先入観。 それがどんな影響を及ぼすのか身を以て知った。そして少しわかったことがある。 例えば、外泊の許可を取ってなかったから連絡をした母親に反対されるとか、許されても遅いとか何とか小言を言われるとか、どっちも覚悟してたから"聞くの遅くなってごめん"ってLINEで先回りして謝ったけど返ってきたのは、 "言われなくても泊まってくるだろうと思ってたから今更なんだけどね" それだけだった。 どんな反応を返してくるか、それこそ先入観の塊だった私は、え?それだけ?って拍子抜けしてしまったけど、それって徐々にバーマンさんが認められてるって良い方向に考えていいのかも知れない。 「それで、ですね……。主任が悩んでるってことを、さっき話してました」 時計の短い針が0時を超えて少ししてから、まばらになったお客さんは急にパタリと止んで、少し前に村田さんが「お先」って言ってCalmを後にしたから、今は正真正銘、2人きり。 正直この時間まで起きていられるかなって不安はあったんだけど、何でかちっとも眠くない。 それどころか妙に冴えてるっていうか。それは多分、話してる内容が内容だからかもしれない。 「妊娠したみたいなの」 微笑んでいるのに複雑な表情をした主任の心の内を、私は全部話してもらってようやく知った。 相手は人事部の元カレさん。あの時、主任と一緒に同期達の不正を暴いてくれた人。 一瞬、元サヤになったんだって喜びかけたのを表に出す前に、主任が全部話してくれてよかったって思ってる。 それはすごく、複雑な関係だったみたい。 元々いがみ合って別れたわけじゃないから、あの時も仕事の一環として手を組んだらしいんだけど、そこからまた発展したのは"ビジネスパートナー"という関係性。 元カレさんは密かに独立を考えていて、会社の設立に主任を誘ったんだって。 「そこで起きたのが一夜の過ちよ」 フフッて笑いながら言う主任に胸が痛くなったけど何も言えないまま話は進んで……、結局まだ妊娠したことを相手にも言ってなくて、どうするべきかも決断ができないでいる。 そう、主任はすごく明るい口調で話してくれた。 「……私、主任になんにも、言えなくて……」 思い返せば、相槌くらいしか返せてなかった思う。 あの時、何か言えてたら──……。 沸き上がる後悔は、 「話を聞く限り、上司はお前に何かを求めていたわけではないと感じるが」 バーマンさんの静かな声で止まった。 「……そう、ですかね?」 視線を上げればその横顔はいつもと変わらないまま、丁寧にグラスを拭き上げてる。 「ただ吐き出すことで楽になる時もある」 そう、なのかな? でも、そっか。そうかもしれない。 私なんて主任の足元にも及ばないほど、色んなことに対して経験が浅いから気の利いた言葉なんて言えるはずないし、それは多分主任もわかってて話してくれた気がしてる。 でも、やっぱり何かできたらって思うのも、自然なことなんだっていうのも感じた。 「どうしたら、いいと思いますか?」 「何をだ?」 一瞬こっちに向いた瞳は、何だかいつもより冷たい気がして慌てて続ける。 「あの、主任のために何かしたいなって思うんですけど……、でも何にも思いつかないし、だからといってこのまま「放っておくわけにはいかないと?」」 ビックリした。心を読まれてるみたい。 思わず頷くしかできない私に、今度こそ不機嫌そうに細まっていく瞳に焦りが募ってく。 「それが先入観じゃないのか?」 最初に言い切った姿は少し、怖かった。 「上司がお前に何かしらの言動を求めているならともかく、望んでいない状態での気遣いはただの自己満足に過ぎない。優しさと同情は似て非なるものだ」 言われた意味を考えて、でもって続けようとした口は開く前に止まってた。 「過度な配慮ほど、相手を深く傷付ける」 言い終わる前に下を向く表情は何かを思い出してるみたいで胸が痛くなっていく。 どんな想いで、その言葉を出したんだろう。 どれだけ傷付いてきたの? どれだけ傷付けられてきたの? 想像すらもできないのに気が付いた時には涙が滲んで、思わず鼻を啜った私にバーマンさんはすごく驚いた顔してた。 「……。悪い。責めてるわけじゃない」 苦い顔をしているのがぼんやりとだけど見えて、何より先に首を振る。 「違うんです!あのっ、言われたから泣いてるんじゃなくて…!あ、泣いてるのはそうなんですけど…っ、その通りだなって思ったからそうじゃなくて!」 先入観。 それがどういうものなのか、突き付けられた気がする。 結局のところ主任の身に起きたことって、私にとっては他人事で、他人事だからこそ自分がそうなったらって考えてたけれど──…… それがもう、先入観なんだって。 私が思うことは、必ずしも主任が思うことじゃない。 私の価値観と、主任の価値観は違う。 私の"普通"は、誰かの"普通"じゃない。 だけどいつの間にか自分の"普通"を基準にしてしまう。気が付かないうちに。 「そうやって押し付けられて、きたのかなって、思ったから……」 全然何にも思ってること伝えられないまま、涙だけが溢れてきてる。 「バーマンさんは……きっと……っ」 すごくすごく傷付けられたから、私が誰かにそうしてしまわないように教えてくれた。 言葉はちょっと強いなって思ったけどそこには優しさが溢れてるから、だから涙が出てきてしまう。 「……ごめっ、な」 自分でもよくわかんないけど、止められない。 顔を隠そうとする前に頬に触れたのが手だって知って、瞬きをした時には指が涙を拭ってた。 「……お前は、本当に」 怒ってるような呆れているような、それでいて優しくてあったかい瞳が近付いてきて、口唇が触れ合うまで瞬きすら忘れてたのも離れてから気付いてる。 「閉めてくる」 一言だけ言ったあとカウンターから扉に向かう姿で、遅いけど意味を知った。 閉店、するんだって。 いいのかな?まだ閉店時間じゃないのに。 私が泣いてしまったから、そうしてくれたのかな。 でも閉めちゃったら、そしたら、これから本当に朝まで2人きりだ。 そのことに気が付いた時には、緊張が込み上げてきてた。 どうしよう。私、着替えもないしコンビニにも行けてない。 そういうのって先に言った方がいいのかな? でも、それこそ身構えてるっていうか、準備しますみたいな感じで……。 「何を呑む?」 いつの間にかカウンターに戻ってた紺碧色の瞳と目が合って、瞬きしかできなかった。 「へ?」 「アメール・ピコン・ハイボールから何も呑んでないだろう?」 「……。あー、そういえば」 思わずカウンターに目を向けたけど、空になったグラスに入ってたのは主任と頼んだ時と同じオレンジジュース。 単純にバーマンさんの絞ったオレンジジュースが美味しいからもう1杯飲みたいって思ったんだけど、閉店までの時間を考えたら私がカクテルを呑み続けることはできないし、眠ってしまいたくないからオーダーしたんだけど、美味しくて気付けばおかわりしてたから、結局カクテルは呑めてない。 「……え?でも、いいんですか?もう閉めるんじゃ…」 「片付けてる間に呑めるだろう?」 あ、そっか。そういうこと……。 「あー、じゃあ、お願いします」 そう言ってから考えたけれどコレっていうカクテルはすぐに思いつかなくて、すぐに続ける。 「バーマンさんのオススメでっ」 そう言ったら負担にもならないかなって思ったんだけど、険しくなってく眉間にドキッとした。 「呼び方は意図的か?」 「へ?」 「今日はずっと呼称で呼ばれてる」 こ、しょう? どういう意味かわかった時には口を押さえてた。 そうだ。私今"バーマンさん"って……。 ずっと、呼んでた?嘘、気付かなかった。 いつからだろう? 考えてる間にも不機嫌な表情は強くなっていくから、勢いだけで口を開く。 「ごめんなさい…!多分、あのつられたっていうか、いつもと違うから……。ここに来たのがひとりじゃなかったっていうのもあるし、仕事のこととかで頭がいっぱいになって、まして……」 喋れば喋るほど、視線が痛いのは何でだろう? 「……。怒って、ますか?」 耐え切れなくてそう訊けば、ふいっと顔を逸らされた。 「別に」 一言だけで黙ってしまったバー、じゃない。義勇さんとの間で気まずい雰囲気が流れてるのは勘違いじゃない。絶対。 でも閉店作業を始めてしまったしこれ以上私が何か言っても邪魔になる気がして、ただ待つことにした。 暫くして無言で差し出されたコースターとグラスに、疑問を視線で向けてもすぐに洗い物を始めるから、さっき言われた通り「呑んで待ってろ」ってことなのかなって解釈してそれを傾ける。 「ん、おいしっ」 出すつもりのなかった言葉に口を押さえたけど、その横顔が柔らかくなったような気がして、何だか少し、嬉しくなった。 Drink at Bar Calm 徐々に減っていくイチゴみたいに綺麗な赤色を眺めながら、そういえばカクテル名教えてもらってないなって気付いた。 でもバ……違う、義勇さん、忙しそうだしわざわざ話し掛けるのもな……。 空になった瓶を集めたかと思えばカウンターの下へ潜ってしまった姿は気になって、ちょっとだけ覗き込んでみた。 あ、ゴミ袋、縛ってる。 それを知った瞬間、思わず身を乗り出してた。 「あのっ、義勇さん!」 こっちを向いた紺碧色の瞳は、返事の代わりみたい。 「私にも、やらせてください!というか教えてください!」 一瞬にして何を?って顔をしたのは、何となく、何となくだけどわかった、気がする。 「閉店作業!2人でやった方が効率いいと思うんです!」 それは今まで何となく遠慮してて言い出せなかったこと。 義勇さんにとって"当たり前"の知識や作法を私は知らないから、よかれと思ってもそれは間違いかもしれなくて、足を引っ張るのが怖かった。 それにCalmのカウンターの内側は、義勇さんのテリトリーだから何も知らない素人がウロチョロするのはあまり良くないかなって。 そういう先入観から、勝手に配慮してた。 でもそうじゃないんだと思う。 教えてもらうことは義勇さんにとって負担になるけど、でも……。 「私が少しでも覚えられたら、これからこうやって週末は力になれるしっ、それに2人でゆっくりできる時間も増えるかなって、思い、まして……」 うっ。真っ直ぐ見つめてくる目から逸らしたい。 変なことを言ったつもりはないけど、どうしよう。全くの的外れというか、見当違いな提案してたら。 自信がないからそのまま言葉は詰まってしまって、また気まずい沈黙が流れてる。 「……。そうだな」 小さく呟いた義勇さんは、立ち上がると白いスプレーとペーパータオルをカウンターへと置いた。 「ここと、向こうのテーブルを拭き上げてくれないか?軽くで構わない」 「了解ですっ」 簡単な作業だけど任されたってことがすごく嬉しくて、勝手に返事が弾んでた。 義勇さんだけじゃなくて、このカウンターにもいっつもお世話になってるからお礼を込めつつスプレーを噴射して拭いていく。 これって何が入ってるんだろうって不思議に思ったけど、わずかに塩素の匂いがして、除菌剤か何かかなって納得した。 軽くって言われたけど、何となく手を抜きたくなくて隅々まで拭いていけば、何だかすごく綺麗になった気がする。 ……見た目的には、あんまわかんないけど。ペーパータオルにもわかりやすい汚れはついてないし。 でもそれって、いつもこうやってバーマンさんが綺麗にしているからなんだろうなって何となくだけど想像ができるから、嬉しくなった。 あー、えっと違う違う。バーマンさんじゃなくて、義勇さん。 今日は意識しないとすぐバーマンさんって呼び方になっちゃう。何でだろう? 意識が違う、のかな? 上手く言えないけど、恋人同士っていうよりお客さんっていうのが、今は私の中で強いんだと思う。 それはいつもと違うことがたくさんあったからなんだけど、これってどうしたら直るんだろう? 考えているうちにカウンターを出た義勇さん。そう、義勇さんを見るけどすぐにお手洗いへと消えてしまって、静かな空間がますます静かに感じた。 手を止めてる場合じゃない。 戻ってくるまでにテーブルも綺麗にしておこう。 目に見える汚れはないけど、丁寧に丁寧に拭いていったから、結構時間はかかったはずなんだけど、未だに戻ってこない。 次は、何したらいいのかな? ひとまずペーパータオルは纏められたゴミ袋の中へ捨てさせてもらって、まだ飲みかけだったカクテルを一口呑んだ。 「ん、おいしっ」 ちょっと温度は上がってるから、甘味が強くなってるけどそれも新しい発見。 "バーマンさん"はやっぱり、私にとって憧れなのかも。 知れば知るほどに、すごいって思う。 カクテルに対する情熱も知識も姿勢も全部。 あー、だから、かも。 どうにも"バーマンさん"呼びが抜けない理由。わかった気がする。 私が主任とここに来た時点で"バーマンさん"はお見通しだったんじゃないかな。 全部じゃなくても、何となく主任の様子がいつもと違うこととか、距離があっても気が付いてたんだと思う。 私のいつもの定位置、その横が空いても主任が帰るまで呼ぼうとしなかったこととか、時々私達を気にかけるように向けられた紺碧色とか、思い当たる節はいくつもある。 「……やっぱり、すごいなぁ」 このカクテルも、何か意味を持ってたりするのかも。 色とかグラスの種類だけで特定できるかな? まだ戻ってきそうにないから、スマホをタップしてみる。 "カクテル"と。 何て入れたら引っかかるかな。 えーと、ひとまず…… 「どうした?」 「…ほわぁっ!」 落としそうになったスマホは何とかキャッチしたけど、心臓はバクバクいってる。 「そこまで驚くことか?」 振り向けばちょっと呆れらてるみたいに目を細められた。 「……だって、バーマっ、義勇さん!いきなりいるから!」 不機嫌な表情に一瞬変わったのは、完全に私の呼び間違いのせいだと思う。 「声はかけた」 「へ?なんて…?」 「トイレ掃除が終わったと」 「あー、掃除してたんですねっ」 だから遅かったんだ。でも、それなら…… 「言ってくれれば私っ」 「いや、いい」 カウンターに戻っていく背中に何も言えなくなって、ちょっとヘコんだ。 やっぱり何も知らない素人じゃ、頼りにならないのかなって。 でも、そうだよね。 掃除の仕方だってきっと決まってたり、義勇さんのやり方とかもあると思う。 それを逐一伝えるのって、結構骨が折れること、私も一応社会人だから知ってる。 仕事なら必要な報連相も、今ここで重要なわけじゃないもん。 だけどやっぱり、ちょっと落ち込む。 全然、役に立ててないなって。 仕方ないって、わかってるけど。 「トイレ掃除は」 泡を擦り合わせてる両手に目を止めてから、その横顔へ視線を向けた。 いつもと変わらない、涼しい顔してる。 「バーマンを志してから俺の中で重要視している項目だ。それに伴い、Calmを立ち上げた時、ある制約を課した」 だけど喋り方がゆっくりになってるから、すごく考えて言葉を紡いでくれてるんだってわかった。 「……。せいやく、って?」 自分の事を話してくれてる。 その嬉しさと戸惑いで、ちょっと声は詰まった。 「日課とすることだ」 かと思えば、言い切ったあと手を拭き始める姿になかなか理解が追いつかない。 「……。あー、えっと、トイレ掃除を、毎日するってこと、ですか?」 「そうだ」 「……そう、なんですね」 「だから、お前は気にしなくていい」 ようやくちゃんと、わかった。 "気にしなくていい" その一言を私に伝えたかったんだって。 だけどそれだけじゃ伝わらないから、理由を話してくれた。 「顔に……、出てました?」 罰が悪くて苦笑いになってしまえば、紺碧色の瞳と目が合ってドキッと心臓が動く。 「出ていた」 「……すいません」 出すつもり、なかったんだけどな。 「わかりやすくて助かる」 それっていいことなのかな? ちょっと疑問は湧いたけど、その口唇がわずかに笑った気がして私まで綻んでいく。 「どうしてトイレ掃除が重要なんですか?」 少しだけ触れられた義勇さんの奥側をもっと知りたくなって、カウンターへ身を乗り出した。 私の勢いにちょっとたじろいだみたいだったけど、小さく息を吐くと話し始めてくれたからワクワクしていく気持ちが止まらない。 「師匠に最初に教えられたのがそれだった」 遠くを見つめる瞳は、何かを思い出してるみたい。 「よく言うだろう?新入りは雑用を与えられる、と」 「あー、確かにっ。よく聞きますね」 それには色んな意味があるっていうのも。 最初にキツかったり汚い仕事をさせてふるいにかけるとか、そのしごきに耐えられて初めて一人前になるとか。 根性論に近いから賛否はあるけど、特殊な職業ならそれも必要なことなんだって今まで関わってきた案件で何となく感じてはいる。 Barの世界もそうなのかも。 「だがそれは、雑用じゃなかった」 ボソッと零した言葉に、思わず首を傾げてた。 ずっと見つめていたから目が合った瞬間に、ちょっと罰が悪そうにされてる。 「……えっと、どういう意味ですか?」 訊いてもいいか迷ったけど、ここまで来たら引けない。 暫く流れた沈黙のあと、話し出した義勇さんの顔には観念した。そう書かれてるようにも見えた。 「話すのは片付けながらでもいいか?」 そう前置きをされたから、 「あ、私も」 って言った瞬間に掌で制止されて、 「お前はカクテルを呑んでていい」 そう言われてしまったから、定位置に座ることしかできなくなった。 細々と出されたのは、義勇さんの師匠・鱗滝さんの持論。 "結局のところ、基本に勝るものは何もない" それが鱗滝さんの根幹だって、義勇さんは言った。 どれだけ接客するのが上手でも、作るカクテルが美味しくても、基本がなければ意味がない。 それはそうかもって聞きながら納得したけれど、じゃあどうしてトイレ掃除に繋がるんだろうって不思議にも思った。 「師匠の考えは、俺にも全て知悉できていないが」 一度言葉を止めた義勇さんは、ゆっくりとCalm全体を見回してる。 「此処でバーマンとして生きるとなった時、その片鱗に触れられた気がした」 何かを思い出してるように伏せられた瞳は綺麗で、見入ってしまっていた。 でもそこで終わってしまった話に、流れるのは沈黙だけで慌てて考える。 えっと、ということは……? どういうこと? 一生懸命頭を働かせてる間にも、 「ゴミを捨ててくる」 大きな袋を両手に持ちながら扉に向かう姿に立ち上がった。 「開けますっ」 止められる前に開いたはいいけど、そのまま出て行く背中に疑問は残ったまま。 しん、と静まり返った店内を見回してみた。 さっきの義勇さんみたいに。 ここで、バーマンさんとして生きる、か。 どんな気持ちだったんだろう。 想像しかできないけど、きっとすごくワクワクしただろうな。 自分だけのお店ができるなんて、私だったら嬉しくて堪らない。 どんなお店にしようかとか、考えるだけで楽しくなっちゃうもん。 あ、でも義勇さんはきっと嬉しいだけじゃなくて、たくさんのことを考えたんじゃないかな。 主任と私が訪れた時がCalmの初開店の日だって言ってたけど、なんていうか、すごく落ち着いてた。 華々しく開店を祝う花とかもなかったし、それこそ"凪"みたいに穏やかで、最初からそこに在るみたいな雰囲気だったから、それを聞いてビックリしたんだっけ。 思い返してみて、少しだけわかったかも。 自分のお店だから、義勇さんは自分の手が届く。それを大事にしてるのかもしれない。 だからトイレ掃除も、閉店作業も、自分でやりたがるのかな? この場所が大事だから。 そう思った瞬間から、勝手に頬は弛んでいく。 やっぱり、不器用だなって。 そこが義勇さんらしくて、大好きなところなんだけど。 「もう呑まないのか?」 「うわぁっ!」 後ろから響いた声に、もうこれでもかってくらいの声を上げてしまった。 慌てて振り向けば、その瞳が訝しんでる。 「……あ、ぉ、おか、えりなさい」 どうしよう。すごい挙動不審になってる、私。 いつもなんだけど、ほんとに義勇さんって気配がない。 「呑まないなら片付けるが」 「呑みます呑みますっ」 回収される前に椅子に滑り込んで、グラスを確保する。 口に運んだそれは、さっきよりも甘味が増してる気がした。 ん、おいしっ。 心の中で呟いてる間にも義勇さんは休むことなく作業を再開させるから、また声をかけたくなったけど、さっき思い浮かんだことが蘇って、大人しく目の前のカクテルを味わうことにする。 あ、でも、ひとつだけ気になること。 「あの、義勇さん」 「何だ?」 穏やかで優しい声が返ってくるのが、何だか嬉しい。 「このカクテルって、なんていうんですか?」 でもそれを聞いた途端、ちょっと動いた表情はどこか驚いてる。 「言ってなかったか?」 「聞いてないですっ」 身を乗り出したのに、今度はいつもと変わらない表情に戻ると片付けを再開させる姿にちょっと思った。 もしかして、言いたくないとか……? じっと見つめていたからか、ちらりとこっちへ向けられた紺碧色の目はすぐに逸らされた。 「さっき調べたのかと思っていた」 「へ?……あー、まだでしたっ!」 「それなら調べればいい。ウイスキー、ワイン、レモンジュース、卵白、砂糖で出てくる」 いつもより早い口調で言ったあと、カウンターの裏に向かってしまう背中を引き留める隙はなくて、かわりにスマホを取り出す。 えーっと、ウイスキーとワインと……。 忘れてしまわないうちに打ち込んで検索してからそれっぽいレシピをタップしてみた。 エルクス…、オウン? 聞いたことない。 アルコール度数16ってなってるけど、そこまで強い感じがしなかったのはいつものように義勇さんが調整してくれたからかな。 スクロールしていけば作り方が細かく乗ってて、でもこのレシピにカットパインは入ってないんだって少し不思議にも思う。 「……っ!」 思わず上げそうになった声を手で押さえたけど、そのまま暫く身動きできないまま止まってた。 でもその後にはニヤけていくのを必死で隠してる。 だから、言いたくなかったのかな。 だから、あんなに不機嫌だったの? 訊きたいけど、訊けない。 だって多分、言わないってことはそうだってことだよね? 嬉しくて嬉しくて、考えてること全部吹き飛んでしまった。 Elkt´s・Own 気をそらさないで ← ×
|