車のドアを開けた時、そしてCalmの扉を開いた時、自由になれた気がした。 自分で選んでる。そんな感覚がしたからかもしれない。 でも実際は、それだけですべてから解放されたわけではないし、問題はこれから山積みだ。 どんなにうまいこと言ったって、義勇さんは私を匿った共犯と見做されるから、母親の理解はもう二度と得られない。 それでも構わないと思ったから、今ここにいる。 人生が、どれかを選んでなにかを棄てる繰り返しなら、私は何度だってこの背中にしがみつきたい。 そんなことを、強く思った。 「片付けてくる」 そっと離れた腕に、もうちょっと抱き締めていてほしかったとは言えなくて、短い返事を返す。 「少し時間がかかるが、先に上に行ってるか?」 その質問に、ちょっと考えてから笑顔を作った。 「待ってます」 「わかった。座ってろ」 「はいっ」 大人しく従おうとしたんだけど、カウンターに向かう間にもガチャガチャ音を立てて回収していく空のグラスに口を開く。 「それ全部洗うんですか?」 「そうだ」 「じゃあ私洗いますっ。義勇さんは他を片付けてください」 「……いや」 「2人でやった方が絶対早いですよ!」 正直、他の閉店業務は全然わかんないから足手まといになると思う。 でも洗い物ならそんな難しくもないし、特別な工程もないと思ったから、強引だけどカウンターの中に入らせてもらった。 「どれで洗えばいいですか?」 「……これだ」 「了解ですっ。洗ったらここに置けばいいですか?」 水切りカゴに視線を向ければ、小さく動いた頭を確認してからスポンジを手に取る。 「任せてくださいっ」 すぐに作業を開始して止める間を作らせないようにしたのは、義勇さんにも伝わってると思う。 「怪我は、するなよ」 ポツ、と出された言葉の意味が何なのか、グラスを擦り始めて暫くしてからわかった。 洗うだけだから難しくないとか、すごい浅はかだったなって感じてる。 カクテルグラスって薄いから、力の入れ具合がすごく難しい。 強く入れすぎると割ってしまいそうで怖いし、でもちゃんと擦らなきゃ曇りの原因にもなるから、丁寧に丁寧に洗っていく。 洗い直し、なんてなったらそれこそ二度手間で足手まといだもん。 泡に包まれたグラス達に、一旦流そうかなって捻ろうとした蛇口は伸びてきた手に止められて、一瞬で心臓がうるさくなった。 「義勇さ…」 「他は終わった。あとはやる」 「え!?ごめんなさい洗うの遅かったですね…!」 大人しく手についた泡だけを落として、場所を譲る。 「座ってていい」 「…はい」 カウンターの定位置に腰掛けて、黙々とグラスを片付けていく横顔をただ眺めた。 一緒に住んだらこんな感じなのかな、なんて。そんなことを自然と考える。 「明日は出勤するのか?」 「…あー、はい。そのつもりでいます」 チラッと見た紺碧色がまた伏せられて、ちょっと首を傾げた。 「風呂に入った方がいいだろう」 あっ、って声が出そうになった。そういえば入ってなかったって、今気付いたとかちょっと言えない。 「借りても、いいですか?」 図々しいお願いだってのはわかってるけど、でも多分義勇さんから提案してくれたってことは、そういうことなんだろうなって思って恥を忍んで頼んでみる。 だけど不自然に空いた間が、ちょっと怖い。 「ない」 また空いた間には、すごい間抜けな顔してたと思う。 Drink at Bar Calm 「…へ?」 「ここは元々商業用ビルだ」 「……。あー、そっか。そうですね。そうだった。あははっ」 え?じゃあ義勇さんいつもどうしてるんだろう? 「近くに銭湯がある。俺が通ってるところだ」 沸いた疑問に丁度よく返ってきた返事で、ようやく納得した。 多分、一緒に行こうっていうことなんだって。 「あ、じゃあ、コンビニにも寄っていいですか?」 「構わない」 そう言って手を拭くとカウンターを出る姿を見つめる。 「上から着替えを取ってくる。少し待ってろ」 「了解ですっ」 すぐに閉まる扉のあと、ガチャッて鳴った鍵の音に、なんとなくフッと息を吐いた。 押し掛けてきちゃって良かったのかな、なんて、今更考えてる。 冷静にって考えてたつもりでも、あの時の私は全然、これっぽっちも落ち着いてなかったし。 ほんと、半分以上勢いだったと思う。 でもあの家に居たくないっていう気持ちより、義勇さんに会いたいっていう気持ちが勝ってた。 こんなに溢れ出してくる感情は正直初めてで、今もどうしていいかわかんない。 「駆け落ちに近いことして結婚したんだって」 過ぎった妹の声に、お母さんもそういう気持ちになったのかなって、ちょっと思った。 一緒に居るためなら全部、何もかも棄てていいとか、考えたのかな。 その結果が後悔だったから、"普通"を求めたのかな? それなら少し、納得はできる。 でもそれを子供に押し付けるのは、やっぱり違うと思う。 それに後悔してるってことは、本当はお父さんと結婚しなきゃ良かったとか、私達がいなければ良かったとか、少しでも、一瞬でも思ったってこと。 考えてみて、わかった。 あぁ、私、それがショックだったんだって。 "普通"だと思ってたあの家が"普通"じゃないって知って、まるで見た目だけ綺麗に繕った、ハリボテの中にいるような気持ちになった。 お姉ちゃんは知ってるのかな? 多分、知らなさそう。知ったら多分、私以上にショック受けてると思うし。 だから多分お母さんも口止めしてたんだろうな。 カウンターを見つめて、自然と義勇さんがいるような、そんな感覚がした。 誰もいないっていうのが新鮮で、ちょっと慣れない。 私の今のこのぐちゃぐちゃした想いも、義勇さんの寂しさと比べたら、贅沢なものなんだろうな。 「……はぁ」 溜め息を吐いた瞬間に開いた扉に、しゃんと背を伸ばしたのは何というかとっさのこと。 「待たせた。行こう」 「はいっ」 義勇さんの前では、笑顔でいよう。 でも、前みたいに無理して笑うんじゃなくて、ちゃんと心の底から。 顔を見てるだけで、声を聞いてるだけで嬉しいから、自然と頬が弛んじゃうってのが本当のところだけど。 笑顔っていうより、ニヤけ顔? 地上に続く階段を上りきったところで、 「こっちだ」 引かれた手に、ドキッとしてからその背中に続く。 嬉しい。大好き。 それしか思い浮かばない。 「コンビニは先に寄るか?」 「……はい、できればっ」 細道へ入ろうとしてた足がそのまま真っ直ぐ進んで、割とすぐ見えてきた看板に手を離した。 「ささっと買ってきちゃいますね!」 多分、義勇さんは用ないだろうし待たせたら悪いから、小走りで自動ドアをくぐってすぐに日用品の棚へと向かった。 やっぱり高いなぁ、と思いながらひとまず"急なお泊まりに"って書かれたトラベルセットを手に取って裏面を確かめる。 メイク落とし、洗顔料、化粧水、乳液が使い切りパックになってるから、1日分ならこれでいいかな。 あとは明日、仕事終わったら安いところで一式揃えればなんとかなりそう。 「それを買うのか?」 飛んできた声にまたドキッとした。後ろにこられると、いつも気が付けない。 「はい。ちょっと持ってこられなかったから」 荷物っていっても、詰められたのは自分の部屋にあったものだけ。 本当は洗面所に寄って、いつも使ってる化粧水とか詰めたかったけど、母親にバレて止められる可能性の方が高かったから諦めた。 送ってもらう立場で、村田さんにコンビニに寄ってくださいっていうのも頼みづらかったから、こうして外に出られたのはちょうど良かったって思ってる。 無言で空っぽのカゴを差し出してくる義勇さんに、持てってことなのかな?って一瞬考えて、違うなって思い直した。 「入れていい」 「え!?いいです大丈夫っ」 「考えたら夜も朝も食べるものがない。ここで買っていくからついでだ」 「……でも」 「食べたいものを選んでくれ。飲み物も。上には水くらいしかない」 そのまま攫っていくトラベルセットに、これ以上食い下がっても平行線のままになりそうで、素直に頭を下げた。 「ありがとうございます。……!じゃあ、ちょっと選んできますねっ」 パンとおにぎりとお茶と、無難にそんなものを選ぼうとしてる私をよそに 「これは食べられるか?」 なんて訊いて、主食だけじゃなくお菓子とかデザートとか、どんどんカゴに入れていく義勇さんに困惑してしまう。 「あの、もういいです!そんなに買っても食べられないからっ…」 「……そうか。じゃあ買ってくる」 スタスタとレジに歩いていく背中に感謝しつつ、それでも半分くらいは出そうと財布を片手に追い掛けた。 「義勇さん、私もっ」 ピッて電子音が続く中、とっさに見て見ぬふりして出口に向かう。 「先に外出てますね!」 「あぁ」 どうにか平常心のふりで自動ドアをくぐった。 心臓が、バクバクいってる。 どうしよう。見ちゃった。 チラッとだけど、カゴに入ってるの。 見て、しまった。 多分、あれって、ゴム、だよね…? って自分に訊き返さなくても、さっき頭を下げた時、下の棚にあったのを意識しちゃったから、多分じゃなくて間違いないってわかってる。 だからちょっと気まずくて食べ物とか選んでくるって、そこを離れたんだもん。 どう、しよう。 でも、そうだよね。当たり前にそういうことに、なるよね。 「行こう」 また突然の声掛けに、ビクッてなってしまった。 どうしよう。絶対変だって気付かれる。 どういう態度をすればいいのか、わからない。 こういうのって女の人からあっけらかんとして話題に出した方がいいの? "義勇さんゴム買ってましたね〜"みたいな。 ……ダメ!絶対無理!そんなこと口が裂けても言えない! 迷ってるうちに繋がれた手に、あ、あったかいって反射的に思った。 無言のままだけど歩き出す背中を見つめて、笑顔が零れる。 考えただけで緊張するし、やっぱりちょっと怖いけど、それ以上に好きだから、義勇さんとなら、そういうことしたい。 覚悟を決めよう。 なんて思った瞬間ニコラシカが浮かんで、ちょっと胸の辺りがチクッとしたから、手を握り返した。 * * * 私にとって初めての"銭湯"という場所は、すごく既視感がある。そう感じた。 本当に古き良きっていう言葉が似合うくらい歴史がありそうな佇まいは、中に入ってもイメージを裏切らない。 番台というものに感動している私に、義勇さんは小銭を置くと慣れたように中に進んでいく。 「女湯はあっちだ」 「あ、はいっ」 とっさにした返事のあと、差し出される右手にはトラベルセットがあって、 「必要だろう?」 涼しい顔で言う義勇さんはすごいなって思った。 「ありがとうございます」 こういう時、考える。 義勇さんって、女の人に慣れてるなって。 別にそれの何がいけないかって訊かれたら、そういうわけじゃないんだけど、ちょっと寂しくはなる。 私が知らない、過去の義勇さんがいるから。 そんなこと言ったらキリがないのはわかってるから、思うだけ。 念入りに洗った身体とか、適当に見繕ってきた下着の中でもちゃんと上下揃っててよれてないものとか、そういうのに気を遣ってドキドキする自体が生まれて初めてで、でもあんまり時間をかけて義勇さんのこと待たせたくないから、最低限で終わらせた。 だから、あんまり人生初の銭湯っていう実感はなかったかも。 「お待たせしましたっ」 既に外で待ってた義勇さんにそう声をかければ 「待ってない」 間髪入れずにそう返ってきて、笑ってしまう。 「髪、乾かしてこなかったのか?」 そう言って触れる指の向こう、長い髪も重くなってるのに気が付いた。 「ちょっとめんどくさくて…。義勇さんも濡れたまんま。もしかして急がせちゃいましたか…?」 「俺はいつものことだ。帰ってから乾かす」 「あ、じゃあ私もその後ドライヤー借りていいですか?」 「先に使っていい」 そうやってすぐに言えるの、優しいなって思う。 繋いだ手を合図に歩き出すのが自然で、嬉しくなった。 少しだけだけど、義勇さんの日常に触れられたから余計に。 エレベーターで最上階に上がるまでの間、会話は浴室の壁に描かれた絵の話で、男湯と女湯では違うっていう、ほんとに些細なことなんだけど、義勇さんにとってはそれが新しい発見だったみたいでちょっとビックリしてたのが可愛く思えた。 多分、スウェット姿だったから尚更。 「お邪魔します」 開けられた扉に会釈してから中に入る。 片手に収まるくらいしか訪れたことのない義勇さんだけの空間は、なんだか今までにないくらい、すごくドキドキした。 「ドライヤーはそこにある。線はそこだ」 「あ、ありがとうございます」 ラックに無造作のまま置かれたドライヤーを片手に、線を差す。 その間にさっき買ったものを片付け始めてる背中に、手伝うって言おうとしたけど、やっぱりやめとこうって思い直してスイッチを入れた。 髪を乾かし終えるまで、会話という会話はないまま、 「ありがとうございます」 そう言って手渡したドライヤーを、今度は義勇さんが使うのをただボーッと見ていたのに気が付いたのは、スイッチが切られてからだった。 片付けてる姿にドキドキするのは、下ろしてる髪とか、寝間着のスウェットとか、いつもと違う要素があるのは勿論なんだけど、自然と考えちゃう。 これからの展開とか、そういうの。 「何か食べるか?」 「へ?あ…大丈夫、です」 正直、何も喉に通らないくらいに緊張してる。 喉って考えてから、すごく乾いてるのにも気が付いた。 「お茶、だけもらっていいですか?」 返事の代わりに冷蔵庫を開けると、さっき買ってもらった掌に収まるペットボトルを差し出してくる義勇さんに軽く頭を下げる。 「ありがとうございます」 「そこに座っていい」 指差された簡易ベッドにドキッとしたのを、なんとか悟られてしまわないようにお礼を言って移動した。 ギシッ。 予想より大きいその音にも心臓が動いたから、お茶を流し込む。 落ち着くために吐いた息も、予想以上に大きくなってしまった。 「もう寝た方がいい」 それだけ言うと、近付いてくる足に、落ち着いたはずの心臓が一気に加速していく。 「……あ、はいっ」 多分そう、そういう合図、とかそうだよね?多分。 硬直していく身体は俯いたまま動けなくなって、ただ目の前で止まる義勇さんの足元を見つめる。 これはきっと見上げなきゃいけないって思ったのと同時に、頭に乗るあったかい手。 「鍵は閉めておく。朝はそのまま出て行っていい」 それだけ言うと通り過ぎていく気配に勢いよく上げた顔は、一気に金縛りが解けたみたいだった。 「え?どこ行くんですか!?」 「車だ」 また同じ言葉を繰り返しそうになって、言い淀んだ私の表情を窺う義勇さんの考えは全然読めない。 「何か、用事でも…?」 「いや、そこで寝る」 「っ!?なんで!?」 「このベッドでは狭すぎる。ろくに眠れないだろう」 「だったら私が…っ」 最後まで言い切れなかったのは、読めなかった表情が一気に険しくなったから。 「心配しなくても車で寝るのは慣れてる。Cascadeの時は日常茶飯事だった」 「……。家がなかった、とか?」 そんなわけがないってわかってても、口に出したらちょっと呆れに近い、あったかいものになったから言ってみて良かったかも。 「泥酔するためだ。目と鼻の先の寮に帰るのも自分の意思ではままならず、よく車に転がり込んでそのまま意識を飛ばしていた」 「……。義勇さんでも、酔い潰れる時とか、あるんですね」 「元々、酒に強い体質じゃない」 そう、なんだ。 またひとつ、私の知らないことが知れて嬉しい。 って今はそうじゃなくて! 「でも今車で寝る意味はないじゃないですか!?」 「さっき言っただろう。狭すぎると」 「私は大丈夫です!義勇さんがベッドに寝ないって言うなら私帰りますよ!?」 「どうやって?」 「タクシーとか呼びます!」 「帰って家には入れるのか?」 うってなってしまった。 絶対、無理。入れてもらえない。 「じゃあそこらへんのホテル行きますっ!」 そうだ。最初からそうすれば良かったんだ。 Calmの周辺ならちょっと歩けばビジネスホテルくらいあるんだから、わざわざここに押し掛けなくてもそうすれば良かった。 「こんな夜中に宿泊を受け付けるホテルはないと思うが」 また、うってなっちゃった。 どうしよう。言葉の応酬で全然勝てる気がしない。 「とにかくバーマンさんはここで寝なきゃダメです!私と寝るのが嫌ならそこらへんの床で転がってますから!ちゃんと!ベッドで!寝てください!」 思わず立ち上がったけど相変わらず目力はなくて、逸らされた顔は、絶対に笑いを堪えてる。 「…必死になると呼び方が戻るのか」 「え?」 どういう意味なのか考えるより早く包み込まれた腕に、変な声を上げそうになったけど、そのままベッドに沈んでいくから、何とかしがみついた。 「わかった。そこまで言うのならここで寝る」 「……は、はいっ」 また勢いだけで答えちゃったけど、当たり前に密着する身体に心臓が悲鳴を上げてる。 こんなんじゃほんとに眠れるわけないって、すごい今更だけど痛感した。 だってちょっとでも動いただけでもその身体に触れちゃいそうだし、聴こえる息遣いとか、お風呂に入りたての石鹸の匂いとか、あったかさとか、意識しなくても全部感じる。 「……あ、あの、もうっちょっと…離れても大丈夫、だと思いますっ…!こんなに近付かなくても…あの、大丈夫っ」 苦し紛れに言った瞬間に小さく噴き出す音が聞こえて、喉が動くたびに私の身体まで揺れた。 「本当にコロコロ変わるな」 「……ごめんなさい…。こんなに近いとは、思わなくて…」 「硬直しすぎだ」 言うや否やギュッて抱き締められて、胸元に埋まった顔が熱くなっていく。 「明日早いんだろう?もう寝た方がいい」 「…は、はい…っ!」 そうだ。義勇さんも疲れてるんだから、早く眠りに就かせてあげなきゃ。 私がここでぐでぐでしてたらそれこそ迷惑だし、どうにか寝る方向に気持ちの切り替えをしよう。できないけど。 とにかく義勇さんが寝るまで大人しくして、寝たらそこらへんの床に転がろう。その作戦でいく。 「っ!」 割って入ってくる膝が太腿の間で止まって、息が止まった。 え?どうしよう。やっぱり、そういう流れなのかな? 自分でも異常なくらい熱いってわかってるから、このまま顔を上げたくなくて、スウェットにしがみついた。 もうちょっと、落ち着くまで待ってほしい。いや、多分待っても落ち着くどころか高まっていく一方なんだけど。 ぐるぐる考えてるうちに出された 「おやすみ」 優しい声には心の底から安心するような、そんな感情が湧き出た。 だからかな。 「……おやすみなさい」 そう返したあと、暫くは極度の緊張で固まったままだったけど、穏やかな呼吸と心音に包まれて徐々に重くなる目蓋は、いつの間にか完全に閉じていた。 * * * ふと、首元が擽ったいなって思ってから、薄目を開けた先の明るさで我に返った。 「やばっ!また遅刻っ!?」 勢いだけでベッドから降りようとした瞬間、引き寄せられた腰にどくんっと心音がうるさくなったのは、一瞬で状況を理解したから。 私の部屋じゃない。っていうか家じゃない。 昨日―… 「転げ落ちるぞ」 「……っ!」 すぐ傍で聞こえた声に身体が震えた。 それでもそっと離された腕に意味がわかって小さくお礼を言う。 確かに、危なかったかも。 いつものベッドのつもりで降りようとしたから、高さの違いにちょっとビックリしたし。 思いっ切りお腹に回った手にも驚いたけど。完全に油断してたから、お腹出てるとか思われてないかな…? 一瞬だったから大丈夫だと思うけど。 でも、すごい腕の逞しさは、支えてもらっただけなのにすごい男の人っぽく力強くて、ドキドキしてる。 「もう出勤するのか?」 「へ?」 ふと目にした壁に掛けられた時計の時刻に、小さく顔を横に動かした。 「まだ、大丈夫です…」 明るく感じたから遅刻かもって思ったけど、いつもより全然早い。 胸を撫で下ろしてから、我に返った。 「義勇さん、眠れました!?」 慌てて訊いたのは、マグカップ片手に座る表情が寝起きじゃないっていうのに気が付いたから。 「少し前に起きた」 それだけ言うとカップを啜る姿では、嘘か本当かはわからない。 どっちにしろ、そんなに眠れてないのは事実だから居た堪れなくなる。 やっぱり、強行すべきじゃなかったのかも。 本当は家に帰るべきなんだろうけど、でも帰りたくない。 「ごめんなさい……。あの、今日はホテル探し「久しぶりによく眠れた気がする」」 きっと、言葉を重ねたのも紺碧色の瞳を向けてくれたのも、全部義勇さんの優しさ。 「眠れ、ました?」 「あぁ」 伸びてきた指が頬に触れて、反射的にちょっと後ろに引いたのはいつも抓られてる癖からかも。 「独りよりも寝心地が良かった。名前が温かかったからだろうな」 細まった瞳が穏やかで、すごく綺麗なんだけど、恥ずかしさが込み上げてくる。 覚えてないから、確実に私が先に寝ちゃったと思う。 義勇さんにまた寝顔見られたんだろうな、とか、でもあったかいって言って貰えたのは嬉しくて、でもこうやって面と向かって言われるのは心臓が持たない。 「人間湯たんぽですねっあはは」 だから笑って誤魔化すしかなかったけど、これには義勇さんも少し口角を上げてくれた。 それから、自然の流れでご飯を食べようってなったけど、先に顔を洗いたいって言ったら、同じ階にあるお手洗いまで案内してくれた。そこで顔を洗って歯も磨いていいって。 でも、なんたって元々がビルだから所々薄暗いし、長く続く廊下が果てなく見えたのがちょっと怖くて、義勇さんここで1人でいるんだって思ったら、ちょっとさっきの言葉を理解できた気がする。 無言で頬張る朝ご飯とか、着替えようとする私にわざわざ扉の向こうで待っててくれたりするのとか、支度を終えて会社に向かおうとビルを出たところで見上げた窓から見送ってくれる姿とか、全部が嬉しくて、新鮮だった。 思わず大きく振った手に、ちょっとだけ上げてくれた右手はすぐ、早く行くように催促する動きに変わって、少しこそばゆくなる。 幸せって、こういうことなんだろうな。 デスクに着いた瞬間、告げた通知音はちょっと嫌な予感がしたけど、開いてみれば更に頬は弛んでいく。 "今日のカクテルは名前が決めていい。考えておいてくれ" さっき見たばかりの姿を思い返しながら、すぐに思い付いたカクテル名を打って、スマホを握り締めて微笑った。 名前を知った時からずっと呑んでみたいって思ってたけど、調べたら苦みが強いとか、不味いとかそういう情報しか得られなくて、ちょっと敬遠してたそれは、今の私にピッタリだと思う。 一息吐いて弛んだ頬を引き締めると、ちゃんと仕事をするためにスマホを鞄に閉まって、パソコンの電源を入れる。 ずらりと並んだ案件に溜め息を吐くどころか、やる気に満ち溢れたのは、義勇さんのお陰なんだろうなって思ったら、また頬が弛んだ。 Campari・Orange 自由 ← |