Drink at Bar Calm | ナノ
背中に回した腕から伝わってくる、しっとりとした汗の感触が余裕のなさを感じさせるのかも。
こんなに長くて激しいキスは初めてで、もう何も考えられなくなりそう。

耳の方に移動していく口唇から出される吐息だけで、身体中が痺れてくような感覚がした。

もしかしてこのまま、しちゃうのかな。

でもお店だし、もうすぐ開店時間になるしって、色々浮かぶんだけど
「…名前」
凄く色っぽいその声がすぐ傍で響くから、全部どうでも良くなってくるのがとても不思議。

好き同士だし付き合ってるんだから、別にこのまま──…

そう思うのに、服を脱がされそうになった瞬間、

「ごめんなさい!待って!!」

そう叫んでいた。

顔を上げたバーマンさんは当たり前に訝しんでいて、また認識違いをされてしまう前に言葉を続ける。
ちゃんと、言わなきゃって。

「あの!正直言います!バーマンさん多分勘違いしてるんです!」
「…何をだ?」
「この間っ、高校の時付き合った事あるって言った事!あれ!全然バーマンさんの思ってるようなものじゃなくて!学生のノリっていうかそういうので別に好きじゃないけどって感じで、1週間で、フラれて…その…私、した事、なくて…こういうの…」

受け入れるつもりで回したつもりだった両手は勝手に震えていて、見開いた紺碧色にまた怖くなる。

「…ない、のか」
「だから、その…だからちょっとそういうの知ってるふりしてました!ごめんなさい!!」

頭を下げようにも寝転んだ状態じゃどうしようもなくて、代わりに硬く目を閉じてた。
呆れられてるんだろうなってわかってるから、その表情を見たくない。
でも暫しの無音のあとで聞こえてきたのは抑え気味の笑い声で、自然と目を開けた。
肩を揺らしてるバーマンさんに、瞬きが多くなる。

「そんな事を気にしてたのか…」
そう言うと、またくつくつと鳴らす喉。
この歳でした事ないってカミングアウトするの、結構勇気いったんだけどな。そんな事って言われてしまうと、何だか恥ずかしくなってきた。
「だって男の人って経験ない子嫌なんじゃないですか!?」
「そう言われたのか?」
紺碧色の瞳から笑みが消えて、言葉に詰まってしまう。
目を逸らすしか出来なかったのに、背中を支えると起き上がらせてくれる両腕は優しくて、ドキッとした。

「そんな事は思わない。寧ろ…」

言葉が途切れたのは、抱き締めてくれたからかな?

「悪い。怖い思いをさせた」

髪を撫でてくれる指もあったかくて、ただただ嬉しくなる。

「怖い思いは、してないですっ!バーマンさんの事好きだから、全然!あのっ」

良いですよ、って言うのは、また違うんじゃないかなって迷う。
私が言い淀んだのは、きっと当たり前に伝わっていて、伝わっているから多分、そうやっておでこに優しいキスだけをくれたのかなって、思った。


Drink at Bar Calm


今日のカクテルにするって言ったブランデー・ブレイザー。
外看板に描いた、ショートグラスに入ったその琥珀色を、私も呑めるのかなってワクワクしてたんだけど、出されたのは全然違う、シャンパングラスに入ったオレンジ色で、動きを止めた。

「…これは?」
「正式名称はシャンパン・ロ・ランジュだが、最近ではミモザと呼ばれる事が多い」
「あ、ミモザ…!」

その3文字だけで顔が綻ぶ。
Calmに通うようになった頃に調べたから、このカクテルは凄く良く覚えてる。
確かベースがシャンパンで、オレンジジュースで割るっていう、シンプルで度数も低いって見た。

「呑んでみたいって思ってたんです!」
「知ってる。だから作った」

それだけ言うと片付けに入る姿に、何となく訊き返せなくなる。
そうやって俯くと、紺碧色が翳ってるように見えるからかな。

「…いただきます」

頭を下げてから両手で持ったグラスを傾ける。

「…おいしっ!」

お酒じゃないって言い切れるくらいに、オレンジジュースに近い。
テキーラ・サンライズより遥かに呑みやすくて何杯でもいけちゃいそう。
でも、ゆっくり嗜むっていうのを意識して、もうちょっとだけ呑んでみる。
やっぱり凄く美味しい。

これは堂々、お気に入りカクテルの上位に入るなって思いながらグラスを置いた。
チラッと見たバーマンさんは嬉しそうに微笑んでて、またちょっとドキッと心臓が動く。

「最も贅沢なオレンジジュースと言われている」
「…へー」

確かに贅沢かも。普通のオレンジジュースより、香りも味も深みを増してるし、何よりこのシャンパングラスに入ってる雰囲気がちょっと大人っぽくて、ちょっと背伸びした感じがする。
そこまで考えてから
「あ」
意識せず声を出していた。
視線だけで伝える疑問に、押さえた口を動かす。

「写真、撮れば良かったって思って」
「掲載用か」
私の意図はすぐにわかったみたいで、また伏せられる瞳からグラスへ移した。
「こういうシンプルなカクテルって結構集客に繋がりやすいと思うんです。想像出来るから手を出しやすいっていうか。でも見た目と違って凄く奥深くて驚きもあるから、良い意味で裏切られるというか…。これを最初に呑んだらカクテルにハマる人多そうだなって」
思いついたまま口にした後、水道が止まった音を聞く。

「お前もブログをやれば良いのでないかと、昨日言われた」

突然の提案、というか内容に傾げそうになる頭で考えた。

「私もって、事は…?あ!もしかして」
「例の老人だ」
「来たんですか!?」
「昨日来た」

あの、バレンシアを褒めてくれてCalmをブログに紹介してくれたおじいさん。
カクテルの前払いをしたって言ってたけど、あれから1度も来店したって聞いてなかったから、嬉しさと驚きが入り混じってる。

「Calmのホームページでそれを載せれば、更なる集客が期待出来るのではないかと言っていた」
でも、その言葉には全然喜べない。
「…それはやめた方が…」
ただでさえ、隅に載せた拙いイラストは今もどこか浮いてるように見えるのに、これで私がブログなんて、そんなCalmの雰囲気を壊してしまうような事出来ない。っていうかしたくない。

でもそれも全部見抜かれてるのかな?
ちょっと眉を寄せた後、溜め息を吐かれた。

「俺が理想とするCalmは、お前の思っているものとは少し違う」

そう言って店内を見回す瞳は、優しいけれど、どこか切ない。
その原因は何だろうって考えてみる。

「酒類を提供する故、客層は自ずと狭まるが本当なら…」

そこまでで止めてしまった言葉の先を、訊いても良いのかがわからない。
だけど、真っ直ぐ見つめられた後

「名前が補色になれば、その理想が完成するのではないかと考えている」

はっきりとした告げられた意思に、これ以上首を横に振るなんて出来なくなった。

「…バーマンさんにそこまで言って貰えるなら、頑張るしかないですねっ」

安心して貰いたくて出した言葉だったのに、途端に増えてしまう眉間の皺。
何でだろうって狼狽えた私に、呆れた声が響く。
「……。呼び方」
「あっ」
意味もないのに咄嗟に押さえた口は、フッて小さく笑うのにつられて上がっていった。
「義勇、さんっ」
確かめるように名前を呼べば、
「ん」
返してくれる短い返事が、あったかくて好きだなって思う。

久々かも知れない。
こうやって2人でゆっくり話して、あぁ、こういう所好きって噛み締めて嬉しくなるの。
最近ずっとドキドキしっぱなしの事しかなかったから、この穏やかな時間がちょっと懐かしいなって感じる。
こうやってカクテルを呑んでる時間が、私にとって一番幸せなのかも知れない。

「今度の土日、どちらか時間はあるか?」

突然の質問に、ミモザを味わっていた思考が止まった。

「…どっちも、大丈夫です」
「家具屋に行きたい」
「あ、今度こそ椅子ですね!」
返事は首を動かしただけだったけど、これからその義勇さんが思う理想のCalmが創られていくんだって感じると嬉しくなって、店内を見回した。
そこに私が居るどころか、僅かでも力になれるって思うと、それだけで胸がいっぱいになる。

「その時に名前の母親にも挨拶したい。在宅時間を教えてくれ」

さらりと出された言葉には、すぐにドキッとした。
「…あー、えっと、訊いておきます」
義勇さんと違ってちょっと迷ったのは、あんまり会わせたくないなって気持ちになったから。
母親がどういう顔をして、どういう態度で迎えるかはわからない。でも、あんまり良いものではないだろうなって何となく想像出来るから、紹介したくないなって考えてしまう。
絶対失礼な事言い出すだろうし。うちの親。
そうなったら私じゃ止められないから、妹にも同席してもらった方が良いかも。
でも妹まで敵に回ったら最悪すぎる。焼肉で釣って、どうにかお母さんを説得させるしかないか。

そんな事を考えながら、グラスを運ぶ。
オレンジの香りと味わいに、勝手に顔が綻んでいった。

「…おいし」

嫌な事考えてる時でさえ、やっぱり美味しいってなるこの気持ちも、嬉しそうに伏し目で微笑う表情が好きだなって気持ちも、だから幸せだなって思う気持ちも変わらない。

不思議だなぁ。ついさっきまで色気がどうのとか悩んでたのに、ちゃんと正直に話したら、心はスッキリしてる。
今まで、器用に嘘が吐けない自分をあんまり好きじゃなくて、思った事が顔に出ちゃうのも結構、っていうかかなり嫌なところだったけど、何だか少し、好きになれた気がした。

義勇さんが、こんな私でも受け入れてくれてるって、伝わってくるから。

カランコロンって、鐘の音がして男性2人組が入ってきたから会話はなくなったけど、それでも心は繋がってる気がして、幸せだなって思った。



そうやって心がいっぱいになって満足すると、大体、何かでごっそり削られる事も多い。
人生ってそうやって、バランス良く保たれてるのかなって思いながら、やいのやいの言ってる母親と妹を遠い目で見つめてる。

「何これ雪国だって。変な名前ね」
「ヨコハマとかもあるよ。地名じゃん」

横に並んで一緒に見てるスマホの画面には、カクテル一覧が表示されてるんだと思う。
正面からは見えないけど、今さっき調べてみるって言ってたから多分そう。

「あ、これおいしそー。ミモザっ」

妹の声にちょっとドキッとした。
だってカクテルなんて凄い種類があるのに、そこに目を点ける辺り、やっぱ好みって似るのかなって思う。

「シャンパンって書いてあるよ。アンタ呑めないでしょ未成年なんだから」

何でこの2人がこんなにカクテルの事に興味津々なのかって言えば、帰ってきてからすぐに私が義勇さんの話をしたから。

"お母さんに挨拶したいんだって"と。

あくまで私が言い出したんじゃなくて、相手から提案してくれたんだよっていうのをちょっと強調して言ってみた。
挨拶って言うくらいだから、この家へ来て貰うつもりだった考えは、
「じゃあそのBarに行くわ」
って即答されて、そこに妹も便乗したのが始まり。

訊いてみるってLINE送って、返事も来てないのに勝手にもう行くつもりになってるのも、何頼もう?なんて盛り上がってるのも、溜め息を吐くしかない。
もしこれで義勇さんが断ったら、それこそ印象最悪じゃん。
湧き上がった心配は
"構わない"
その一言で解決はしたけど、不安が拭えた訳じゃない。

でも確かに、母親と妹の陣地になる見ず知らずの家に来るよりかは、義勇さんも慣れた場所の方が心に余裕が出来るかもって考えると、そこはちょっと有難いかなって思う。

「大丈夫だって」

未だにカクテルがどうのこうの言ってる2人に、それだけ伝えてから考えた。
そうなると、お昼過ぎから開店準備までの時間になるのかな。
そしたら家具屋さんはまた行けなくなっちゃう。
開店後だとCalmを貸し切りって形になるから、そこまでさせる訳にはいかないし。
多分そうしないとちゃんと話が出来ないと思う。他のお客さんが居る前で、親に挨拶なんておかしな話だし。
今までの流れを考えると、土曜日は開店と同時に結構お客さんが流れてくるから、行くとしたら、その前にちょっとでも余裕が出来る日曜かな。

「そのBar、開店何時なの?」
「え?18時」
「じゃあ土曜日の18時ね」
相談する暇もなく告げられた予定は、考えてた事と真逆でムッとしてしまった。
「何で?」
「何でってお母さん、日曜用事あるから」
「私も土曜の方がいいな〜」
義勇さんはどっちでも良いってニュアンスだったからそう言われたら、その通りにするしかないんだけど、ちょっと納得出来ない気持ちもある。
「時間、お昼過ぎとかじゃダメなの?」
「アンタわざわざこっちがお邪魔するのに開店時間前に行ったら失礼でしょ?」
「でもそしたら貸し切りにして貰わなきゃいけないし…」
「そこまでしなくて良いよ。挨拶って言っても顔合わせみたいなものだし、お母さんたち、ただ客として行くだけなんだから」
「そうそう〜」
「…何?ダメ?」
「ダメじゃないけど…。訊いてみる」
送る文章を考えてる途中にも
「そのBarの場所教えといてね」
母親の話は進んでいって、どっちも同時に考えるのが難しい。
「え?一緒に行くんじゃないの?」
「だってさっき家具屋がどうこう言ってなかった?」
言ったっけ?って思うと同時に
「言ってた言ってた。デートなんでしょ?」
妹の言葉に、沈んでた心が少し浮上していくのを感じた。

デート、かぁ。

ニヤけてしまいそうになる口元を隠す私には目もくれず、またスマホの画面を動かし始める2人。
私も義勇さんに送る内容を考えるために画面に視線を落とした。

"ありがとうございます"

最初にそう打ってから、土曜日の18時は大丈夫ですか?ってお伺いを立てる。
そしたらすぐに帰ってきたメッセージに、収まったはずのニヤけがまた復活した。

"こちらとしてもその時間だと助かる。その前に椅子を見に行こう"

これはもう、デートだと思っても良いよね?

了解ですって打とうとした指は
「あ、私これ呑みた〜い!」
妹の声で止まった。
「お姉ちゃんこれ呑んだ事ある?」
ずいっと差し出された画面に、視線をそっちへ向けるしかなくなる。
写真を見た瞬間に、こんなノンアルコールカクテルもあるんだって驚いてから書かれてる文字に眉を寄せた。
「ある訳ないじゃん。これオリジナルだし」
「へー、そうなんだ」
大した気にした様子もなく、画面を自分の方に戻す妹に、まぁでも美味しそうっていうのは思う。
「フラペチーノみたいね」
覗き込んだ母親と全く同じ事を考えてたのがちょっと何か、家族だなって感じるのがまた複雑。

でも確かに見た目、そんな感じだった。
カクテル自体の色は、カルーアミルクみたいに淡い茶褐色だし、上にはホイップクリームが山盛りにされてて、太めのストローも刺さってたから、余計にそう見える。

「ねっ。この生クリームとかめっちゃ美味しそう〜」
「作り方も書いてあるのね」
「ほんとだ〜。お母さん今度作ってよ」
「良いけど材料費は出しなさいよ」
「え〜?学生にそれは鬼畜じゃない?」
「アンタ最近バイト始めたでしょ?」
「お姉ちゃ〜ん」

助けを求めるように呼ばれて、焼き肉よりかは安上がりかも。そんな事を考えたけど、今それを言うと、何でそんな話になったのかっていう尋問がまた始まるから、
「んー?考えとく」
それだけで誤魔化して、スマホをいじる。

"楽しみにしてます"

絵文字とスタンプ付きで返事をしてから、さっき見たカクテルの名前を思い出して、またニヤけが止まらなくなった。


Holiday Delight
休日の喜び




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