くじけないで。 どうしてその意味を持つカクテルを"本日のカクテル"にしてくれたのか、わかったのは始業についた時。 慣れた業務をこなしながら、考えるのはこれからのこと。 そうしたら"くじけそう"になって、逃げ出したくなった。 私がそうなるのを、義勇さんは見抜いてコンチータというカクテルを選んでくれたのかも知れない。 その気持ちが嬉しいから、今度こそ絶対無駄にしないって心の中で強く誓った。 次に会う時には、胸を張って義勇さんに会いたいし、義勇さんの作ったカクテルを心から、笑顔で美味しいって言いたいから頑張る。 理由はそれだけでいい。大丈夫。 上手くいかなくたって、"くじけない"。 そう言い聞かせて、こんな時こそ仕事で迷惑をかけるのは嫌だから、指示されたこととか絶対間違えないようにって奮起した。 だから時間はあっという間に過ぎた気がする。 昨日の失敗も活かしてコンビニで調達したおにぎりを頬張りながら開いたスマホには何の通知もなくて、ちょっとへこんだ。 義勇さん、寝てるのかな? 寝てるよね。連絡しない方がいいかも。 「…その様子じゃ一線は無事に超えたようね」 「んんッ!!」 すぐ後ろから聞こえた声に、ご飯が詰まりそうになった。 急いで丸呑みしたから痛くなった喉を押さえながら答える。 「主任…!」 振り向いて距離を詰めようとしたけどすぐそばで目を窄めていて、逆に仰け反った。 「お疲れ様」 「お疲れ様です…」 「とうとう苗字ちゃんも女になったのね」 「は!?」 「わかるわよ。その幸せオーラ」 「…怖いんですけど…」 「わざと怖くしてるのよ。アタシにはもう遠い過去の話だから」 顔は笑ってるはずなのに肩を掴まれる力強さはやっぱり怖い。 でも同時に訊いてみたい気持ちになった。 「主任!」 「なぁに?」 「あの!初体験ってフゴッ!」 口を塞がれた瞬間、いい匂いがしたけれど、 「ちょっとあっちに行きましょうねぇ」 引き攣った笑顔に、またしでかしてしまったのを自覚した。 「初めてで気持ちいいと思う子なんていないんじゃないかしら?」 人気がなくなった場所に連れてきた主任は、開口一番そう言った。 「え!?そうなんですか!?」 思わず食い付いた私に、綺麗な赤色を塗った口が笑う。 「だってそうでしょう?経験したことないのにどうやって感じるの?」 あんまり良くわからなくて考えていたら、頬を撫でる主任の指にドキッとした。 「何事も積み重ね。初めてのはずの相手がこなれてたら男なんてドン引きなんだから」 「…そ、そうなんですか…?」 「そ。初体験は初体験であって、それが全てじゃないの。むしろこれからよ?」 長い睫毛でされたウインクはかっこよくて、頷いてはみたけど、 「でもさすがにマグロってダメなんですよね!?」 恥を忍んで訊いてみたら、何故かお腹を抱えて爆笑された。 Drink at Bar Calm 「まさか苗字ちゃんからそんな言葉聞くとは思わなかった」って涙を拭いながら言われたけど、でも何となくわかった。 マグロは悪いことじゃない。 ……多分。 そうずっと言い聞かせて、あっという間に終業を迎えた気がする。 家に帰らなくちゃ。 強くしたはずの決意が、駅までの道のりで早くもへなへなになっていってるのを自分でもわかって、これはどうにかしなきゃって気休めかも知れないけどCalmのホームページを開いた。 見慣れてるはずなのに写真の1枚1枚が愛しく感じて、尚更寂しくなる。 今すぐCalmに行きたい。 でもそれが今の私にとって現実逃避だってわかってるから我慢する。大丈夫、"くじけない"。 言い聞かせてスマホをしまったと同時、 「あれ?名前ちゃんだ」 後ろから飛んできた呼び掛けに振り向いた。 「…あ、真菰さ、ちゃんっ!」 久々に会うから呼び方を間違いそうになった私を気にした様子もなく、真菰ちゃんはにっこりと笑ってくれて、心細い気持ちが和らいだのを感じる。 Cascadeの制服に身を包んだ姿を見るのは初めてだなって、後ろをついていきながら考える。 この間のドレス姿はすごく女性らしくて可愛くて綺麗だったけど、こうやってかっちりした制服に身を包む真菰ちゃんはカッコイイ。 だけど、その細腕が抱える重そうなビニール袋には今ようやく気付いて声を掛けた。 「あのっ、ひとつ持とうか?」 取って付けたような提案だったのに、振り向いてくれた真菰ちゃんの笑顔は全然変わらない。 「ありがとう。でも大丈夫」 軽々と胸元まで持ち上げた両手は、遠慮してると思われたくないって言ってるみたいだった。 迷惑、だったかな。 そう思った瞬間、真菰ちゃんの笑顔が深まる。 「ごめんね、気を遣ってくれたのに。でもこれCascadeの習わしなんだ」 「…習わし?」 「そう。たまにどうしても発注が間に合わないとか、そういう時にジャンケンで負けた人が買い出しに行くの」 「へー」 手を下げると歩き出した仕草はやっぱり少し重そうで、これ以上引き留めるのも申し訳なくないから大人しくそれに続く。 「バーテンダーに必要不可欠なのが腕力だから、これも鍛錬のうちなんだ。だから気にしないでね」 「…あ、うん」 咄嗟に答えてから考える。 確かに腕を酷使する仕事だなって、義勇さんを見てて思った。 単純に手を使う職業なら他にもたくさんあるけど"バーテンダー"っていうのは、また特殊で繊細なんだって、いつも気付かされる。 そんな事を考えながら初めて足を踏み入れたCascade。 「真菰。お前、買い出し行ってたんじゃないのか?」 腕を組んで呆れてる錆兎さんはちょっと怖くて身を縮めたけど、真菰ちゃんは顔色ひとつ変えずその大荷物をカウンター越しに渡す。 「行ってきたよ。オレンジジュースとパインジュース6本ずつね」 その報告を聞いてから、真菰ちゃんの腕がますます心配になった。 「名前ちゃんは帰り道で会ったの。お客さんだよ?」 そう言ってくれるけど、まだ開店準備で忙しそうなのは店内の様子でわかる。 「あの」 やっぱり帰りますって言い掛けたのに、 「ここ座ってね」 カウンター席を案内する真菰ちゃんに続いて 「何呑む?」 当然のように錆兎さんに訊かれて考えた。 「…あ、えっと」 どうしよう。 真菰ちゃんのお言葉に甘えてついてきたはいいけど、何も考えてなかった。 差し出されるメニュー表を受け取ったのも反射的なもので、ますます帰りますって言えなくなってる。 「ゆっくり考えていいよ」 まるでそれをわかってるみたいに微笑んでくれた真菰ちゃんは、カウンターの奥に入っていった。 手元は見えないけど錆兎さんも作業を始めたみたいだから、言われた通りメニューに目を通す。 流れるような書体で書かれたカクテル名に、勝手に心はワクワクしていくんだけど、ここにいてもいいのかなっていうのも同時で考えた。 今日はCalmに寄らない、真っ直ぐ帰る。 そう義勇さんには言ってあるのに、Cascadeに来てるなんて知ったらあんまりいい気持ちはしない気がする。 それにまたお酒呑んでるってなったら母親の当たりも強くなりそう。 でもここで帰りますなんて、やっぱり言えないし。 「真菰に連れてこられたんだろ?」 視線を上げた先では、錆兎さんが少し呆れた顔してた。 「え?あー、いえ!違います!何となく、家に帰るのが億劫だったというか…、そしたら真菰ちゃんがおいでって言ってくれて…!」 「で?断り切れなかったわけだ?」 うっ、て言葉に詰まってしまう。 「義勇と何かあったのか?」 でもその言葉にはこれでもかってくらいに首を振った。 「何もないです!」 「じゃあ何でCalmじゃなくてうちに来たんだ?」 これにはまた、うってなってしまった。 そうだよね。少し考えれば思うよね。オカシイって。 「それにすごい暗い顔してる」 真菰ちゃんと錆兎さんって、すごいなぁ。 全部心を読まれてるみたい。 「…あの、実は」 堰を切ったように零れた言葉達は、自分でも知らなかった気持ちを気付かせてくれて、絶対に支離滅裂なのに、黙って聞いてくれる錆兎さんにありがとうって何度も思った。 「そのまま義勇のとこにいれば良かったのに。ねえ?」 「な」 途中で戻ってきた真菰ちゃんまで最後まで私の話に付き合ってくれて、かと思えばそう言われてしまって、立つ瀬がなくなる。 「え、でも…迷惑じゃないですか…?」 「迷惑だったら来いなんて言わないだろ。なあ?」 「うん」 息ピッタリな掛け合いにたじろぐ私を、2人して不思議そうな顔で見つめてくるから居た堪れない。 「もう成人してるんだから親がどうこう言えることでもなくない?別に名前ちゃんの好きにしていいと思うよ」 「俺も同意見だ。従ったからといってその後の責任を取ってくれるわけじゃない」 何となく考え方のズレを感じたのは、気のせいじゃない。 「…そう、ですよね」 迷いながらそれだけを答えたけど、同時にちょっとわかった気がする。 義勇さんが言う"普通でいたい"っていう意味。 「まぁ俺達は親がいないから無責任に言えるんだよな」 少し寂し気に笑った錆兎さんの気持ちも、きっと義勇さんと一緒なんだって思った。 「そんな…!」 「大丈夫だよ。気にしないでね」 微笑ってくれる真菰ちゃんに胸が締め付けられた。 全部、裏目に出てる気がする。 何で、どうして、話しちゃったんだろう。 昨日だって、義勇さんの寂しそうな気配を感じたはずなのに。 「それで?名前はどうしたいんだ?」 ふぅって吐いた息が呆れられてるのか思ったけど、上げた視線の先はすごく優しい表情をしてて、少し、義勇さんに似てる気がした。 「…私、は」 どうしたい? 上手く、ちゃんと上手く丸く収めるにはどうするべきかってずっと考えてた。 だけど私は、どうしたいんだろう? 深く考える前に出てきたのは、 「義勇さんと一緒にいたいです!」 それだけ。 「それなら尚更じゃない?」 真菰ちゃんの言葉で振り出しに戻ったのを知って、言葉に詰まった。 そうなんだけど、そうじゃなくて…。 「真菰。そうやって詰問するなよ。泣きそうになってるぞ」 「してないよ。素直にどうして?って訊いてるの」 どうして、なんだろう。 「名前ちゃん自身がちょっと混乱してるみたいだし、自分の心と向き合ってみるのもいいんじゃないかな?」 作業を再開させる姿は、まるでゆっくり考えていいよって言ってくれてるみたいで、それに甘えて、向き合ってみた。 そうだ、さっき話してて、思ったんだ。 私の、自分でも知らなかった心の奥底を知った気がするって。 「義勇さんと一緒にいたいから、今はちゃんと問題に向き合わなきゃって、思ったんです。今が良ければそれでいいとか思って、失くしたくないって…」 「うん」 「でも、やっぱりひとりになると怖くて、母親に上手く説明とか、上手く説得とか、できる自信がないから…」 「手強そうだもんね」 肯定してくれながら優しい伏し目がちな表情に、泣きそうになる。 「でも私が頑張んなきゃ、いけないことだっていうのもわかってるから」 そこから先は言葉として出てきてくれなかった。 頑張んなきゃいけないって、思ってるのに。 "くじけない"って、強い気持ちで決めたはずなのに。 また上手くいかないってなった時、もうこれで終わってしまうんじゃないかって、怖くなる。 「それは名前だけが頑張ることなのか?」 今まで動かなかった錆兎さんが、おもむろに組んでいた腕を外すのが見えた。 「親に認められたいのは義勇も同様だろ?だったら立場は同じはずだ。本来なら義勇が先陣を切って親の承認を貰いに行くべきじゃないのか?」 「それはっ!バーマンさんはもう充分!ほんとに充分!母親に誠意を示しててっ!問題はそこじゃなくてっ」 「ふふっ」 真菰ちゃんの笑い声に一旦会話が止まったけれど、錆兎さんの溜め息でまた始まる。 「名前は義勇に気を遣い過ぎだ。今回の件で義勇が何を考えてるのか俺も話したわけじゃないから読めないが、そこで遠慮するのは違う」 「……。はい」 「今からこんな調子じゃいつか決定的な擦れ違いが生じた時に取り返しがつかなくなる。その自覚はあるか?」 「…はい」 吊り上がった眉を見るのが怖くて俯いたけど、 「錆兎、説教しないの。名前ちゃん泣きそうだよ?」 今度は真菰ちゃんが間に入ってくれて、申し訳なくなった。 でも、本当に2人の言う通りだっていうのはすごく感じてる。 「説教をしてるつもりじゃないが義勇も肝心な場面で気が付かないことが多い。今回もそうなると」 コトッ。 コースターの上に置かれたタンブラーグラス。 縁には階段みたいに三段にカットされたリンゴが添えられてる。 「義勇は気付いてたよ」 自然と上がる視線に、眩しいくらいの優しい笑顔があった。 「さっきLINEが入ってた。もし駅の近くで見かけたらCascadeに寄らせてほしいって」 「……だからお前、率先して買い出しに出たのか」 その言葉で、何となくわかった気がする。 ううん、確実にわかった。 真菰ちゃんと会ったのは偶然じゃなくて、義勇さんは私が弱気になってしまうのを見抜いてたってこと。 「ごめんね、嘘吐いて連れてきちゃって」 「え!?ううんっ」 何だろう。申し訳ないって思うのに、すごく嬉しいって思う。 「さ、呑んで呑んで?」 「…あ、これは?」 色的にアップルジュースかな? 「ビッグ・アップル」 大きい、リンゴ? 咄嗟に直訳してしまった思考は、 「あまり聞いたことないよな」 錆兎さんの下がった眉を見て、ちょっとホッとした。 「あ、はい。リンゴを使ったカクテルもあるんですね」 Calmでは呑んだことないから、ワクワクしてる。 「これはね、スクリュー・ドライバーのリンゴバージョンって言われてるの。名前ちゃん、オレンジ系好きでしょ?」 「…う、うん」 勢いで頷いたけど、私、真菰ちゃんにオレンジ系のカクテル好きだって言ったっけ、かな? 「だからビッグ・アップルも呑んでみてほしかったんだ」 ニコッて微笑んだのにつられて、手が伸びる。 流し込んだ一口が喉を通る前に感じた。 「おいしっ」 甘すぎなくてさっぱりしてて、酸味がいいアクセントになってる。 「ふふっ。レシピはウォッカとアップルジュースだけだよ」 「え!?…すごく味わい深いのに!」 笑顔が深くなっていく真菰ちゃんとは反対に驚くばかりだ。 でも本当に、お世辞抜きで美味しい。 まるで生絞りのリンゴみたいなんだけど舌触りも喉越しもサラッとしてて、今まで呑んだことないくらいに果汁が濃縮されてる。 無理しちゃいけない。でもどんどん呑みたくなるから、何度もちびちび味わう私に、錆兎さんは笑いながらひとつのお皿を出してくれて、動きを止める。 「あ、これって…」 緑色したそれは、私の知る限り―… 「枝豆だ。リンゴと相性がいい」 あ、やっぱりって思うと同時に、義勇さんを思い出した。 「何も食べてないんだろ?」 だけどその声は錆兎さんで、ハッと我に返る。 「はいっ、いただきます!」 必要以上に張った声と背筋に、真菰ちゃんはクスクスと笑うと、 「錆兎、怖がられてるよ?」 なんて言うから、そんなことないって一言伝えるだけなのに、てんやわんやしてしまったあげく、 「そんなに怖いか?」 下げられた眉に頭を横に思いっ切り振るしかなくなった。 でも、ビッグ・アップルが半分ほどに減った頃にはお酒の力も手伝って、少し緊張は取れた気がする。 その間にOPENを掲げた札にまだ早い時間だからかお客さんの入りはまばらで、錆兎さんも真菰ちゃんも、私の話に付き合ってくれた。 話題は自然と義勇さんのことになって、最初は最近の話とか、そういう当たり障りのにない話をしてたんだけど、どんどん昔に遡ってくのを、気付けばへー、そうなんだってそればかり繰り返してただただ聞き入る。 「その時の錆兎、すっごい怒っちゃって手がつけられなかったんだけど、義勇が止めたんんだよね?」 「あぁ、義勇がいなかったらやばかったな」 それは中学の話。 バーテンダーになると進路を決めた錆兎さんに、当時の担任はそれを鼻で笑ったんだって。 その先生は偏った知識を持っていたらしくて、こう言われた。 「バーテンなんかロクでもない、底辺だ」 2人はその時のことを思い出しているけど、私はその場面を想像するしかないから思い浮かべてみた。 そういえば前も錆兎さん、"バーテン"って言われるの嫌がってたっけ。 所々に見えるこだわりはその過去から繋がってるかも知れない。 そう思うと少しだけ、知ることができた気がして嬉しくなる。 怒った錆兎さんを止めたっていう義勇さんも、想像しただけでカッコイイ。 中学生の頃ってどんな感じだったのかな? 「あ、またニヤけてる〜」 「え!?ごめんなさ…っ」 「いいよ〜。名前ちゃんってほんとに義勇のこと好きなんだね」 真菰ちゃんは茶化したりとかそんなつもりないんだろうけど、どうにも面と向かって言われてしまうのは恥ずかしくて、ビッグ・アップルを呑んで誤魔化した。 「……そういえば、このカクテル言葉って何ですか?」 話を逸らそうとしたのと、単純に気になった疑問。 「あぁ、それはね」 真菰ちゃんからの視線を受けて、口を開いたのは錆兎さん。 まるで2人みたいだなって瞬間的に思ったし、やっぱり、義勇さんのことも思い出した。 Big・Apple 強さと優しさ ← ×
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