Drink at Bar Calm | ナノ
駅に程近いビル群の一角に、新しくBarがオープンした。そんな話を、俺が錆兎達から聞いたのは、確か1週間前だ。
激戦区と言われている立地がてら、新店自体は、それ程珍しい話じゃない。入れ代わり立ち代わり、何処かが開店すれば、何処かが閉店する。それを繰り返している。

その実力勝負の世界で、未だ他店を寄せ付けない勢いを持つBar Cascade。
鱗滝さんが一代で成した功績の数々から、この界隈で唯一無二、孤高の存在であるのは近隣のバーマン、いや、Bar業務に携わる人間なら皆知っている。
それ故に、Barを出店するとなった時、Cascadeの周辺は避けるのが暗黙の了解となっていた。
真っ向勝負をした所で、勝てる筈がないのは火を見るより明らかだからだ。誰も負け戦などしたがらないし、老舗を敵に回して生き残れる程、この世界は新参者に易しくはない。

今までの背景を知っているからこそ、ふらりとCalmにやってきたと思えば、その新店について突然話し出した意図が読めず、先程名前が使ったグラスの水滴を拭き取りながら耳だけを傾ける俺に放った

「通り挟んでうちの斜め向かいなんだよ、その店」

錆兎の言葉には聊か驚きもしたし、続く真菰の

「しかも結構こっちが劣勢」

溜息混じりの報告には耳を疑った。


Drink at Bar Calm


『お客さんの取り合いとか、Barの世界にもあるんですね』

スマホ越しにでも驚きに満ちた表情が容易に想像が出来て、口元の代わりにネクタイを弛める。
「良くある」
『あー、でも近いと余計にそうなっちゃいますよね』
ハンガーラックにそれを掛けて、地下から持ってきたロックグラスを傾けた。
喉を通る前に
『バーマンさん、何呑んでるんですか?』
すぐに気が付いた名前に、今度は勝手に口角が上がる。
氷がぶつかる音だけで、声色が興味津々なものに変化したのが純粋に面白いと思った。
「スローテキーラ」
『スロー、テキーラ?』
「テキーラとスロー・ジン、レモンジュースで作られるショートカクテルだ。想定よりレモンジュースが余ったため作った」
『あー、そうなんですね』
俺の言葉で深く納得しているのは、本日のカクテルが生絞りレモンを使用したジン・フィズだった事を思い出したからだろう。
コンロの隣にグラスを置いて、茶色い液体に浸していた緑色を一口齧る。
ポリッ。
その後の咀嚼音で
『あ、しかも何か食べてる』
不思議だと言わんばかりの口調で更に頬が弛んだ。
「キュウリ」
『きゅうり!?』
本当にわかりやすく驚くものだと出そうになる笑い声を何とか堪える。
「スローテキーラにはキュウリスティックを添えるのが一般的だ」
『…へー。私でも呑めますか?』
「レモンジュースを多めにすれば呑める。今度作ろう」
『やったっ』
恐らく手を握り締めているのだろうと想像出来て、今度こそ小さく笑いが零れた。

"親密な関係"

ふと、スローテキーラのカクテル言葉が過ぎった事で、そういえば俺達に当てはまるな、と気が付く。
親密な関係、といっても名前の接し方からでもわかるように、特別な変化はまだ起きていない。
仕事終わりにCalmに来ては、1杯のカクテルを呑んで帰る。
2人で話せる時もあれば、他の客の手前、何の会話もない時もある。
まだ過保護で面倒だという母親にも挨拶を済ませていないため、それまで外泊は控えようという話にもなった。
ただでさえ余り良く持たれていないであろうイメージの更なる悪化を避けるためだ。

慎重に構えているのは、名前の勤め先の変化にも関係している。
上司が暴いた不正は、その根幹を揺るがすものだったという。
関わっていた人間を解雇、もしくは自主退社という措置を取ったために、営業部と経理部が壊滅状態にまで追い込まれ、異動の話も一旦保留となったと、本人から聞いた。

という事は必然的に現状維持という選択になり、一緒に住むという話も立ち消えになったが、その際
「此処に通い続けられるから正直かなりホッとしてます」
嘘のない笑顔を向けられ、相変わらず打算というものを全く考えないなと思った。

『バーマンさん?』

耳元で響いた声で、自分が物思いに耽っている事に気付く。
「…うん?」
『疲れてます?あの、無理し「無理はしてない」』
グラスを傾けてから、そういえば今何時なのだろうかとポケットから取り出した針の位置に眉が寄った。
「俺より名前が無理してないか?もう3時を過ぎてる」
閉店からの業務終了後となれば、この時間になるのは仕方がないとは言え、憂慮は募る。
『大丈夫ですっ。帰って来てからさっきまで寝てたんで逆に目が冴えちゃいました。あはは』
そう軽く笑うのは照れ隠しの一種なのだろうというのは、最近知った事だ。
閉店後にこうして会話が出来るのは、名前が定休の前日、つまりは週末しかない。
そのために、帰宅してすぐに仮眠を取ったであろうと簡単に汲み取れるのに、それを前面に押し出してこないのも、名前らしいと言える。
そういえばそんな話を、先程錆兎達ともしたな、と思い出してから、もう一度グラスを傾けた。

「明日なんだが」
『はいっ』
「付き合って欲しい所がある」
『……。家具屋さんですか?』
返ってきた質問に、眉根が寄る。そういえばまだその約束も果たせていないと気が付いた。
日中に時間が合うのは、また来週以降になるか。
「いや、椅子はまだ良い」
『じゃあ何処に?』
「さっき話していたBar『え!?』」
驚きの声を上げるのが早すぎないか?というのは心の中だけで留めた。
「錆兎に誘われた。どうにも俺達3人だと同業者ではないかと疑いを掛けられる可能性があるため名前にも来て欲しい」
『…あー、成程。私、明らかにそれっぽくないですもんね』
「そういう意味で言ったんじゃない」
『わかってます!バーマンさん達のお役に立てるなら頑張りますっ』
やる気に満ちた声に頬を弛める前に
『じゃあ明日、Cascadeに行けば良いですか?』
返ってくる質問で自然と力が入った。
「いや、一度準備をしたい。Calmに来てくれ」
『了解ですっ』
若干の疑念を持ちながらも、承諾した声色に安堵をする。
それからスローテキーラを呑み干すまでの短い間、平滑な会話が続いた。

* * *

翌日、17時を迎えたと共にCalmの扉を開けた名前は、既に到着していた錆兎と真菰を視界に入れた瞬間、その場に立ち尽くしたまま動かなくなって、掛けようとした声は
「…義勇、さてはお前何も説明しなかったな?」
肩を落とす錆兎と
「まぁ、うん。だと思ったけどね」
溜め息を吐きながら苦笑う真菰によって止められた。

「…え?これ!?コレ着るんですか!?」
「そっ、大丈夫!名前さんに似合うから!」

明らかに狼狽している名前を丸め込んでいく真菰の声が裏から響いてくるのを聞きつつ、錆兎の隣に腰を降ろす。
途端に呆れた瞳が俺へと向けられた。
「お前なぁ、真菰に全部任せろって言われたからってせめて最低限の事は伝えておけよ。名前、泣きそうな顔してたぞ?」
「悪い」
「ったく」
慣れた手つきでワイシャツの襟を立てると巻かれていくのは、いつもの黒色ではなく、濃い緑色と金色に近い黄色のストライプ。
その色が似合うのは錆兎だからだろうと思いながら、自然と自分の首元に触れた。
深い青のそれは、生地が厚みが違う分、普段よりも若干窮屈にも感じる。

「次はメイクね!がっつりするよがっつり」
「え!?それもするんですか!?」
「当たり前でしょうー?敵陣地に乗り込むんだから完璧なドレスコードにしていかなくちゃっ」

その会話の後、静かになった裏に視線を向けながら
「真菰の奴、完全に楽しんでるな」
小さく笑う錆兎を目端で捉えた。

ドレスコード。要は服装規定だ。
通常Barに、これといったドレスコードというのは存在しておらず、CascadeもCalmも、それを理由に入店を断る事はしない。
しかし錆兎達が調べ上げた所によると、その斜め向かいのBarは入店時、服装に関してのチェックが厳しい店だという。
それでも客足が遠のかないのは、それを補って余りある何かがあるという事だ。
その"何か"が、Cascadeにはない魅力なのだろうかと、真剣に悩み抜いていた錆兎と真菰を思い出す。
俺にまでその偵察を依頼するという事は、そのBarが現在のCascadeにとって脅威的存在になっているのは間違いない。
もし、もしもそれが、どう足掻いても埋まるものではなく、錆兎達がその現実を目の当たりにした時、俺はどうするべきなのか。
仮定の話を今しても仕方がないが、考察はしてしまう。

しかしそれも
「出来たよ〜!どうかな〜?」
笑顔の真菰に手を引かれ姿を現した名前を視界に入れた瞬間、全てが吹き飛んだ。
居た堪れなさそうに身を小さくしてはいるものの、深い青のドレスを纏うその姿に、心臓が勝手にドクドクと脈打っていく。
「お、良いんじゃないか?義勇のネクタイと同色で揃えてきたな」
「流石錆兎。目聡い」
「目聡さはバーマンの武器、だろ?」
「まぁね〜」
2人の会話を聞きながらも、動けないでいる俺に錆兎の肘が触れる。
「いつまでボーッとしてんだよ。何か言わないと、また泣きそうな顔になってるぞ」
耳打ちされた事で漸く我に返った。
「あ、あぁ」
何と言えば良いのか一瞬で考えたものの、出てきたのは

「年齢確認は、されなさそうだ」

その言葉だけ。
一瞬で凍り付いた空気に挽回をしようにも、真菰から笑顔の肘打ちを食らい、鳩尾を押さえるしか出来なかった。

* * *

「待たせたな」

Cascade名義で借りている月極駐車場に車を置いてきた錆兎と合流し、例のBarへと向かう。
先陣を切る錆兎に続けば
「義勇達さ、恋人同士のダブルデートっていう設定なんだから、手を繋ぐとか腕組むとかしないと」
呆れた声を背中で聞き、振り返った。
その先で見つめ合った名前がわかりやすく吃驚していて、俺まで意識をしてしまう。
「…あぁ。そうだな」
冷静に返事をしてからおもむろに左腕を差し出せば、不可解な面持ちから意味を悟ったものへと変化した。
「失礼しますっ」
覚悟を決めた様子で回してくる右手から、隠し切れない緊張が伝わってきた。
「もっと近付かないと歩き辛くないか?」
「…あー、えっと、…はい」
僅かに縮まった距離に下を向く顔が上げられる事なく、俺も前へ視線を向ける。
名前の歩幅を合わせた事で、追い抜いていく真菰の手柄顔に目を窄めた。
その間も先陣を切る背中が立ち止まる事はない。
「錆兎達は?」
俺の質問に
「「は?ナイナイ」」
同様のタイミングで振り返ると一蹴する2人はやはり変わらないと考える。
「あの、バーマンさん」
おずおずとした口調に視線をそっちに戻した。
「どうした?」
「錆兎さんと真菰…ちゃんって付き合ってるとか、では?」
「違う。2人の前でそれは言わない方が良い」
「え?何かタブーみたいなのがあるんですか?」
途端に声量を小さくする名前の表情はまたとなく狼狽えている。
「特別何かあった訳じゃない。昔からそういう関係だと言われるのを嫌ってるだけだ」
「へー、そうなんですね」
興味ありげに2人の後ろ姿を見つめる瞳に、若干の眉が寄った。
「それより、呼び方はどうにかならないか?」
「へ?」
「今バーマンと呼ばれるのは支障が出る」
「あ、そっか!そうですね!あ、じゃあ義勇っ、さん!」
耐え切れず付け加えた敬称に弛みそうになる頬を抑える。
「それで良い」
短くした肯定で向けられる瞳から伝わる慕情に、口唇を重ねたくなる衝動を止めたのは
「此処だ」
真剣な錆兎の一言だった。
見上げた先、Bar infiniteと書かれた看板に目を窄める。
「…インフィニット…?」
名前が呟く間にも、階段を上がっていく錆兎と真菰の背が、完全に戦闘態勢に入っているのを感じた。
殺伐とした空気を出しては気が付かれるのではないかと若干憂慮しながらも、既にその雰囲気に圧倒されている名前へ顔を向ける。
「そういえば、他のBarは初めてか?」
「えーと、はい。大丈夫、ですかね?私…」
「大丈夫だ。俺が居る」

階段を上り始め、その立地の優位さを考察した。
一度ビルの中に入ってから、エレベーターで最上階まで向かわなければならないCascadeとは違い、外から繋がる広い階段を1階分上がれば辿り着ける手軽さは、そっちに分があると言える。

扉を開けた先、
「いらっしゃいませ」
待ち構えていたように頭を下げる案内係の貼り付けた笑顔で、確かに何か裏がある。上手く説明は出来ないがそう感じた。
席に通される間に、不自然にならない程度に全体を把握するため視線を巡らす。
Calmより遥かに面積はあるが、Cascadeよりは狭い空間にはI字型のローカウンター。
中に居るのは8人の従業員だが、独客と1対1で接客している様子と、裏から完成しているカクテルが出てくる事から、恐らくバーマンではない。
その様子は何というかBarというより
「ホストクラブみたいだね」
俺達にしか聞こえないような声量で呟いた真菰に、全く同じ事を考えていたと眉根を寄せた。
通された2人掛けの黒革のソファに、真菰、錆兎が座ったのに倣い、俺もテーブルを挟んで向かい側へ腰を降ろす。
自然と組んでいた腕が離れた事で、困惑している名前へ隣に座るよう促した。
タイミングを計ったように、薄茶の手絞りを真菰から錆兎、俺へと順番に差し出していく。

「本日お勧めするカクテルはロブ・ロイ」

突然口を開いたのは、名前へとそれを渡すと同時。

「カクテル言葉は"あなたの心を奪いたい"」

受け取ろうとする右手を攫おうとする動作を感じ取り、身を乗り出し制止した。

此処で揉め事を起こしてはならないのはわかっている。言葉の代わりに視線だけで威圧すれば、案内係は即座に手を引くと眉を下げて微笑う。

「…これは失礼。余りに素敵な女性でしたので」

口調を崩さぬまま、下がっていく背中を見つめる名前の瞳が惚けているのに眉を顰めた。

「ふーん、そういう事かぁ」
「そりゃぁCascadeから客も大量に流れる訳だ」
店内を見渡す真菰、テーブルに備え付けられたメニュー表へ視線を落とす錆兎が納得している。
真菰に倣い、視線だけを巡らしてから俺もその意味を知る。
「疑似恋愛という奴か」
満席に近いカウンターを占めるのも、テーブルを囲むのも、恐らくはその術中に嵌った客達なのだろう。
真菰が呟いた単語は言い得て妙だと言える。
「疑似?」
首を傾げている名前の耳元へ顔を近付けた。
「要は客を口説きその気にさせ、店に通わせる手口だ」
「あー、そういう悪質なお店もあるって聞いた事あります」
初めて見たなぁ、と付け加えて苦笑いしてる表情は暢気なもので、今俺が止めていなければ手の甲にキスのひとつやふたつ落とされていたであろう事にも気が付いていない。
「余り奴らをジロジロ見ない方が良い」
若干湧き出た悋気から吐き捨てるように言えば、途端に焦燥していく。
「ジロジロなんて見てないです…!」
「さっき背中をずっと見つめていたが?」
「それはっ…」
言葉に詰まる名前に、顰めそうになった顔は
「あのシルバーの制服もバーマンさんが着たら、似合うだろうなって思って…。あ、でもちょっと派手だから好みじゃないかなとか考えて、ました…」
遠慮がちに出された言葉は、俺の頬を一気に弛ませるのに十分過ぎる程。
「…呼び方」
「あぁっすいませんっ」
急いで口元を押さえる表情から、視線を剥がすと距離を取る。
そういえば、黒で統一されているCascadeと比べると、此処の人間は服装も奇抜だという事に名前の言葉で気が付いた。

「義勇、見ろよコレ」
おもむろに差し出されたメニュー表に意識した訳ではないのに眉が寄っていく。
「…随分安価で提供しているな」
カクテル名が並ぶ欄をざっと見ても、4桁を超える値段が一切ない。
「あぁ。原価率を考えてもこれじゃ赤字ギリギリだ」
集客に繋がってるのは、身を削るような価格設定にあるのだろうか?
それにしても賃料や人件費を考えると
「へー、カクテルサラダ…。色んな種類があるんですね」
「ねー。面白い。これ美味しそうじゃない?チキンとキノコのやつ」
「ほんとだ美味しそうっ」
「頼む?」
「え?良いんですか?」
「良いの良いの。私もお腹空いちゃったから」
同じくメニューを覗き込む名前と真菰の会話で思考を止めた俺を余所に、目を細める錆兎。
「真菰」
咎めるように名前を呼ぶも、本人は気にした様子もなくメニューへ視線を落としたままだ。
「3人とも険しい顔してたら怪しいでしょ?名前ちゃんも置いてけぼりになっちゃうし。偵察は頭が切れる2人に任せるね」
そう言うとすぐにメニューの話に戻る真菰が言う事も尤もかと錆兎と視線を合わせる。
「ひとまず何頼むかを考えるか」
「そうだな」
互いに張っていた気を弛めるために、小さく息を吐いた。

* * *

「お待たせいたしました。オレンジ・ブロッサム、ピーチ・フィズです」
それぞれ、薄い桃色と橙色のタンブラーグラスを名前と真菰の前に置いていく所作は手慣れたもの。
自然に目で追いそうになるのを抑え、端だけで捉えた。
同時に注文したにも関わらず、2人のカクテルが先が運ばれたのにも、Barでは良く目にするマナーだが、今この場では作為的な何かを感じざるを得ない。
「いただきます」
俺達の状況を気遣い、期待に満ちている瞳を隠そうとしているのだろうが、隠してきれていないなと口元が上がりそうになるのを止める。
「…ガーニッシュはなし、か」
名前が傾けるグラスを一瞥してから呟く錆兎は真剣そのものだ。
「果物を使わない事で原価を押さえてるのかも知れないな」
「あぁ」

「美味しいー」

朗らかにそう言う真菰の手にはショットグラスに詰められた野菜とチキン。
てっきり名前の口から出たのではないかと視線を向けてしまったが、その姿はグラスを両手で持ったまま動かなくなっていた。
何かを考えているようにグラスの中を覗き込んだと思えば、もう一度口に運ぶとまた動きを止めている。
初めて見たその表情に、何を考えているのかが珍しく読めず、眉を顰めそうになった。
いつもならば呑んだ後、間髪入れずに必ず何かしら言葉が突いて出てくる。
それがほぼ、本人の意思と関係なくだ。だからこそ珍しい。そう感じている。

「…うーん」
首を傾げるともう一度呑んでから、同じように首を傾げた。
「どうしたの?名前ちゃん」
俺が訊ねる前に、真菰が不思議な顔で見つめながらピーチ・フィズを一口呑む。
「オレンジ・ブロッサムって何がベースなんですか?」
突然投げ掛けられた疑問に、視線を向けられたのは目の前に座っている真菰だったが、俺に対する語り掛けだと気が付いたようで、開いた口が閉じられた。
錆兎と真菰の視線を受け、それに応える。
「ジンだ」
「…ジン」
益々懐疑的なものになっていく瞳が、もう一度グラスを傾け、今度は連続して喉が動く。
通常より遥かにハイペースな呑み方に、こちらの疑心が強くなった。
「調子に乗ると「ジンの味なのかな…これ」」
ボソッと呟いた一言で、一気に眉が寄る。
「どういう事だ?」
「いつも呑んでる味と違うなって思って。でもジンにも色々種類があるからですかね?」
そう言いながら口に含むとまた首を傾げた。
「匂いも、何か…ツンとくるっていうか…」
恐らく自信がある訳ではないのだろう。たどたどしく言う姿に、俺だけではなく正面で見ている2人の表情も疑念へ変わっていく。

「真菰のはどうだ?」
「私のは普通だよ?ピーチ・リキュール、炭酸水、レモンジュース…あとこれ多分甘味はガムシロかな?」
「王道のレシピだな」
冷静に分析していく2人の会話を耳に入れながら、まだ首を傾げている名前が持つグラスを手ごと攫うと口に持っていく。
「バーッ」
慌てて口を噤むのを後目に、喉を通っていく液体と鼻を抜ける匂いに一瞬息を止めた。

「ジンじゃない」

途端に錆兎達の表情が険しくなっていく。
間違いない。これは

「焼酎だ」

はぁ、と重い溜め息を吐く2人を一瞥して、その手を放す。

「そういう事かぁ。うふふ」
「そりゃ安価で提供出来るよな。ははは」

放たれる禍々しいものは隠し切れてないが、この場では相当抑えてる方だろう。
「あのー、バー「しっ」」
近付いてくる店員に聞かれないよう呼称を制止した事で、耳には入らなかったようだ。

「お待たせいたしました。カミカゼ、と、ソルティードッグです」

錆兎と俺の前に差し出されたグラスを訝しげに見つめてから、真菰が口を開く。
「ここら辺ってBarたくさんあるんですね。何処入ろうか迷っちゃった。ね?」
人畜無害な笑みで同意を求めてくるが、その目は一切笑っていない。
「あぁ、この周辺はBarが密集しやすいんです。その中でも当店を選んでいただきありがとうございます」
「そういえば、あそこのビルの最上階にもBarがあったよな」
穏やかなふりをしているのは、錆兎も同様だ。
「あそこは…」
鼻で笑う店員に禍々しいものが更に肥大していくのを名前が怯えた表情で見ている。

「一言で言うと古臭いといいますか。経営者と同じく従業員も頭の固い方々ばかりだと…。おっと、これは失礼しました」

勝ち誇った顔で一礼すると去っていく背中は、錆兎と真菰の正体を見抜いている。確かにそう感じた。
俺がCascadeの関係者だという情報は耳に入っていないからこそのあの挑発だったのか。
そこは考察しても答えは出ないが、それでもこの2人の前で焼酎をドライ・ジンと偽ったのは、命取りだとしか言いようがない。

「どうする錆兎?」
「真菰はどうしたい?」
「鱗滝さんをバカにした事、後悔させるのは大前提で、この店の悪事バラしてぶっ潰したい」
「全面同意だ」

会話だけで煮え滾っている怒りが嫌という程伝わってくる。
良くこの場で爆発しないな、とそこは感心しながらソルティドッグを手にしたと同時だ。
「帰るぞ義勇。名前も」
突然席を立つ錆兎に、若干面を食らった。
「呑まないのか?」
「鱗滝さんを貶しやがった店で作ったカクテルなんか呑んでられるか」
「行こっ名前ちゃん」
「え?あー、はいっ」
何を思ったのかグラスを傾けると一気呑みする姿に眉根が寄る。
「呑まなくて良い…!」
咄嗟に制止はしたが3分の2程減ってしまった中身から、焦燥している瞳へ視線を動かした。
「ごめんなさい!残しちゃいけないってクセで…ついっ」
視線が合った事で怯えの色を宿すのは、わかりやすい。その一言に尽きる。
「怒ってる訳じゃない。行くぞ」
「あ、はい…!」
後ろからついてはくるものの、すっかり消沈している気配に、錆兎と真菰が相手側を牽制しながら会計をしている間に、こっそりと耳打ちをした。
「安物の焼酎は悪酔いしやすい。お前は特に酒に慣れてない分顕著に現れる。気を付けろ」
「…ごめんなさい」
内容は謝罪ではあるものの、はっきりとした口調で返ってきたのには安堵する。
あれほどの量なら、そこまで大袈裟に危惧する事もないか。
それより今は火花を散らし合う両者が全く引かない方が問題だろうと、僅かな間でも目を離した事にすぐに後悔する。

錆兎達を宥めすかして、漸く店を出た先の階段を下りる途中、足を踏み外した名前を支えた時には、既にその瞳が朧げなものになっていた。
「…ごめ…なさ…、だいじょ…」
浅い呼吸を繰り返しながら懸命に足を進めようとするその身体を抱える。
勢いで落ちた靴が階段を転がっていった事で先に下っていた2人が振り向いた瞬間、驚きから目を見開いた。
「どうしたの…!?」
「名前がヤバイ!真菰悪いが靴頼む!錆兎、車貸してくれ!」
「わかった!」
「ほらよ!」
間髪入れず真菰がもう片方の靴を脱がせた勢いのまま、錆兎から車の鍵を受け取り駐車場へと向かう。
助手席へ名前を乗せてから、せめて気休めになるようシートを全開に倒した。
「大丈夫か?」
「…う…」
「右側を下にして横になると少し楽になる」
身体を支えながらいつ吐き戻してもいいよう顔に掛かっていた髪を退ける。
確かダッシュボードに従業員用の吐瀉袋があった筈だ。
手早くそれを準備したが横になった事で、多少楽になったのか僅かにだが落ち着いた息遣いが聞こえる。
「吐きたくなったら吐いて良い。我慢はするな」
力なく頷いたのを確認してから一度助手席のドアを閉め、運転席へと回った。

CascadeからCalmまで、それ程距離はないがその間に眠りに就いた名前を起こさぬよう、背中と膝裏を支え抱き上げる。
呼吸音の浅さから、まだ山場は超え切っていない。
出来るだけ振動を与えないよう慎重に最上階まで目指した。
簡易ベッドへ横向きに寝かせてから一息吐いた後で、勢いのまま此処に連れてきてしまった事に気が付き、思考を巡らす。

そのまま家まで送るべきだったか。そう思い浮かびはしたが、家が何処か把握していない上に、この状態の名前が案内出来る筈もない。
それに荷物も服も、Calmに置いたままだった。一度は此処に戻らざるを得なかったのは間違いない。
そこまで考えてから、服を着替えさせるべきなのかと視線を向けた。
構造上、身体に密着しているその恰好では更に息苦しいだろう。いや、その間に吐瀉する可能性を考えると、そのままにするべきだ。
それなら背中のファスナーだけでも下げておくか。

「…っは、ぁ」

心臓がドク、と音を立てた。
苦しさからか身を縮込ませた事で露わになった生足に、視線を剥がそうにも剥がれない。
ドレスという特別な誂えのせいか、腰の括れまでくっきり浮き出たその女らしい身体つきに吸い寄せられるように右手を伸ばし掛けて、そのまま拳を作った。

馬鹿か、俺は。

此処で理性を飛ばしてどうする。冷静にこれからどうするべきかを考察しろ。

「…フ──」

深く呼吸をし、ひとまず目を閉じてから、開けた瞬間に逸らした事で艶めかしい姿を視界から外す事は出来た。

あのオレンジ・ブロッサムは恐らく度数7%から…高くても9といった所か。呑んだ感覚ではあるが10%には量の問題から達していない。
短時間に摂取した挙句、慣れない場の空気にも呑まれた。そう考えても、短時間であそこまで一気に酔いが回ったのは、あの焼酎が単純に、名前の体質に合っていなかったという事になる。
急激に回ったアルコールで眩暈と頭痛、不整脈が起きている筈だ。
それらが治まるのは早くても1時間。ひとまず此処で休ませて、意識がはっきりとした頃に家へ送り届けるという選択が一番良い。
その時間なら常識の範囲内だと判断されるだろうし、そのまま母親への挨拶という課題の解決にも繋がる。

だが──…

一瞥するだけのつもりがそこで視点を止めてしまって、勝手に喉が動いた。

もしもこのまま名前が起きず、その間に家族から連絡が来た場合、連絡を寄越さない上、バーマンのくせに酔い潰れるまで呑ませた男という、俺に対する心証は最悪なものになる。
そうなると、一度抱いた不審と失墜した信用を挽回するのは並大抵の事じゃない。
ならば今、こちらから連絡し、全てを話した上で外泊許可を取るという選択肢が最善なのではないか。

そしたら、俺も我慢せず──…

いや、しかし本人の意思を確認しないまま、勝手にスマホを使って電話を掛けるというのもそれはそれで不信に繋がりそうな気配もする。
指紋認証をしていたから、その指を借りれば出来なくもないが、親の許可を得てもそこからが問題だ。

それで名前が嫌がったら──…?
流石に、もうそこまでの勘違いはないとはわかっていても、可能性がないとは言い切れない。

そもそもこの状態で手を出そうとするのは卑怯なのではないかという問題が…。いや、しかし恋人同士なら卑怯も何もない。

でもだからと言って──…





「で、結局どうしたんだよ?送り狼にはなったのか?なってないのか?」

カウンターの中、腕を組むと小さく笑う錆兎の横から

「なってたらこんな心気臭い顔してないと思う」

平然とした顔でグラスを拭く真菰の声が響く。

「…体調が良くなったから着替えて帰ると言われたため送っていった。せめて母親に挨拶しようとしたが、急遽友人に呑みに誘われ出掛けたらしく不在だった」

それだけ言って目を窄めた俺に
「「あ―…」」
哀れみに満ちている溜め息が重なった。
「一番最悪なパターンだね」
「義勇、お前もうちょっと強引にいけよ。男なんだから」
「ほんとにね。大事って言ったってあんまり何にもしないと、その内名前ちゃん不安になっちゃうよ?」
「……。これを返しに来た」
「「いや、シカトするな(しないで)よ」」
窄める双眸は気が付かない振りをする。
右手にドレスが入った紙袋、左手に車の鍵を差し出す俺に、また聞こえた溜め息の後、それが手から離れていった。

「向かいのBarが閉まっていたが、何かあったのか?」

顔を上げた後、気になっていた事を訊ねれば、真菰の嬉しそうな表情が窺える。
「ちょっとね」
昨日の今日で何か策を講じたのだろうか?
錆兎へ視線を向ければサーバーからビールを注いでいる所で、目が合いはしないが
「聞かない方が良いぞ。今回は相当えげつない」
その言葉に、納得はした。
恐らくではなく、確実に真菰が本気を出したのだろう。
錆兎の言う通り、これ以上深くは掘り下げない事にする。

静寂が訪れると共に、目の前に出てきたのはビールグラスに並々と注がれた赤色。
意味を理解した瞬間に顔を上げた先、呆れながら微笑う錆兎と真菰の
「呑みなよ」
「俺達の奢りだ」
からかい半分の口調に訝しげな表情を向けようとはする。
しかし、晴れない感情を発散させるように勢い良くグラスを傾ければ、2人分の笑声が響いた。


Red・Eye
同情




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