくる群青色に完璧な視線は返せないけれど、まぁそれもそうか、なんて
すぐに絆されてしまう辺りが飼い主という立場故なんだろう。
ナビを一瞥して、直進すれば海へ向かえるのを知り、右折の合図を出し掛けた手を止めた。

「少し遠回りになりますが、海沿いを通っていきますね」

その言葉だけで、嬉々としていく空気を感じて頬が弛む。
丁度良くビーチへの道を示す青看板の通りに進んでいけば、坂を上った先、急に開けた視界から飛び込んでくる海の色に息を止めた。

ただの青だけじゃない。
エメラルドグリーンに近い濃色は、まるで絵の具を垂らしたかのように綺麗なグラデーションを作っている。

「…冨岡先生!凄いですね!初めて見ましたこんな綺麗な海!」
高揚した気分そのままで発してしまったと気付いたのは、横目で見た表情が随分と穏やかなものだと知ったと同時だった。


これがまさに環境が変わればというものか


(すみません。取り乱しました)
(謝る必要はない。はしゃいでいる名前が見られてこれ以上ないほど多幸だ)
(冨岡先生はホント変わらないですね…)


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