Drink at Bar Calm | ナノ
人間は平等じゃない。

命も等しくそうだ。

余りにも早い2人の死すら受け止めるのが精一杯だった俺に、現実はさらに厳しいものとなって立ちはだかった。

今までぬくぬくと生きてきた代償なのか。

そんなことを考えるくらいには、辟易もしたし全てが怒涛の如く過ぎていった気がする。

気が付いた時には、ひとつの施設に身を置くことになっていた。
当たり前に姉も一緒であろうと抱いていた期待も打ち砕れ、たったひとり、職員に促され開けた扉の重さと心細さは、今でも消すことができない。

それでも、

「お、新入りか?」
「そうみたいだね」

俺を見るなり寄ってきたと思えば、

「お前、名前は?」
「訊く前に先にこっちが名乗んないとだめだよ。ますます不安になっちゃう」

そう言って、錆兎、真菰、それぞれに名乗ったあと見せる笑顔は優しいものだった。
たったそれだけのことなのに、どういうわけか、湧き出た安心感に、涙が溢れそうになったのも鮮明に覚えている。

経緯は違えど、同じような哀しみを持っている。

独りではない。その事実が、嬉しかったんだろう。

180度といっていいほど変化した生活様式も、錆兎と真菰がいたからこそ耐えられたと言っても過言ではない。

"親がいない"。その事実は生きる上で支障が出た。

寧ろ俺なんかは、まだ恵まれている方だったと言える。

鱗滝さんが、いたからだ。

支援者としての力添えは、精神面もそうだが金銭面でも大きかった。
同校に何人か、違う施設から通っているという人間が居たが、給付品は必要最低限で、環境もあまり良くないと聞いたことがある。

現に大きく穴が開いた運動靴を騙し騙しで履いているその姿は、話として聞くより説得力があった。

その記憶があるからだろう。徐々に知った。

人間は何があろうが、どこにいようが、平等に扱われることはないのだと。

それは絶望ではなく、真理としてだ。

だがその中でも、錆兎や真菰、鱗滝さんのように価値基準を見誤らない人間はいくらでも存在するし、他人に認められたいと思うなら努力を怠らなければいい。

口だけで能のない人間は、どこの世界でも通用しない。
正確には、通用しない世界で在ってほしいという望みの方が強かった。

卑怯な人間はどこにでもいて、馬鹿正直に生きている人間は淘汰される。

俺は、絶対にそんな人間にはならない。定めたことを具現化するために生きてきた。

"普通じゃないから"

それを理由にされるのが、何よりも屈辱だったからだ。


Drink at Bar Calm


わざわざそんなことを追憶したのは、

「お待たせしましたっ」

緊張した面持ちが、いつもより念入りに整えられていると気付いた時。

同時に名前とこうして出掛けるのが初めてだというのも知覚して、Calmに置く椅子を見に行く、その目的しか考えていなかった思考は瞬時に切り替わった。

これはいわゆる"普通のデート"なのだと認めた瞬間に込み上げた嬉しさは、裏も表も何もない笑顔のお陰であり、ふとした時に過ぎる寂寥は、無邪気な瞳によるものだ。

ないものねだり。

表すなら、その言葉が妥当だろう。

本人が嫌だというその"普通"は、俺にとって何より眩しいものだった。

ひとりとして同じ人間はいない。
俺は、名前にはなれないし、名前は俺にもなれない。

そんなことはわかっている。

だから妬みではなく、ただ羨ましいと、思った。

名前となら俺が願う、夢のようなものを叶えられるのではないかと、漠然とした希望を持つようになっていることにも気付かされた。

それでも不自由は、どこの世界にでも存在していて、結局のところネックなのが"家族"という何とも皮肉な事実を垣間見る。

俺が失くしたものを、名前にも失くさせるわけにはいかない。

だから、予測をして努力はした。
母親が一筋縄でいかないであろうというのは、何となく耳に入れた情報で想像できていたからだ。

だがその結果、名前が今まで無自覚に溜め続けていた鬱積のようなものを、表面化させてしまったのだと思う。

本当なら話を聞き、諭すのが正しいのだということは、頭ではわかっていた。

それでも、俺は、

「バーマンさんはバーマンさんでいいんです!」

必死にそう叫んでくれた名前に、冷たい正論を振りかざして言いくるめることなどできなかった。

だからといって上手い言葉を掛けられるはずもなく、どうすればいいのか考えあぐねいた末だ。

一線を越えれば、心境の変化が起きるのではないか。

そんな馬鹿げた解釈に至ったのは、コンビニで目にした避妊具からだ。

いつだったか。真菰に言われたことがある。

「義勇はもーちょっと、女心勉強した方がいいよ?」と。

どうやら俺は、気の遣い方が圧倒的に逆方向なのだと錆兎にまで追撃され、それはバーマンとしての資質にも関わるため、大人しく享受は受けた。

受けたつもりなのだが、実際、カゴの中を見るなり狼狽えて逃げていく姿も、銭湯に入る前に渡した基礎化粧品を受け取る時の晴れない顔も、正直しっくりくるものではなかった。

真菰たちに教わった気遣いは、名前にとって喜ばしいものではなかったのか。

そう考えると、一緒の空間で寝るべきではないという結論に至ったが、それは全力で阻止されて、それならばと共に入ったベッドの中。
俺のスウェットを掴みながらガチガチに緊張した名前から聴こえてくる心音は凄まじいもので、笑いを堪えるのが精一杯だった。

理性が抑え切れなくなる前に目を閉じて、寝たふりをする。

時折身動ぎする目の前を音で気配で感じながら、ただ何も考えないことにしたのは、嫌でも伝わってくる体温と、俺とは明らかに違う匂いに反応してしまうのを避けるためだ。

その時間は、正直長かったように思う。

ようやく聴こえてきた深い呼吸音に、静かに目蓋を動かせば無防備な寝顔がそこにはあった。

今まで我慢していた頬の弛みは、一気に解放される。

眠っているだけの姿を、穴が開くほど見続けた。

時折揺れた睫毛と、動く口唇を飽きることなく堪能する。

それは、勝手にその身体の柔らかさを求めようと動きそうになった右手を抑制するための気休めかも知れない。

「……ん」

小さく唸った口唇へ誘われそうになるのも抑え、せめてもの慰みに頬を撫でる。

「…ぅっん」

鼻にかかる甘い声は、偶然にも俺を誘惑するように身を寄せてきた。

ふと、ルシアンのカクテル言葉を知った時の狼狽を思い出して、また小さく笑う。

「誘ってるのか?」

届かないのはわかっていて、敢えて口にしてから、細い首筋に口付けをした。
全く動かないのをいいことに、鎖骨の下まで這わせてから吸い上げる。
決して短くはないその時間も、規則正しい寝息が聞こえるだけで、更に吸引を強めた。

チュッ。

最後にわざとリップ音を立てて離れて、薄明りでもわかる鬱血痕に満足する。
そっとそこを撫でれば、眉を顰め払う仕草にも笑みが深まった。

愛しいという感情は、こういうことを言うのだろうか。

そんな少し感傷にも似たものに、浸ってみる。

これほどまでの穏やかな空間に身を置くことを、今まで想像すらしていなかったせいかも知れない。

ゆっくりと引き寄せた身体は、当然だが温かく柔らかい。

「……あったかい、止まり木か」

ふと過ぎった言葉。

それは俺ではなく、名前を示しているようだ。

傍にいるだけで、羽根を休められている気がする。

いつの間にか変化していた心境に戸惑いもあるが、これが愛情というのであれば、そうなのだろうと納得せざるを得ない。

嘘がない真っ直ぐさに惹かれたからこそ、俺に心配を掛けないよう健気に振る舞う姿もまた愛おしい。

ずっと、こうしていられたら―…。

目下、解決しなくてはならない問題も障害も山積みなのがわかっていても、心の奥ではそれだけを願う。

名前だけが傍にいればいいと、言い切ることができたならどんなに楽か。

だけど、現実問題として考えたらそんな青臭いことも言っていられない。

どうにか、状況を打破する方向へ行動を起こさなくては。

明日、この純真無垢な姿が突然視界から消えてしまわぬように。

当たり前だと思っていた日常が崩れてから、後悔をしないように。

「名前…」

そこにいることを確かめるように頭を撫でれば、寂寥が消えていく。そんな気がして自然と目を閉じた。

* * *

珍しく夢を観たのは、いつもは感じない誰かの存在を抱き締めたまま眠ったからだ。

何の夢だったか全く憶えていないのに、意識を取り戻した瞬間から襲われる喪失感は既知しているもの。
これだけは何度経験しても慣れない上に、心が潰されそうになる。

それでも腕の中に収まる存在に、ふっと息を吐いた。

安堵と共に突如として沸き上がる欲情は、蝕んでいく孤独感を払拭したい。その願望からだ。

「……っ」

背中に触れていた手は意思と関係なく側腹部へ下りて、臀部を這っていく。

柔らかい。

無防備な口を貪ろうとして勢い良く起こした身体で鳴ったスプリング音は、その口を歪ませた。

「んーんっ」

何と言ったのかはわからない。だが明らかに"うるさい"。そのニュアンスだった。表情すらもわかりやすくそう伝えている。

固まっていた表情筋が一気に弛まったのを感じたのは、小さく噴き出した後。

「…悪い」

小さく謝って、そこから静かに抜け出す。

冷蔵庫に向かいながら、また小さく笑ったのは自分でも良くわからない。
寝ているはずなのに、怒られた。
それだけのことで、こんなに面白いと感じるのも可笑しな話。

だけど、たったそれだけのことで、さっきまで心を占めていた言いようのない孤独感は一気に吹き飛んでいた。

どうにも名前と一緒にいると、不可思議なことが多い。

穏やかな寝顔に戻っている姿を見つめて、また笑いが零れた。



「いってきます」

そう言って、名前がビルを出たあとの静寂を、いつもより強いものに感じたのも、不思議な現象だと思う。

せめて見えなくなるまで見送ろうと窓から見下ろした先、人目も憚らず手を振り続ける姿に、通勤中の人間が怪訝な顔で二度見をするのが耐えられず、早く行くように促した。

ようやく向けられた背中を見送ったあと、溜め息を吐く。

少し眠ろうと潜り込んだベッドは、名前の香りに満ちていて心臓が跳ねた。

このままでは到底眠れるわけがないと抜け出せば、ミシッ、と大きくしなる音には少しばかりまた笑いが零れていく。

エレベーターで1階まで降りて、一度外に出ると地下への階段を下る。

"Bar Calm"

今は灯りで照らされていないものの、その深い青で塗られた看板は日に日に俺の中で大きな存在になっていっている。

これを見ると気が引き締まるような、それでいて一息吐けるような、そんな効力があった。

聞き慣れた鐘の音の下を通って、カウンターの中へ入る。

スウェットのポケットから出したスマホと紙を取り出してから、そこに書き殴った11桁の数字を打ち込んで、ボタンを押す。

鳴り響いた呼び出し音には、少し心臓が速くなった。

『……もしもし』

警戒している声が聴こえ、息を吸う。

「早朝に失礼します。名前さんのお母様のお電話でよろしいでしょうか?」
『……。もしかして、…冨岡義勇さん?』
「そうです。突然お電話してしまい、申し訳ありません」

流れた沈黙が、どちらの意味なのかまでは量れない。

『そちらにいるってこと?名前』
「はい。ご連絡しておかなければならないと思い『仕事は?ちゃんと行きました?』…さきほど会社に向かいました」

機械越しに聞こえた溜め息は安堵と呆れを宿しているように感じた。

『出て行った理由は聞きました?』
「…いえ、まだ詳しくは。昨日は本人も酷く動揺していたので」
『そうですか…』

正直、俺にとって理由など本当はどうでもいいのだと、妙に冴える頭で考える。

「今日、話を聞いてみようと思っています。ご心配とご迷惑をお掛けして申し訳ありません」
『……。それは、貴方が名前を説得して帰してくれるってことですか?』
「できれば、それが一番かと考えています。気持ちが落ち着けば、また違った考えも出てくると思うので」
『……そうですね。勢いだけで飛び出すなんて冷静じゃないもの』

聞こえる溜め息が終わる前に、言葉を重ねた。

「俺が呼んだんです」

予想通り、空気が張り詰めたのを感じる。

「すみません」

どうして、人間は嘘を吐く生き物なのか。

これまで生きてきて、得た答えもある。

「なのでもう少し、ここにいることを許していただけないでしょうか?」

大切なものが傷付かないよう、護るためだ。

そこに自分の利害などはさして問題ではない。

『……。どうせ駄目って言っても聞かないでしょう?あの子。好きにしてください』

吐き捨てられるような口調ではあったが、最後の、

『連絡をくれてありがとう。元気なら安心しました』

その声は、母親としての葛藤のようなものを伝えていた。

失礼します、と画面をタップして一息吐く。

若干の緊張からか、渇きを感じる喉で見たジンジャーエールで思い付いたのは、ひとつのカクテル。

寝酒にいいかもしれないと、何の気なしに作り始めたそれをシェイクしながら、置きっぱなしだったメモに目を止めた。

名前が寝ている間に指紋を借りて入手したその番号は、ひとまず正解だったと言える。

これ以上の状況悪化だけは免れた。それでも、何も解決はしていない。

タンブラーグラスに注いだそれを、目で楽しむ間もなく喉へ流し込む。

僅かに重くなった心を軽くさせる気がしたのは、さっぱりとした呑み口と、

「おいしっ」

その声が脳内で響いたからかも知れない。



KlondikeHighball
本音と建前




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