お酒って、怖い。 それをひしひしと感じてる。 真菰ちゃんが施してくれた綺麗で完璧な化粧は、一晩経った今、見るも無残なものになっていて、大人っぽくセットしてくれた髪の毛も、何をどうしたらそうなったのか説明しようがない位の大爆発。 そんな自分を目に入れた瞬間から、洗面所の鏡の前で呆然とし続けてる。 え?もしかして、バーマンさんの前でこの姿見せたの? こんなの100年の恋も冷めるよ。100年も恋してないし生きてもないけど、とにかくそれくらいとてもヤバイ。 だから私が目を覚ました時も送ってくれた車内でも、ちょっとぎこちないっていうか、余所余所しかったのかな。全然目合わせてくれなかったし。 そりゃこんな顔してたら直視出来ないよね。私だったら堪え切れず噴き出す所か爆笑してる。 バーマンさん、きっと気を遣って言わないでいてくれたんだろうな。 でも、どうしよう。次どんな顔してCalm行けば良いのかわかんない。 ただでさえ酔い潰れるなんてもうとんでもない醜態を晒して迷惑しか掛けてないのにプラスこの醜さはほんとに目も当てられない。 念入りに顔を洗いながら昨日の記憶を手繰ってみるけど、席を立った辺りから曖昧で、背中が押し潰されるように痛かったのと息苦しかったのしか蘇ってこない。今もちょっと、微妙に頭痛いし。 1杯も呑んでないのに、あんな風になるなんて思ってもなかった。 初めての失敗。それだけでも落ち込むのに、それをバーマンさんや錆兎さん、真菰ちゃんの前でやってしまったという事実に今すぐ消えたい。それか皆の記憶を消したい。綺麗さっぱり。何もなかったように。 「髪の毛やば」 リビングに行くなり噴き出した妹を軽く睨んでから、目の前の椅子に座る。 並べられた朝食で無意識に溜め息が出た。正直あんまり、食欲が沸かない。 「大丈夫?まだ体調悪いの?」 声は妹のなんだけど、何か一瞬、お母さんに言われた感じがした。 母親は台所に居るから違うっていうのはわかってるけど、凄く言い方がそっくり。そういえば私より妹の方が何かとお母さんに似てるかもってふと考える。 送ってくれたバーマンさんの事、すっごい不審そうに見る表情もそっくりだったし。 「お姉ちゃん?」 不思議そうに向けてくる瞳に思い付く。 そうだ、この子昨日の私を知ってるんだ! 「ねぇ!ヤバかった!?」 「は?うんヤバイ」 「違うよ!昨日!髪の毛とかこんなんだった!?目の周りパンダじゃなかった!?」 「昨日?…は別に平気、だったけど。そのまま寝たから今すっごいヤバイんじゃないの?」 「そっか…!昨日はヤバくなかったんだ!よし!」 「良くはなくない?」 「良いの!」 少なくともバーマンさんには見られなかった。それなら良いや。うん、良かった。今凄い安心してる。 「お腹空いたー。いただきますっ」 完全に、とはいかないけど気持ちが復活して、箸を手に取った所で横から出てきたオレンジジュースにはちょっとまた沈んだ。 「アンタ昨日酔い潰れて送って貰ったんだって?」 隣に座る母親から、また正面へ顔を動かす。 無言で非難の視線を向けるけど、全く動じていないのもお母さんそっくりだと思う。 「口止めされてないし」 「しなくたってわざわざ言「今はお母さんが名前に質問してるんだけど?」」 ほら、怖い。絶対怒ってる。怒らない筈ないもん。 「そう、だけど…」 言い訳を考えても全面的に私が悪いから何にも出て来ない。あ、でもバーマンさんの事は誤解されないようにちゃんと 「ちゃんと彼氏にお礼言いなさいよ。良い歳して迷惑掛けて、ほんとに恥ずかしいったら…」 そのまま小言は続いたけど、それだけで済んだのは奇跡だとしか言えない。 驚きを隠せない私に妹は小さく噴き出してて、何でそこで笑うんだろう、とはちょっと思った。 それを知ったのは、朝ご飯を食べ終えて階段を上ろうとした時。 「意外だったでしょ?お母さんの反応」 後ろからついてきてる足音とその言葉に、振り返らないままで答えた。 「何か言ったの?」 「お姉ちゃんの彼氏、すっごい感じ良くて礼儀正しい人だったよって言っといた。挨拶もちゃんとしてるし、お母さんが不在だって知っても態度変わらないし、妹に対しても凄い丁寧に謝る人だったって。あとちょーイケメン」 「…ふーん」 「それだけー?ありがとうとか「はいはい、ありがとありがと」」 つい突き放したような言い方しちゃったけど、今のはちょっと酷かったかなって考えてから続けた。 「今度何か奢るね」 「あ、じゃあカクテル!お姉ちゃんの彼氏のBar行きたいっ!」 「ダメ。アンタ未成年だからバーマンさんが捕まっちゃうもん」 「お酒呑まなきゃ良いんでしょ?」 「それでもダメ。っていうか連れて行きたくない」 「えー、ケチ。じゃあ焼肉で良いや」 「は?そんなお金ないしっ!」 部屋の扉を掛けようとした所で辛うじて振り向けたけれど、その時にはもう バタンッ 音を立てて妹の部屋が閉まってて、大きく溜め息を吐く。聞こえないのはわかってるけど。 でも、ちょっとじゃない。だいぶ助かった。バーマンさんの事、良いように報告してくれて。 妹の独特な感性というか勘の鋭さを信用してるから、母親は昔から結構聞く耳持つ。 あの子がダメって言ったものは、ほんとに大体そうなるっていうか、高校の時ちょっと付き合った男の子も 「あの人ダメだよ。お姉ちゃんとは絶対合わない」 一目見ただけで言い切っててムカついたけど、実際その後すぐに別れた。 そういうのもあるから、母親の妹に対しての信頼は厚いし、基本的にあの子のする事は口出さない。自分の事もちゃんと客観的にしっかり見て判断してるから。 だから妹がバーマンさんの事を褒めたのは凄く嬉しいって、そう思う。 これでまた"ダメ"なんて言われてたら、結構ヘコんでた。 思い浮かべた事で、自然と蘇る昨日の姿。 カッコ良かったなってニヤけながらベッドに寝転んだ。 いつものモノクロな制服もシックでカッコイイんだけど、全体的にネイビーブルーで纏められたスーツは格段に大人っぽくて、終始ドキドキしっぱなしだった。 それはダークカーキという難しい色のスーツをさらりと着こなしてた錆兎さんもそうなんだけど。カーキ系って凄く人を選ぶから、全く違和感なく着られるのって凄いなって素直に思う。 差しっぱなしだった充電コードを抜いて、通知を確かめる。 追加したばかりの名前を見た瞬間、起き上がった。 真菰ちゃんだ。 起きた勢いのまま画面を開いて、また頬が弛んでいく。 "具合どう〜?もしも迷惑掛けたとか思ってるなら、名前ちゃんのせいじゃないし気にしないでね。安物の焼酎なんか呑ませたあの店が悪いんだから" 可愛らしく怒ってる絵文字が真菰ちゃんっぽい。 名前しか知らなかったから、女の子って事にビックリしたし、チェリーピンクのカクテルドレスも可愛くて似合ってて、その雰囲気は柔らかいのに着付けとかメイクとか凄い手際が良くて、カッコイイって思った。 お礼と謝罪を打ちながら、途中で纏まらなくなった文に「うーん」と唸る。 バーマンさんにも送らなくちゃって思うと、やっぱり蘇ってくる恥ずかしさにもう1度ベッドに沈んだ。 Drink at Bar Calm ありがとうとごめんなさいって、伝えようとすると難しくて、しかも長くなっちゃうなって何度も打って消してを繰り返してから、漸く2人に送れたメッセージ。 本当は錆兎さんにも直接言うべきなんだけど、連絡先を知らないから"錆兎さんにも伝えてください"って付け加えた。 迷惑掛けた方なのに言伝を頼むとかちょっと図々しかったかなって考えてしまったけど、じゃあどうするべきって考えたら結局答えが出なくて、送りっぱなしのまま。 それでもお昼過ぎに返ってきた "気にしてない。それより明日、待ってる" 短いメッセージで心は晴れていく。 バーマンさんが"気にしてない"って事は、本当に言葉そのままの意味で、またCalmで会えるのを楽しみにしてくれてるっていうのがわかるから、何度も見返してはニヤニヤしてしまう。 明日のカクテルは何だろう? あ、でも久し振りにカームも呑みたいかも。 ベッドの上でゴロゴロしながら、バーマンさんに会いたくなる気持ちを抑えるのに何となくCalmのHPへ飛んでみた。 新しく追加した写真の中に、あのカーム・カクテルも入ってるからかも。 オレンジとディープブルーが混ざり合う彩色は、いつ見ても綺麗で時間も忘れて見入ってしまう。 やっぱり明日はお願いしてカーム呑ませて貰おうかな。2色の温度差を作るのにまだ適温を模索中で、手間が掛かるって言ってたから、バーマンさんの余裕があったらの話だけど。 最近は固定のお客さんも結構増えたけど、新規のお客さんは落ち着いたから大体の来店時間も安定して把握出来るようになってきたし、そろそろ頼んでみても、迷惑にはならないかも知れない。 「…あったかい、止まり木」 口に出してから、堪え切れず零れる笑顔を手で押さえる。 こんなにニヤニヤしちゃうのは、この間のバーマンさんの声がまだ耳に残ってるから。 「俺が止まり木になるのはお前だけで良い」 カクテル言葉が決まって何日もしない内に、何の脈絡もなくそう言われた。 スマホ越しだったから表情も見えなくて、どういう意味かわかんなかったけど、"あったかい止まり木"という言葉は2人だけのものにしようって、表面上のカームはシンプルにウェルカムドリンクとして"Calmへようこそ"って事にした。 何だかバーマンさんと私だけしか知らないってなると、嬉しくて仕方なくなっちゃう。そういう所が子供だってわかってもいるんだけど。 そっか。子供っぽいからダメなのかも知れない。 唐突にそう考えて、寝返りを繰り返していた動きを止めた。 こういう意味のない動きとか、何かあるとすぐに焦っちゃって冷静に考えられなくなるのとか、そういうの。 だからバーマンさん、私に何もしてこないのかな。 何となく心に引っ掛かってた事を認めてしまった瞬間、そうなのかもって自己完結しそうになるのもダメな所だなって思い直した。 この間みたいに勝手に悶々として逃げようとするのはもうしないって決めたから、マイナスに考えようとするのはやめよう。 大丈夫。違うよ。 私が子供っぽいのは、もう何というか今に始まった事じゃないし、バーマンさんにとっても今更だと思う。 だから、今まで何もないのはそれが理由じゃない。多分、バーマンさんの中で色々考えがあるんだ。 母親の事も気にしてくれてるし、私に魅力を感じないとか、そういう事じゃ… あー、でも真菰ちゃんが魔法を掛けたみたいに綺麗にしてくれても、年齢確認されなさそうとか言われたなぁ。 綺麗とか可愛いとか感じる以前の問題? いやでも、きっとそれはバーマンさん特有の言い過ぎちゃう所なんだって何となくわかるから大丈夫大丈夫。 だってカーム作ってくれた時、そういう雰囲気になったし。もしあれがお店じゃなかったらそのままそういう風になってた。多分、だけど。 だから大丈夫。私に魅力がないとか、そういうのじゃ…。 でも、待って。 あれからキスすらしてないよ?1回も。 え?大丈夫、なのかな。 大丈夫じゃない、かも知れない。 勢い良く起き上がって、爆発したままの髪の毛に触れた。 そうだよ。どう考えても大丈夫じゃない。 いくらバーマンさんとちゃんと付き合えたっていっても、今のこのままの気持ちがずっと続く訳じゃない。 彼女だからって安心してたら、いつか凄く綺麗でスタイル良くて性格も完璧なすっごい美人で可愛くて綺麗で、とにかくそんな凄い人が現れて、取られちゃうかも知れない。 そんなのやだ。絶対嫌だ。 だから努力しなきゃ。バーマンさんがよそ見したくならない位、魅力的な彼女になるために。 大人の女性になれない、なんて、もう諦めてる場合じゃない。 なるんだ。主任みたいな、とまでは絶対に無理だけど、色気あるイイ女に一歩でも近付きたい。 そう、色気だよ色気。私には圧倒的にそれが足りない。バーマンさんの方が絶対色っぽいなって思うもん。 カクテル作る時の指の動きとか、伏せがちな流し目とか。 ダメだ。考えてたら、その姿を思い出したら、余計に会いたくなっちゃった。 今日も行くのは流石に色々問題が起きそうだから、我慢するって選択肢しかないけど。 折角妹が良い方向に持ってってくれたバーマンさんの印象を崩したくないのもそうだけど、やっぱりまだ頭痛いから無理してCalmに行ったらまた迷惑掛けちゃいそう。 あ、だからさっき、わざわざ明日待ってるって送って来てくれたのかも。 本心はわかんないけど、その言葉の通り、今日はちゃんと休んで、明日全快な姿を見せに行こう。 ひとまずお風呂入ってさっぱりして、あとは暇だから色気の出し方とか検索してみる。 そう決めてベッドから降りた。 * * * Closedのままの扉を開いて、カランコロンって聞き慣れた音に弛んでいく頬を隠し切れないまま、カウンターの中に居るバーマンさんへ声を掛ける。 「こんばんはっ」 「…あぁ」 こちらをチラッと見ただけで手元に視線を落とすのは、多分開店準備に追われてるんだなって思って、畳んであった外看板を広げた。 「バーマンさん、今日のカクテルは書き換えますか?」 一応クリーナーを手に問い掛けてみたけど、反応がないから集中してるのかなってそのまま待ってみる。 紺碧色の瞳が動いてから、もう一度 「バーマンさん」 って呼んだけど、すぐに逸らされてしまった。 あれ?今、確実に目が合ったんだけどな。 どうしよう。怒って、る? あ、そっか。きちんと面と向かって謝ってないからかも。一昨日も慌ただしさの方が勝っちゃって、ちゃんと言えてなかったし、やっぱり改めて迷惑掛けてごめんなさいって言おう。 「…あの、バーマンさんっ」 カウンターを挟んで向き合ったは良いけど上げられた瞳が窄んで、これ程までにない不機嫌な空気が伝わってきた。 凄い、さっきより怒ってる…。何で?わかんない。どうしよう。 言葉に詰まってしまったせいでそのまま落ちた沈黙に、また怖くなってしまった。 何でこんなに不機嫌さを態度に出すんだろうって。バーマンさんって何があってもそういうの今まで見せない人だったから、余計に怖い。 だからこそ、何に対して謝れば良いのかわからなくなっちゃって、でもそのまま勢いで謝るのもそれも違うっていうか、何で怒ってるのか、ちゃんと理解して 「バーマンは職業だ。名前じゃない」 いつもより速めの口調でそう言うと、バックバーに向かってしまった背中を、一瞬頭が真っ白になったまま見つめてしまっていた。 職業…。名前…? あぁ!そっか!私ずっとバーマンさんって!そうだよ。ずっと職業で呼ばれてたら嫌だよね。一昨日みたいな事もあるし。 「ごめんなさいっ!えっと…、義勇、さんっ」 また、たどたどしくなってしまったけど、紫色の瓶を片手に戻ってきた紺碧色の瞳が穏やかさを宿してて、あ、だから怒ってたのかなって気が付いた。 怒ってたっていうか、不満だったっていうか。 私に、名前で呼んで欲しかったのかなとか。でも上手く言えなかったとか?そしたらちょっと、ううん。凄い可愛いかも。 「義勇さん!今日のカクテルは何ですかっ?」 ちゃんと名前を呼んでるのを聞いて欲しいし見て欲しくて、身を乗り出した。 てっきり少し微笑んでくれるかなって思ったけど、また不満げな表情になってる。 あれ?何でだろ?って考える前に 「それでは呼び方が変わっただけだ」 その一言で、あ、そっかってまた納得した。 これはわかる。義勇さんの言いたい事。多分、私の接し方が他人行儀なんだ。 どうしても、お客さんっていう意識が抜けないからだと思う。 職業上その線引きは大事だけど、今この時は開店前の2人きりなんだし、彼氏彼女としていようって事なんじゃないかな。多分。 でも、そうするとますます何話して良いかわかんないかも。 恋人同士って、どんな事話すの? 考えてる間にも、その表情が呆れていってるから、私が焦ってるのは伝わってる。それは確実に。 そうだ、色気がない要因ってこれかも知れない。謎があった方がミステリアスで色気が出るって昨日調べた記事に書いてあったし。 義勇さんが醸し出す色気は何というか、完全にそれ。 表情の変化もそんなにないから、何を考えてるかわからなくて、そこにまた惹かれるし魅力的だって感じる。 私なんか悉く顔に出るから全部読まれちゃって、魅力も何もあったもんじゃない。 「もしかして、初めてなのか?」 いきなりの質問だったけど、この意味は何となく今までの流れから推測が出来た。 「初めて、ではないです。えっと、高校の時に一度…」 付き合った事が全くないって訳じゃないから素直にそう言ったけど、途中で止めてしまったのは、"すぐ別れた"とか言うのってあんまり良くないんじゃないかなってふと思ってしまったから。 意図した訳じゃないけど黙り込んだ事で、その眉毛が今まで見た事のない上がり方をして、でもそれもほんの少しの動きなんだけど、それを見て思った。 私が義勇さんの過去をほんの一部しか知らないように、義勇さんも私の過去は知らないんだなって。 こういうのって、ちゃんと話した方が良いのかな? でも私だったら、あんまり聞きたくないなって思う。 過去は変えられないから仕方ない事だとは思うけど、詳しい話をするのはちょっと違うかなって。 でもそれはあくまで私が思うだけで、義勇さんはどうかわかんない。だから訊ねてみる。 「詳しく知りたい、ですか?」 私の質問に答える前に目を伏せたから、あ、聞きたくないんだろうなっていうのが伝わってきた。 「…いや、良い」 「ですよねっ。過去の恋愛話なんて聞いても意味ないし仕方ないですもんっあはは」 正直、良かったってホッとしてる。 上手く話せる自信もないし、それで義勇さんの事、傷付けちゃったら嫌だし。 無言のまま瓶を開ける動作に、そういえば凄く綺麗な紫色だなって意識がそちらに向く。 注がれていく中身を見たくて、ついまた身を乗り出してしまった。 さっきより近くなった紺碧色の瞳がちょっと驚いてるって気が付いた瞬間、真っ暗になった視界。 「え!?あれ!?」 慌てて触れたのは義勇さんの左手で、そこでやっと目隠しされているのを知った。 「まだ見るな」 「あ、ごめんなさい!」 「良いと言うまで目を閉じてろ」 「了解ですっ」 そっと離れた手と交代するみたいに、両手で顔を覆う。 グラスが何かに触れる高い音と、ドキドキしてる心臓を聞きながら小さく息を吐いた。 いきなり触れてこられたから、正直凄いビックリしてる。それは今だけじゃなくて、いっつも。 でも義勇さんはいつも冷静だから、当たり前のスキンシップみたいな感じなのかな。 いちいちアタフタしてるのも色気を感じない原因だと思う。 でもそんな平常心でいろって方が無理。だって 「ほぉわあっ!?」 何かもう、色気がないとかそんな問題じゃない気がした。 変な叫び出ちゃったし、思いっ切りビクッてしちゃったし。 でもこれは驚く。ビックリもする。 「バーマンさん!?」 振り向こうと両手を外した先で、見えたタンブラーグラスに動きを止めた。 「…すごい、…きれ、い」 思わず呟いたけど、でもちょっと待ってこの状況はえっと、どうしたら良いんだろう? 目の前のカクテルもそうなんだけど、後ろから抱き締められてるこの近さとか、頭の上から聞こえてくる小さな笑い声とか、何がどうなってるか、何をどうしたら良いかも全然わかんない。 いつの間に後ろに来たんだろう?バーマンさんって気配がなさすぎて、ほんとにビックリする。 あ、違う。今考えるのはそこじゃなくて。 振り向こうにも近すぎて動けないし、笑ってるからその振動が伝わってくるし、心臓が、止まりそうな位バクバクいってる。 どうしよう。このままだとショック死しそう…! 「バーマンさん、あのっ!」 「プースカフェだ」 「へ、ぇ!?」 「この七つの層を作り上げるのが難しいとされている。バーマンの技術が最も試されるカクテルだ。名前に見せたかった」 私に…?あれ?でも 「見せたかった、っていうのはどういう…?」 呑ませたいんじゃないんだって、ふと気になってしまった。 「ほぼリキュールの原液で作られている。一番強い度数は50度だ」 「ごじゅっ…」 それは無理だって、考えなくてもすぐに理解出来る。 でも凄く、ほんとに綺麗。このまま飾っておきたい位に。 虹みたいって、っていうか虹そのもの。 紫から青、水色、緑、黄色、オレンジ、最後に赤で織りなされるバーマンさんが言うその層は、色同士が一切混ざり合う事なく完璧に独立していて、その境目を作り出すのが多分、凄い難しいんだと思う。 「カームを作った事で多少技術も向上した気でいたが、やはりまだ俺の技量では手を出すべきではないと思い知った」 「え?そうですか!?凄い綺麗なのに!」 「お前が呑めなければ意味がない」 ギュッと締まる腕の力に、瞬きが多くなってしまう。 ちょっと落ち着き始めた心臓がまた速くなっていく。 「バー…あ違っ義勇さんっ」 ダメ。このまま抱き締められてたらパニックになりそう。っていうかもう既になってる。 嬉しいけど、どうしたら良いかわかんない。だってお店だし、もうすぐ開店時間だしって、そう思っても、覗き込んでくる紺碧色に引き込まれるみたいに顔を上げれば自然と口唇が重なった。 目を閉じたのは数秒。 離れていく柔らかい感触にゆっくり開こうとした時、耳元で聞こえた 「過去には負けない」 感じた事のない熱量に、目を見開いてた。 もしかして、バーマンさん。嫉妬、とかしてくれてる? あと、多分勘違いしてるかも知れない。 訊こうかどうか迷ったけど、声にする前に離れていく両腕とカウンターの中へと戻っていく背中に何にも言えなくなってしまった。 認識違いでも妬いてくれたっていう事実が嬉しかったのもあるけど、忘れていた事を、正確には蓋をしておきたかった事を、今凄く鮮明に思い出してしまったから。 知らない事のひとつやふたつあった方が、ミステリアスで魅力的に見えるんだよ、なんて言い聞かせた。 Pusse Cafe 恋の駆け引き ← ×
|