初めて足を踏み入れたCascadeというお店が、想像していた雰囲気じゃないっていうのに気が付いたのは、ビッグ・アップルが3分の1まで減った頃だった。 最初は緊張で、途中からは話に夢中だったから、今更ちゃんと店内を見回してる。 思い描いていた厳格なBarとは真逆かも。 店内にはダーツを楽しむスペースがあって、お客さんのひとりがやりだしたと思えば、顔見知りでないお客さんも加わって、すごく騒ぐわけでもないけど、和気藹々とダーツとカクテルを楽しんでる。 「ん〜、もうちょっと」 「こう、かな?」 「手首が少し甘いな」 私は私で、話の流れでカウンター越しに渡されたシェイカーを教えられるがまま振っていて、CascadeってCalmより自由度が高いんだなって思った。 8の字を意識してって言われて何回か動かしてみたけど、それだけで感じてる。 これ、見た目よりすごくキツイって。 全然早く振れないし、もう肩と二の腕がプルプルし始めてる。 「ま、最初はそんなもんか」 「そうだね。初めてにしては上手だよ、名前ちゃん」 そう言ってもらえて手を下ろしたけど、自分でもわかってる。それがお世辞で、本当は全っ然出来てないってこと。 「シェイカー振るだけでもこんなに大変なんですね…!」 「普段は使わない筋肉を使うからな」 「でも慣れればさくっとできちゃうよ?」 ちょうどオーダーが入って、涼しい顔でシェイクする真菰ちゃんの笑顔の裏には、きっと私なんかでは想像もできないような努力があるんだろうな。 義勇さんも。 今頃シェイカー、振ってるのかな。手が回らないほど忙しくなったり、してないかな。 「そういえば義勇、大丈夫か?」 「へ?」 グラスを傾ける直前で、間抜けな声が出た。 「最近休みなく開けてるだろ?アイツ」 「あぁ!それなら!定休日作るって言ってました!」 「そうか」 ちょっと険しくなった表情が和らいでいった理由を訊いていいのかわからなくて、ただ錆兎さんの顔を窺う。 丁度シェイクを終えた真菰ちゃんが、蓋を開けながら苦笑いをした。 「腕上がらなくなるまで酷使するんだよね。義勇って」 「え!?そうなんですか!?」 「そう。じゃなきゃ周りに追いつけないって」 「義勇らしいだろ?」 困ったような笑顔に、考える間もなく頷く。 私、今更だけど、どうしてかわかった気がしてる。 「でも言わないんだよな。自分からは絶対に」 錆兎さんの呆れたような、でもあったかい表情とか、 「"聞かれないから言わなかった"、とか言ってね」 真菰ちゃんの優しい溜め息とか。 そうだ。だから―…。 聞かなくても気付けるような、そんな存在になりたくて、だから、私のことで困らせたくなかった。 義勇さんにとっては私以外に大事なものがたくさん、本当にたくさんあるから、そこを取ったりしちゃいけないって、考えて…。 『本末転倒だ』 耳元で、声が聞こえた。 間違いなくそれは義勇さんの声。 もう何度言われて呆れられて、笑われたっけ。 「守り方が、違ったのかな…」 思わず零した言葉に、2人が不思議そうな顔をするのが伝わってきた。 「迷惑を、かけちゃいけないって思ってたんです。今まで」 その空気に甘えて続けた私に、真菰ちゃんは優しく微笑んでくれる。 「それってすごく当たり前で、普通のことというか、自分のことは自分で何とかするって教えられてきたから、困らせるのはやっぱり、嫌で…」 でも、たぶん、これはたぶんだけど… 「義勇さん達にとっては、当たり前じゃなかったんですね」 迷いながら出した言葉に、真菰ちゃんはもっと優しい笑顔を向けてくれて、錆兎さんは溜め息を吐いたけど、でも穏やかな顔をしてる。 「そうだね。その都度教えてくれる人ってあんまりいないからそこは自分の力量みたいなところはあったよ?」 「……。そうだな」 「だからこそ"頼られると頑張っちゃおう"っていうのは、あるのかも知れないね。私達も、義勇も」 「あぁ、アイツは人一倍それが強い」 冷静に答える錆兎さんは、きっと義勇さんの全部じゃなくてもほとんどを知ってるんだろうな。 残ってたビッグ・アップルを一気に傾けて、割れないようにそっと置く。 「ごちそうさまでした!帰ります!お会計お願いします!」 勢いのまま言った私に、今度は呆れたような困ったような2つの顔を見た。 Drink at Bar Calm 私が急に帰るって言ったから酔ってるんじゃないかって思ったみたいで心配してくれたけど、今すごく頭が冴えてますって握り拳を作ったら、納得はしてくれた。 すごく、そう。 うまくは言えないけど、頭の中とか心の中でずっとモヤモヤしてたものが晴れた気がしてる。 それは紛れもなく、錆兎さんのおかげで、真菰ちゃんのおかげで、そして、義勇さんのお陰。 だからこの勢いのまま、帰ることに決めた。 電車とバスに乗ってる間に、心まで揺らいでしまわないように、カクテルのこととかCascadeのこととか、Calmと、義勇さんのこととか楽しくて、嬉しいことを考え続けて、家まであと少しってなった時。 鳴り出したスマホに身体がビクッとした。 誰だろう。 恐る恐る確認した名前で、言葉にならないほどホッとしてる。 「も、しもしっ」 嬉しさでどもってしまったのは、ちょっと恥ずかしい。 『家に着いたか?』 ちょっと響く声に、あ、お店にいるんだなってわかったのが嬉しい。 「もうすぐです!」 『…歩いてる途中か』 「あ、はい。良くわかりましたね」 『あとどれくらいで着く?』 「えっと、あと5分くらい…」 『それならこのまま繋いでおく』 「…あ、はい!」 お店大丈夫なのかなって一瞬思ったけど、口に出すのは止めた。 私が気にすべきのはそっちじゃなくて、今義勇さんが気遣ってくれてること。 でもそこから無音になる向こう側に焦りが込み上げる。 繋いでおくって、そういうこと? それとも私が話すのを待ってるとか?でも、もしかしたら話題を探してるのかもしれないから下手に喋らない方が 『Cascadeに行ったんだろう?』 ドキッとしたけど、多分錆兎さんか真菰ちゃんに聞いたんだろうなって納得した。 悪いことをしてるわけじゃないのに後ろめたさを感じるのは、私の中で、本当はCalmに行きたかったっていう気持ちがあるからだと思う。 だけどそれを悟られたくないから、 「はい、行きました!」 できるだけ明るく返したけど、 『どうだった?』 その質問には止まってしまった。 どう、だった、んだろう…? すぐには何も思い浮かばなくて、さっきのことを思い返してみる。 「…あー、えっと、真菰ちゃんがビッグ・アップルを作ってくれて、すごく美味しかったです!」 言い切ってから、あ、でも義勇さんの作ったビッグ・アップルも呑んでんでみたいって思ったし、ただの感想になってしまったのにも気が付いて続けた。 「お店もっ、すごいですね!広くて綺麗で!入る時は緊張したんですけど、入ってみたら思ったよりアットホームな雰囲気で、お客さんとの心の距離が近いっていうか…!」 『楽しかったか?』 「楽しかったです!……あ」 何そんな勢い良く言っちゃってるの私! 「えっと今のは!その!」 『楽しかったならいい』 機械越しでも微笑んでくれてるのが伝わってきて、言い訳しようとする口は自然と噤んでた。 きっと私が考えてることなんて、義勇さんは顔なんて見なくてもお見通しなんだろうな。 「…少し、考えたことがあって」 だからCascadeで思ったこと、決めたこと、ちゃんと伝えよう。 『なんだ?』 うまく言えるか、自信はないけど。ちゃんと、自分の言葉で。 「私、義勇さんに甘えることにします!!」 立ち止まって、叫びに近い決意表明をした。 義勇さんが驚くであろうっていうのはわかってたから、できた間を気にせず続ける。 「義勇さんが私に言う"本末転倒"の意味を考えてて、錆兎さんと真菰ちゃんと話して、少しだけどわかった気がしたんです!私が遠慮することで気を遣うことで義勇さんのこと傷付けてたんじゃないかって!」 だから寂しそうな顔したり、ちょっと怒ったような、拗ねたような顔したりしてたんじゃないかな。 全部が全部そうじゃないかもしれない。だけど、心当たりはいくつもある。 「私にとって義勇さんは大事な人だから気も遣うし遠慮もするんですけど!でもそれが義勇さんの"嫌なこと"ならできる限りやめたいです!だから!」 そろそろ何を言いたいのかわからなくなって、強く目を瞑った。 「だから甘えることにします!!」 電話で良かったって今すごく思ってる。 義勇さんの顔を見ながらなんて、とてもじゃないけど言えない。 言い切ったあとで、また流れた沈黙。 返事がくるとばかり思ってたから、今度こそ慌てた。 もしかしてすごく失礼なこと言っちゃったかも。 「あの…!でもそれはなんというか!もちろん迷惑にならない範囲でっ!『それが既に遠慮してる』」 ピシャリって音がしそうなくらい的確な指摘に黙り込んだ。 そうだった。だから"本末転倒"なんだってわかった気でいたのに。 そのあとで聞こえてくる堪え切れてない笑い声には、一気に顔が熱くなった。 「…わら、ってますね!?」 『……。笑ってない』 「嘘!噴き出したの聞こえましたよ!?」 頑張って伝えてみても、言いたかったこと、あんまり伝わってなかったのかもしれない。 笑われるつもりじゃなかったんだけどな。 さっきとは違って重くなった足に気付いたけど、とにかく動かした。 『まだ着かないのか?』 きっと、心配してくれてるのかな? それは嬉しいから顔を上げてみる。 「あー、もうすぐです今家見えて…」 ピカピカと光るランプが先に目に入って、瞬きをする間に開けられた運転席のドア。 バタンッ。 それは目の前からも、すぐ傍からも聞こえてきて、耳を疑った。 「……え?」 革靴を鳴らして歩いてくるその姿は紛れもなくバーマンさんで、ドクドクと高鳴っていく心臓は目の前で立ち止まった瞬間、一層大きくなる。 「……なん、で?」 見開くしかできない目に映るのは、いつもと変わらない様子の紺碧色の瞳。 伏した目が持っていたスマホに向けられて、通話が切れる音に我に返った。 「え!?バーマンさん!?何で!?Calmにいたんじゃないんですか!?なん」 言い終わるより早くスマホを持つ手を攫われて息を止める。 「店にいるとは一言も言ってない。お前の親に改めて挨拶しにきた」 真っ直ぐ見つめるバーマンさんは真剣なんだと思う。 「でもっ!お店!」 「真菰と村田に任せてある」 「真菰ちゃんが…?」 え?でも、ちょっと待って。だって真菰ちゃん、私がCascadeを出る時にはお店にいて 「名前の移動手段とそれに伴う時間を考えれば先回りは容易だ」 「……でもっ、どうして!?」 「さっき言った通りだ。親に話がしたい」 「でも、バーマンさ」 柔らかい感触で塞がれた口唇は、そっと離れたあと 「俺に甘えるんだろう?」 覗き込んでくる綺麗な瞳に返事すら追い付かない。 もう一度落ちてくる優しいキスに、心臓が張り裂けそうなくらいけたたましくて息を止めるだけで精一杯だった。 * * * 「どうぞ」 テーブルに大皿を置く母親は平然なふりして、椅子に座る義勇さんをこれでもかってくらい凝視してる。 「ありがとうございます」 知ってか知らずか、お礼を言うその瞳は食卓を見つめたままで、何を考えてるんだろう。 怒られる、というか怒鳴られるの覚悟で押したチャイムも義勇さんがいることで、母親の雷は直接落ちることはなかったけど、その代わり言いようのない雰囲気がずっと包んでる。 「夕飯の時間だから」 言い方は冷たかったけど、こうしてちゃんと義勇さんの分までお箸を用意してくれてるから、そこまでじゃないのかな? 「あ〜、お腹空いた〜。お母さん夕飯何〜?」 ドスドス足音を立てて下りてきた妹がリビングの扉を開けた瞬間に止まった。 「やば!」 叫びと一緒に閉められた扉のあと、また音がする。 「イケメン彼氏来てたの!?言ってよお姉ちゃん!めっちゃ素で出ていっちゃったじゃん!」 恨めしそうに出す顔半分は見ないことにした。 「"義勇さん"。あんた素も何も変わらないでしょ?」 妹のコップに飲み物を注いで、テーブルに置く。 「うっわ〜、そんなこと絶対いつもやんないのに」 「は?言わなくていいからそういうの」 「いいから座んなさい。食べるよ」 お母さんの一声で大人しく席について、義勇さんの顔を窺った。 多分今の思いっ切り聞かれてたけど、気に留めてない、っぽい? 「お父さんは?」 「残業。いただきます」 2人がお姉ちゃんのことに触れないのはいつものことなのに、今は少し不信感が募る。 でもそれを態度に出したくないから考えようにした。 「義勇さんもどうぞっ」 「……。いただきます」 戸惑いながらも箸を手に取る姿はこんな時だけど、ちょっと可愛いなって思う。 でもさっきから引き摺ってるその重めな雰囲気が変わるわけなくて、ニヤけかけた口にどうにか力を入れた。 カチャカチャ、と食器の音だけが響く。 いつもなら騒がしい妹もこの時ばかりは大人しくて、逆にそれが居た堪れなくなった。 「…あのさ、お母さん」 「食べたら聞くから」 先回りされて、続く言葉を飲み込む。 とてもじゃないけど"楽しい食事"なんてできない空気なのに、 「…美味い」 独り言みたいに呟いた義勇さんの一言に食いついたのは妹だった。 「美味しいですよね〜。うちの母、栄養士の資格持ってるんですよ〜」 「…え!?そうなの!?」 「……。何でお姉ちゃんが驚くの?」 「だって、知らなかったから…」 はぁって、大きな溜め息を吐いたのは母親。 もしかしてじゃない。確実に私が空気読めてなかった。 妹が恨めしそうにこっちを見てる。 「料理教室に通ってたのは知ってたよ!?」 「それ何十年前の話?」 明らかに冷たい回答に泣きたくなる。ううん、ほんとには泣かないけど。 「料理が好きなんですか?」 静かで穏やかな声に、一瞬その場がしん、となった。 初めて、かも。義勇さんが質問するの。 これには母親もちょっとビックリしてる。 「えぇ。まぁ…」 でも打ち解けるチャンスなのかも。 そう思ったのに、 「そうですか」 返したのは一言だけでまた食事を再開させる義勇さん。 え?それだけ? 焦る私を他所に母親も何食わぬ顔で箸を動かしてて、これこそ大人しくすべきだって嫌でもわかったから、喋るのをやめた。 「ごちそうさまでした。とても美味しかったです」 きちんと挨拶をしてから、食器を運ぼうとする義勇さんに母親の手が伸びる。 「ありがとう」 手から手へ渡っていくそれは何だか不思議に感じたけど、空の食器を見つめる母親の瞳はどことなく嬉しそうにも見えた。 キッチンへ向かう背中が暫く帰ってこないことを見越したのか、妹がズイと顔を近付けてくる。 「お姉ちゃんさ、もしかして家出してたの?」 わざと小さくしてる声に、私も自然と顔を近付けた。 「…聞いてないの?お母さんから」 「1回だけ訊いたけど何も返ってこなかったの…!」 それだけで妹の心境を知る。 「ごめん」 「ごめんじゃないよ、怖かったんだからね!」 「ごめん」 「いいけど、何で出ていったの?私がお母さん達デキ婚だって言ったから?」 「うーん、それは…」 そうなんだけど、それとはまたちょっと違う。 それだけじゃ、結局はなかったんだって気付いたから。 「あのさ、お姉ちゃん」 それが途中で止まったのは、戻ってきた母親の空気をいち早く感じたからだと思う。 何事もなかったかの振る舞う妹に倣った。 椅子に腰掛ける母親はすごく追いついた様子で、何となくそれが怖い。 「…それで?」 「へ?」 「帰ってきて、何か言うことはないの?」 一瞬、考えてしまった。 ただいまとか?って思いついたけど、それ言うと確実に雷が落ちそう。 「…ごめんなさい」 ただいま以外にはこれしか思い浮かばないから、素直に頭も下げた。 「謝る理由は?」 冷静に怒ってる母親ほど怖いものはない。 「黙って、出てったのと…。連絡もしなかったから…」 そこはすごく、悪いと思ってる。 きっとどこで何やってるんだって心配しただろうし。 「連絡なら来たよ」 「え?」 母親の視線が、義勇さんへと動いたから、自然と私もそっちを見た。 え?どういう… 「だからまぁ、放っておいたんだけど。こんなに早く帰ってくるとはね」 呆れたような溜め息にちょっとムカッてきたけど、ここで喧嘩したら意味がないから飲み込んだ。 「帰ってきたのはこのまま家出しても何にも解決しないって思ったからだよ」 「解決って?何を解決するの?」 ちょっとキツくなった言葉も目も、やっぱり怒ってるって感じた。 でも負けない。くじけない。大丈夫。 ちゃんと考えた。伝えたいこと。 ひとりでもちゃんと言おうって思ってたこと、義勇さんがこうして傍にいてくれるから、すごく落ち着いて言葉にできる。 「お母さんのその過保護さ」 空気が少し、重くなった気がした。 「あんた過保護って意味わかって言ってる?」 「言ってる。何でもかんでも先回りしてこれはダメあれもダメって決めつけることでしょ?まるっきりお母さんじゃん」 それで助けられた時もすごくあるから、感謝はしてる。でも、今は…。 「お母さんが上手くいかなかったこと、普通じゃなかったこと、まるでやり直すみたいに私に押し付けないでほしい」 「お姉ちゃんっだからそれ…!」 「あんた、もしかして名前に余計なこと言ったの?」 威圧する母親に、しゅんとする妹は珍しくて、 「余計なことじゃないし今大事なのはそっちじゃないから」 そう言ったのは、何ていうか、私のせいで責められるのが見たくなかったからだと思う。 「別にお母さんがデキ婚だろうが何だろうが関係ないよ私には。だけどお姉ちゃんのこと産まなきゃ良かったとか「あのねえ」」 大袈裟なくらい吐いた溜め息を吐く姿を睨みつつ、身構えた。 それはいつも、すごい勢いでお説教が始まる前兆だから。 「何聞いたのか知れないけど、全然違うよ?」 だけど、口調はいつもより優しい。というかもう、呆れを通り越してるみたいだった。 「大体あの子が産まれたのお母さん達が結婚して2年後だからね」 「……うん」 返事はしたけど、どういう意味なのかは今考えてる。 「わかってないでしょ?」 「…う」 え?今の話だけでわかる?全然意味も意図も汲み取れないんだけど。 泳がした視線の先で、妹も呆れてるし、義勇さんに至っては表情ひとつ変わらない。 え?みんなわかってるの…?私だけ?え?どうしよう。 「出来ちゃった結婚したのは確かだけど、それはお姉ちゃんじゃないってこと」 「え!?そうなの…?じゃあ……隠し子!?」 「ほんとバカだねアンタ」 今度こそ冷たく言い放たれて、ちょっとヘコんだけど、 「亡くなったの。お腹の中で」 その言葉には、心臓がドクッて大きく鳴った。 「初期流産だから良くあることって言われてね、でもすごく後悔した。どうしてかわかる?」 「……わかん、ない」 それどころか、正直頭がついてってない。 「結婚にこぎつけるまでかなり無理をしたから。家族とも揉めて会社とも揉めて、全部捨てる選択をしたけど、その時の心労は大きかったし今も間違ってたと思う」 「…でもそれって、だからそうなったってわけじゃ…」 寂しそうに笑うから、言葉が続かない。 いつだったか、私、同じような表情を見た気がする。いつ、だっけ…? 「絶対に原因じゃないとも言い切れない。だから後悔するんでしょ?人間って」 だけどすぐにいつもの表情に戻ってから出されたのは、いつもみたいに冷静で的を射てて、反論ができなかった。 「私と名前は親子であれど違う人間だから、同じ後悔はしないかもしれない。だけどあんたは私に似て世渡りが上手くないから心配になるの」 初めてかも知れない。 そんな風に言われたのも、お母さんが"私"って言うのも。 「押しつけがましいかもしれないし、あんたにとっては過保護かもしれない。だけどね、そんなものよ。親なんて」 涙が出そうになったのは、どうしてかわかんない。 「誰も自分の子に苦労を背負わせたり、不幸になってほしいとは思わないでしょ?」 今までにない、優しい瞳を見たから、かな。 だけどそれが溢れる前に、 「というのがうちの教育方針なんですが、義勇さんはそれを受けてどう思います?」 真っ直ぐ見据えた目がまた怖くて、止まった。 つい私と妹まで窺ってしまった顔は、何かを考えてるみたいに一点を見つめてから、スッて上げられる。 その仕草が色っぽいって思った時には、 「親の鑑だと思います」 静かに義勇さんが喋り出してた。 「理解してくれるってことですか?」 「方針については承知しました」 「じゃあ名前とは別れるという解釈でいいんですね?」 え?どうして、そうなるの? 「は!?何で!「それについては了承しかねます」」 見つめ合った2人の間に入っていける隙が見当たらない。 こういう時ふざけて場を和ませてくれる妹でさえ、今は息を潜めて成り行きをただ見守ってる。 「全て理解してると思ったので説明を省いたのだけど、貴男がいなかったら家出なんてしてないんですよ?」 「それについては自覚しています。ご迷惑をお掛けしたこと、申し訳ありません」 何で義勇さんが頭を下げなきゃいけないんだろう。 何にも悪くないのに。 「自覚しているなら引くべきじゃない?これ以上貴男と一緒にいても悪影響しかないと思いますが」 「お母さん!」 やめてよ。やめて。義勇さんを傷付けないで。 何をしたっていうの?何がそんなにいけないの? 「先日、お母様の手料理を戴く機会がありました」 母親が訝しんだのと同じタイミングで、私まで首を傾げてしまった。 「名前さんに持たせているお弁当です」 「それが、何か…?」 「その時から私が抱いていた疑問の答えが見つかりつつあったのですが、本日こうして再度手料理を戴いて確信しました」 無言の間は、すぐに義勇さんの声が掻き消す。 「名前さんの味覚の鋭さは、お母様が作る料理にあったのだと」 味覚の、鋭さ…? 思わず妹を見てしまったけど、同じようにわからないって顔してる。 「どういう意味ですか?」 さっきより怪訝な顔で訊き返す母親に、義勇さんは臆する様子もない。 「人間の味覚は普段から摂取するものにより順応化していく」 その言葉には、母親が怯んだようにすら見えた。 「ご承知の通り私は13歳の時から施設育ちですが、家族がいた頃の記憶もあります。私の母も同じように毎食丁寧に調理をしていたのを鮮明に思い出しました」 義勇さんのお母さん…。 想像でしかないけど、きっとすごく優しい方だったんだろうな。 だって義勇さん、今すごく優しい顔してる。 「親になったことがないので全て理解できるとは到底言えませんが、お母様が家族のことを想い、懸けた歳月は何よりも尊い財産になりうる。俺は貴女から大切なものを奪うつもりはありません」 ごくって、息を呑んだ音がした。母親が。 「ただ、共に守っていける、そのような関係は努力次第で築けるのではないかと考えています」 また見つめ合ったまま流れた静寂の間で、意味を考える。 だけど母親の低く笑う声にドキッとして思考が止まった。 「良くそこまでの言い回しを考えたものですね」 怒ってる?って思ったけど、そうでもなさそう。 むしろさっきより、穏やかな顔になってる。 「だけどすぐには認められません。それでいいかしら?」 「認められようとしているのではないので構いません」 言いようのない緊張感はその後すぐに解けたような、そんな気がした。 「名前のこと、連れて帰ってきてくれたのはありがとうございます」 そうして頭を下げる母親に、ちょっと胸は痛む。 やっぱり心配してたんだろうなっていうのが、嫌でも伝わってくるから。 「あ、やっぱお姉ちゃん家出してたんだ?反抗期遅くない?」 ここぞとばかりにふざけだす妹に、 「あんたはあとで話聞かせてもらうからね」 母親の睨みが利いたけど、口笛を吹くその顔もちょっとホッとしてる。 解決はしてないけど、ちょっとそれには近付いたのかな。 「それでは俺はこれで」 立ち上がろうとする義勇さんにタイミングを合わせたように、母親の口が動いた。 「鱗滝左近次」 その瞬間、ハッとした横顔をハッキリ見る。 「もしかしてご存知だったりします?。鱗滝左近次さん」 鱗滝、さんって確か…。バーマンさんの 「師匠です。俺の」 その後の静寂は、さっきとは全然違うもの。 「だから、ね。納得しました」 「知り合いなんですか?」 珍しく義勇さんが興味津々そうに身を乗り出してる。 「知り合いってほどでもないけど…、昔、主人と付き合っていた時に良く行っていたBarの従業員だったの」 お母さん、Barに通ってた時あったんだ。 あ、もしかして、だからかな。義勇さんが"Barに精通してる"って感じてたの。 「子供を亡くして、暫くしても立ち直れないままフラッと訪れた私に鱗滝さんは黙って話を聞いてくれてね、主人とも別れるか別れないかで揉めてた時だったから」 初めて聞いた。母親の過去。 「これまでのことは変えられないけれど、これからの努力次第で主人との関係を築けるのではないか。そう言いながら、カクテルを出してくれた」 それって、義勇さんがさっき言ってたことだ。 「その言葉にもしかしてって思ったけど……、そう。貴男はお弟子さんだったの」 ふふって笑い出す表情は嬉しそう。 「師匠は、いつも言います。これからの自分次第だと」 「…そう、そうなのよね」 また空気は変わったけど、それがどういうものなのかっていうのはわからないまま黙るしかない。 何となくだけど、入っていっちゃいけない気もしてた。 「ひとつ訊いていいですか?」 義勇さんの質問に、穏やかな顔で母親は答える。 「どうぞ」 だけどそれからはまた間が空いて、どうしたんだろうって思ったところで、 「その時、鱗滝さんが出したカクテルの名は?」 遠慮がちに、でもきちんと質問する姿は、何か決心したようにも見えた。 「……ワード・エイト」 全く馴染みのないカクテルの名前に想像すらできないまま、次の言葉を聞く。 「いつか、そう思える日が来るようって」 「そうですか」 2人で納得している様子に、妹と目だけで会話する。 多分、全然噛み合ってなくて、 「じゃあそれ作ってみてくださいよ〜!今!」 無邪気な声に、溜め息を吐いてしまったのが母親と同じタイミングだったのが、少し恨めしく思った。 Ward・Eight 良き選択 ← ×
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