Drink at Bar Calm | ナノ
カクテルを呑むこと自体も楽しいけど、こうやって酔うってこともすごく楽しいんだなって発見した今日。

綺麗な紫色をしたブルー・ムーンを呑み干すのにそう時間がかからなかったのは、その前に呑んだホワイト・ルシアンで勢いがついたからなのかもしれない。
もう1杯呑めそう、なんて考えるのはやっぱり酔いが回ってる証拠で、実際呑んだら多分倒れると思う。

それに時計の針は残酷で、ある程度の開店準備を終えた義勇さんは、おもむろにこう言った。

「送っていこう。先に着替えてくる」

そうして一度Calmを出て戻ってきた時には、いつものバーマンの姿をしていて、あぁ、もうこの楽しい時間が終わりなんだなって思ったら、受け入れたくなくてカウンターに突っ伏してた。

「いやだ〜。帰りたくない〜…」

我儘だってわかってるけど、困らせるだけだってわかってるけど、ちょっとくらいゴネたい。

「今帰らないと夜中になる」

義勇さんの言いたいことがわかってるから、渋々顔は上げた。

「帰りたくない……」

もう一度同じ言葉は呟いたけど。

知ってる。義勇さんが私を家に送って、開店直前に戻ってこれるよう、ギリギリまでここにいさせてくれたこと。
そしたら勝手に帰るからもうちょっといさせてほしいって気持ちも沸いたけど、それをするには無理があるほど頭がフワフワしてる自覚はあるし、多分義勇さんが許さないと思うから、帰り支度はちゃんとする。
これ以上ゴネても、何にもならないってわかってるし。

「あの、お金」
「いい」
「じゃあ今度、払います…」
今日のところは揉めてる場合じゃないから引き下がって、大人しく財布をしまう。
「……帰りたくない」
しみじみ出してしまったさっきと同じ言葉に、
「そんなに帰りたくないのか?」
同じ質問が上から降ってきて、顔を上げた。

さっきとは違う服のせいなのかな。見慣れてるからなのかも。なんだかすごい色んな感情が湧きだって、でもダメだってとっさに呑み込む。

「帰りたくないけど、帰ります……」

思ったよりも酔いが足元にきていたのに立ち上がってから気付いた。
バランスを崩した時にはもうその両腕の中にいて、心臓が跳ねる。

「…あ、ごめんなさ…」

ギュッと強く包まれるあったかさに、あぁ、やっぱり帰りたくないって、強く思う。

でもそうも言っていられなくて、

「行くぞ」

靴擦れしてる足の支えになるよう引いてくれた優しい腕に、黙って頷いた。


薄暗い景色をただ眺めて、通り過ぎていくだけの景色だけどあのお店可愛いなぁ、何屋さんなんだろう?とか考える。
だけどそれが、だんだんと家に近づいてきてるって実感した時、少し悲しくなった。
明日からはまた仕事が始まって、こうやって昼間も会えるのは週末しかない。それも義勇さんが忙しかったら、私が行けなかったら、会えないままで過ぎちゃう。

すごく好きなのに、一緒にいたいのに、先行するのは気持ちだけで、何も変わってない現実に打ちのめされた。今まさに、そんな気分。

「着いた」

冷静に言うその横顔に今私がすべきなのは、笑顔でお礼を言って、さっさと車を降りること。
わかってるから、シートベルトに手をかけた。

「ありがとう、ございました」

どうして?なんで、泣きたくなるんだろう?酔ってるからかな。

離れたくない。ずっと一緒にいたい。そうやって込み上げてくるのも酔いのせい?

突然持ち上げられた顎で綺麗な紺碧色を見たのは一瞬、息をする間もなく口唇が重なってた。

「……っ、ん」

優しく絡む舌とか力強く寄せられる肩とか、全部が胸を締め付けてく。
聞こえてくるのは息遣いと水音だけで、頭がクラクラしていくけど、それとはまた別に何かが高揚していく感じがした。
とっさに掴んだ義勇さんの腕は逞しくて、それだけのことなのに愛しくなる。

「…ん、んっ」

一度離れた口唇は角度を変えて、何度も何度も深くなった。
息苦しいのに、その激しさが嬉しくて、このままどうにかなっちゃえばいいのにって本気で思う。

やっぱり、義勇さんのことが好き。

大好き。

広い背中に回そうとした手は、届く前に口唇が離れたから、そのまま行き場がなくなった。

「…はっ…」

お陰で息はできるようになったけど、でも今義勇さん、急いで離れたような気が……

「悪い。見られた」
「……え?」

少しだけ目を窄めたあと、急ぎめに車を降りようとする理由がガラス越しに見えた母親だと知った瞬間、血の気が引いた。
確実に目が合ったのに、さっと逸らすと家の中に入っていく姿を追いかけようとする義勇さんを止める。

「いいです!大丈夫!」
「せめて一言くらい掛けないとまずい」
「ううん!やめた方がいい!」

焦りから強い口調になっちゃったけど、とにかく今は会わない方が賢明だってわかる。

「気にしないでください!母親には私から言っておくから」
「……。大丈夫なのか?」

心配、してくれてるんだろうな。私が叱られるんじゃないかって。

「大丈夫!それにちゃんと義勇さんは挨拶してるんだし、悪いことなんかしてないですもん!」

そう、ちゃんと正々堂々、面と向かって付き合ってるって報告したんだから、とやかく言われる筋合いはない。
母親もそれがわかってるから、知らん顔して家に入ったんだろうし。

笑ってみせたから少し安心したみたいで、降りようとしてる力が抜けた。
だから私も掴んでた腕を離す。

「何かあったら連絡をくれ。すぐに繋がるようにしておく」
「了解ですっ」

一瞬、大丈夫って言いかけたのを呑み込んだのは正解だったと思う。
ここで心配かけちゃいけないから素直に頷いて、この話はとにかく終わりにする。

「あ、義勇さん、時間っ!」
「本当に大丈夫か?」
「大丈夫ですっ!開店間に合わなくなっちゃうから降りますね!送ってくれてありがとうございました!」

少し強引に閉めたドアのあと、頭を下げて手を振った。
こうしないと義勇さん、いつまで経ってもここに残っちゃいそうだから。

腑に落ちないって顔をしながらも、開けられた助手席の窓。

「あとで電話する」
「わかりましたっ」

頷いたあと笑顔で手を振り続けて、ようやく発進した車が見えなくなってから、大きめな溜め息が零れた。


Drink at Bar Calm


「ただいま」

さっきとは打って変わって、わかりやすく下がったテンションで扉を開ける。
当たり前にそこには誰も待ってないから別に言わなくてもいいんだけど、何となくの癖。
買い物袋持ってたから多分、母親はリビングの方なんだけど、行くか行かまいかを悩んだ。
でもこういうのって早めに終わらせちゃった方がいい気がする。夕飯の時にぐずぐず言われたらせっかくのご飯の味も台無しだし。

「ただいま…」

だから台所まで顔を出したのに、冷蔵庫に食材をしまう母親から返ってくるのは
「おかえり」
その一言だけで、こちらに見向きもしない。
絶対、顔を見た瞬間に突っかかってくると思ったのに。

「……何?」
ずっと見てたからか、やっと向けられた顔。
「何って…何も言わないの?」
「何か言ってほしいの?」
「別に……」

言ってきたら返そうって構えてたから、何も言われないならそれでいっか。
あ、でも義勇さんが挨拶しようとしてたのはちゃんと

「酒くさっ!昼間から呑まされたの?」

あ、もうこれは完全にダメなやつだなって、言い方でわかった。義勇さんの印象は、さっきので地に落ちてる。

「呑まされたんじゃなくて呑ませてくれたの!いつも私が酔わないようにしてるから、今日は呑んでいいって言ってくれたんだよ!」
「……あっそ」

そうやって言い捨てると、どこかに行こうとする態度にムッとした。

「本当は何か言いたいことあるんじゃないの?」
「別に?昨日お母さん言ったでしょ?好きにすればって」
いっつもそうやって突き放してくるの、何で嫌いなのかわかった。
「そんなこと、思ってないくせに……」
「何?反論するならちゃんと聞こえるように言いなさいよ」
呆れたような表情もやだ。だって結局のところ

「好きにすればいいなんて思ってないくせにって言ったの!」

本当にそう思ってたならさっき義勇さんと鉢合わせた時、気まずくても会釈くらいはしてる。
それも完全に無視したのは、怒ってるっていう何よりの証拠。
だから義勇さんが声をかけようとしたのを止めた。下手に顔を合わせた瞬間、何を言われるか、わかったものじゃないから。

「気に入らないなら気に入らないってはっきり言えば?そうやって態度に出さないでさぁ!」
「別に気に入らないとは思ってないよ。ただあんま周りが見えなくなるくらい浮かれてると「浮かれちゃダメなの!?」」

あぁ、何だろう、涙が出そう。何で私、こんなに怒ってるんだろう。

「好きな人と付き合って…付き合えて、一緒に過ごして、幸せだなって思うのはダメなことなの!?何でこんな…っなんにも自由にできないの…!?」

私だけ、なんて思いたくなかった。悲劇のヒロインじゃないし。
でも、もう正直限界。

帰りの車の中でキスなんて、そんなのみんなしてる。なんならそれ以上のことだってしてるよ。高校生の頃、そんな話してるの聞いたこともある。
経験がない子なんて、もう私の周りには誰もいない。

「ちゃんと紹介したじゃん!今日だってちゃんと帰ってきたじゃん!お母さんの機嫌損ねないようにしてるんだよ!?すっごい気を遣ってくれてるんだよ!?何がそんなにダメなの!?」

泣きたくないから必死に我慢したけど、睨んだ瞬間にボタボタ零れてて、それにもムカつく。
何で幸せな気分に浸らせてくれないんだろう。何で何も悪いことしてないのに、こんなに不自由なんだろう。

「そうやってすぐ感情的になるからだよ」

すごく冷静に言われたその台詞に、心が潰れた音がした。

「本当に好きで一緒にいたいなら、お母さんがどんな態度してようが気にしなきゃいいでしょ?それを何でそんな突っかかってくるの?」
「突っかかってきてるのはそっちじゃん!」
「はぁ?お母さん何も言ってないけど?アンタ酔ってんじゃないの?」
「酔ってるよ!」
「酔い覚ましてから出直しておいで。今話し合ったって無駄だから」

シッシッと払う右手がぼやけて見えて、軽く扱われてるのにも涙が出てくる。
「…っうぅ」
悔しくて言い返したいのに、勝手に出てくる嗚咽に口を噛んだ。

「何してんの2人共……」

いきなり現れた妹に、顔を隠すけど、
「お姉ちゃんの怒鳴り声、外まで聞こえてたよ?」
思いっ切り呆れた声にも悔しくなる。

「ちょうど良かった。この子連れてってくんない?」
「……。あー、うん。行こ?」

気を遣われてるって、珍しく優しい声色と、そっと引かれた手で感じた。

階段を上がる間も、部屋に入った後も、嗚咽が止まらなくて、
「座りなよ……」
その声でやっと足の力が抜けたような気がする。

「はい、ティッシュ」
「…あ゛りがど」
「声やば」

笑われてるはずなのに、それがなんか安心したのは、妹の気持ちが伝わってきたのもあると思う。
とにかく詰まりに詰まった鼻をどうにかしようと思いっ切り噛んだら、少し落ち着いた。
でもすぐには涙は引っこまなくてぐずぐずしてる私に、妹はただティッシュを寄越し続けて、こういうところお母さんに似てるって考える。

私は、結局喚き散らしただけ。

言いたいことの半分も言えなかった。

本当は、好きにすればって言うなら態度にも出さないで、とか、義勇さんのこと勘違いして印象が悪くなったなら誤解を解くからちゃんと話して、とか、もしお母さんの言う通りの結果になっても後悔しないようにしたい、とか、そういう具体的なことをちゃんと言いたかったし、言うつもりだった。

言えると、思ったんだ。

でも結果がこれ。

「そうやってすぐ感情的になるからだよ」

吐き捨てられた意味を、今すごく痛感してる。

支離滅裂で感情ばっか先行した主張なんて、いくら叫んだって誰にも響かないし届かない。

世の中は、私ひとりのために回ってるわけじゃないから、優しく聞いてくれる人なんていなければ、わざわざそれを噛み砕いてわかりやすく訳してくれる人もいない。

こんなので、もし義勇さんと、どこかで何かの問題にぶつかった時、解決なんてできるわけもない。

母親が言いたかったのは、そういうことだったんだ。

悔しいけど、正直何も反論できない。

「……はぁ」

重い溜め息は出たけど、涙は止まった。

「お姉ちゃんさ」

まるでタイミングを窺ってたように話しかけられて、返事しようとしたけどまだ上手く声が出そうになくて、顔を上げてみる。

「お母さんのお母さんに会ったことってある?」

突然の質問に、意味を考えてしまってちょっと間が大きくなってしまった。

「ない」
「だよね」
「それが…なに?」

前から放任主義だったからそんなに仲良くなかったって聞いてたし、特別気にもしてなかったけど。

「お姉ちゃんさ」
「なに?」
「お母さん達が結婚式挙げてないのって知ってる?」
「……え?知らない」
「やっぱ知らないよね」
「挙げてないの?アルバムにお母さんウェディングドレス着てる写真なかった?」
「それね、スタジオで写真だけ撮ったんだって」
「……へー、知らなかった」

だからあんなに結婚式にこだわったってこと?でも自分達ができなかったからって

「お母さんさ」

なに?って、つい脊髄反射で言いかけたのは止めた。

「駆け落ちに近いことして結婚したんだって。お父さんと」

随分と長い間、妹の顔を見つめてたと思う。

「は?」

何それ。そんなの聞いてない。え?だって普通に職場恋愛で結婚とかそんな感じのこと言ってた気がするんだけど。
それにお父さんの方のおばあちゃん達には今まで普通に会ってるし、お母さんの方の伯母さんと叔母さんにも会ったことある。

「反対してたのはお母さんのお母さんだけだったから、そこまでじゃないんだけど、お父さんと結婚してから一度も会ってないって言ってたよ」
「なんでそんなことアンタが知ってるの?」
「訊いたから」
「なんて?」
「なんで結婚式の写真ないの?って。そしたら教えてくれた」
「それいつ?」
「えー?何年前だろ?」

覚えてないって肩を竦める姿に、そんな前から知ってたことに愕然とした。

「え?なんでそれ……、なんで教えてくれなかったの?」
「わざわざ言うなって言われてたから。それより反対されてた理由知りたくないの?」
「知りたい、けど」

何か少し、怖い。それを知ったら、私の今の状況すらも納得してしまいそうな自分がいて。

「デキ婚なんだって。お母さん達」

は?って声にも出なかった。

「何それ。嫌ってたじゃん。デキ婚」

すごい冷たい口調で言ってしまった。でもだって、そうだよ。テレビで芸能人とかのそういうニュース見るとちくちく小言挟んでたもん。しかも最後にはアンタ達はこうならないでねって必ず言ってた。

「自分が苦労したからじゃないの?」
「苦労したから子供に押し付けるの?」

は?ほんとに、は?としか言えない。

今までの私ってなんだったの?

同じ三姉妹の真ん中って立場で自己投影したみたいに雁字搦めにして、普通がいい普通でいいって口癖のように押し付けて。
それは母親が通ってきた"普通"が一番なんだって、そういう経験と確信があったからだと思ってたし、実際、そうだって納得したのもあったから、ある程度大人しく従ってきた。

それが何?

普通がいいって言ってたのは、自分が普通じゃなかったから。
私を型に嵌めようとするのは、自分が型に嵌れなかったから。

なんで?

なんで私が母親の人生のやり直しみたいなことさせられるの?

なんで私が母親の満足のために犠牲にならなきゃいけないの?

「この家、出てく」

初めて口にしたその言葉は今までないくらい、すごく冷静に言えた。

「お姉ちゃんちょっと落ち着きなよ…!」
「落ち着いてるよ」

落ち着いてる。
なんならもう、すごく思考が冴え渡ってる気さえする。
ムカつくとかそんな感情もない。

ただ、虚しい。

「家出なんかしたらますます立場悪くなるよ?」
「わかってる。飛び出したりなんかしないよ。ちゃんと出ていくの。この家を」
「お姉ちゃん、お母さんはさ」
「お母さんには言わないで。邪魔したら許さないから」
キツくなってしまった言い方に、息を吐いた。
「……。ごめん、ちょっと今はひとりにして」
「……うん」

静かに出て行く背中に、悪いことをした自覚はある。
だけど、気遣ってる余裕も説得を聞く余裕も、全然ない。
妹もそれを察してくれたから、大人しく出ていったんだと思う。
ごめんねって心の中で呟いてから、タブレットと電子ノートを引っ張り出した。

まずは家賃相場を調べてみて、考えよう。
会社とCalmの最寄り駅が理想だけど、現実的に難しければ周辺の駅を探す。今と同じくらいの距離なら駅と離れてても許容範囲に入れて大丈夫。
そしたら初期費用がだいたいどれくらいになるのか試算して、月々に掛かる必要経費とかもおおよそでいいから出してみる。

そしたら次は―…

夢中で調べてはメモをしてたから時間が経つのも忘れてて、我に返ったのはスマホが音を立てた時だった。

表示される名前に、一瞬にして泣きたくなる。
でも息を吸って吐いて笑顔を作った。

「もしもしっ」
『大丈夫か?』

まだ営業時間なのに、心配してくれたんだなっていうのがすごく伝わってきて、笑顔が深くなる。

「大丈夫ですっ」

それは、強がりじゃない。ほんとに大丈夫。

『母親に何か言われただろう?』
「あー、はい。でも全然、気にしないでください」
『鼻声になってる』

さすが、だなぁって思ったら、また笑ってしまった。

「義勇さん」

本当は、言わないでおこうと思ったんだけど、そういう隠しごととか、やっぱり私には向いてないって実感する。

「家を出ることに決めました」

少し作られた沈黙の間に、書き殴った家賃相場に視線を落とした。

「あ!一緒に住まわせてくれってわけじゃなくてですね!ちゃんと一人で暮らししてみようかなって思って!」

そこだけは勘違いされたくなくて慌てて付け加えたけど、
『一緒に住みたくないのか?』
その質問にうって言葉に詰まる。
そう言われちゃうと
「……住みたい、です」
それしか返せない。
『物件を探しておく』
「でも」
この先に繋がる言葉は全部本音じゃなくて強がりだなって思って呑み込んだ。
「本当に、いいんですか?」
『俺にとってはちょうどいい好機だ』

正直、言われるかと思った。家族を大事にしろ、みたいなこと。
義勇さんにとって、今は"無い"ものだから尚更。
それでも何も訊いてこないのは、優しさなんだろうな。

本当にあったかい止まり木みたいで、甘えたくなってしまう。

「…お店、大丈夫ですか?」
『今日はそこまでじゃない。村田ひとりでも回せるくらいだ』
言ってるそばから『冨岡〜!オーダー詰まってる〜!』って聞こえてきて思わず笑ってしまった。
「切りますね」
今はこれ以上、迷惑も負担もかけたくない。
『名前っ』
でも少し焦ったように呼ぶ声に、離しかけた耳へもう一度スマホを当てる。

『今、どうしたい?』

卑怯だなって、思った。その質問。
だって、義勇さんが好きなのは"嘘のない私"で、そしたらもう―…

「……会いたい、です…っ」

気が付いたら目の前が滲んでた。

「義勇さんに…っ会いたい!」

本当にもう、今すぐ会いたくて仕方ない。
でも、そんなこと無理だっていうのもわかってる。
だからせめて明日、仕事が終わったらCalmに行っていいですか?って、そう言うべきなのもわかってる。

「…会いたい、よぉ…っ」

だけど、込み上げてくる想いが止まらない。

さっき会ったばっかなのに、明日にもきっと会えるのに、声を聞いてしまったら、優しさに触れてしまったら、もう我慢なんてできない。

泣きじゃくってるってわかっていても、もう全然自分の意思じゃ止められない。

耳元で何か言ってるのも理解できなくて、

『聞いてるか!?』

強い口調にとっさに吸った息で、呼吸をするのを忘れてたのに気付いた。

『今から村田を迎えに行かせる』

そんなの、いいのかなってどこか冷静に考えるけど、ただ黙って頷く。息を吸うことが精一杯で声が出ない。

『わかったらスマホを叩いてくれ』

冷静な声を聞いてから、ようやく鎮まり始めた呼吸を感じながら軽くそこを叩いた指先が震えてるのを知った。

「バーマ…さ」
『声は出せるようになったか…』

ホッとしてるのが機械越しでも伝わってきて、何で今、私こんなに死にそうなくらい苦しかったんだろうっていうのも疑問になる。

「バーマンさん、あの…でもやっぱり」
『一度切るが、息苦しいと思ったらすぐに連絡しろ』
「…え、あ、はい」

プツ、と切れた音に、一瞬だけさっきの息苦しさが沸き上がったけど、大きく息を吸って何とか耐えた。

荷物を準備、しなくちゃ。

本格的に出て行くためのじゃなくて、簡易的なもの。

「家出なんかしたらますます立場悪くなるよ?」

思い出した声に、ますますってことはもう既に立場なんてないんだって思ったら、乾いた笑いが出た。

そしたらもう、ここに居場所はいらない。

ずっと考えてた。私は、誰のためにここに居るんだろうって。

有難いと思ってるし、感謝はしてる。
友達とか、会社の人とか、話すたびに実感してた。私は"普通"に、幸せな環境なんだろうなって。
だから少しくらいの不自由とか、これは納得できないっていうのも、呑み込んできた。

言う通りにすれば、お母さんは喜んでくれるから。

"普通"がいいって望まれて、それで幸せになれるならそれでいいんだって、考えることをやめてたんだと思う。

だけどもう、そんな受動的じゃいられない。

"普通"でいることが、義勇さんの傍にいられないことなら、そんな"普通"なんて捨ててやる。

荷物を詰めながら、また止めていた息に気付いて意識して吸った。

勢いだけじゃ結局全部失っちゃうから、考える。

何があっても会社は休めない。だから荷物も仕事に必要なものを重点に選ぼう。

綺麗に畳まれた洗濯ものを見て、私が出ていったら、お母さんどうするのかな?なんて、余計なことを考えたせいで、震えてくる指先をどうにか動かした。

本当は、怖い。

こんなことしなくてもいいんじゃないの?って、思ってる私もいる。

とりあえず今日のところは大人しく寝てしまって、明日どうにかすれば?って。
でも、それはもう、逃げだ。子供の頃から染み付いた逃げ癖。
傷付かない無難な道を尤もらしい理由をつけて選んできたから、そうなった。

音を立てるスマホに大袈裟なくらい身体が震えたけど、
"村田が着いた"
その文に部屋を出る。

運悪く鉢合わせた母親がちょっと驚いてるのは見ないようにして、玄関から飛び出した。

「乗って!」

村田さんの声に、ドアを開けた勢いのまま乗り込む。
すぐに発進させてくれたから、そのあと母親が追い掛けてきたかまではわからない。

「俺これ誘拐とかならないよね…?大丈夫なのか〜…冨岡ぁ…」

それでも独り言を言っては小さく震えてる後頭部には、ごめんなさい、と心の中で呟いた。


移動距離は変わらないはずなのに、どうしてかすごく長く感じて、途中、何度も過ぎる不安は、景色を眺めることで誤魔化し続けてようやく着いたCalm。

地下の階段を一緒に降りた村田さんは、突然
「じゃあ、俺はここで」
って帰ろうとするから、ビックリした。
「え!?村田さんも入らないんですか!?」
「いやぁ、ここまででいいって言われてるし。あ、冨岡は中にいるから安心して!」
じゃあ、とそそくさと向けられた背に
「ありがとうございました!」
見えてないのは知ってるけど、深く頭を下げた。

私、結局いろんな人に迷惑かけてるんだって、自覚した瞬間に重くなる心は、凭れかかるように扉へ預ける。
響く鐘の音が無性に愛しく感じたけど、他にお客さんがいるだろうって気は引き締めた。

「……あれ?」

でも予想とは違う光景に、声が出てしまった。

日曜の、まだ日を跨いでない時間に、お客さんが誰もいないのは珍しいどころじゃない。

「来たか」

しかもカウンターの外、私がいつも座ってる定位置に腰かけてる義勇さんも。

「……あの」
「店じまいした」
「え!?いいんですか!?」
「いい」

ロックグラスを傾ける右手の隙間から見えたのは、透明な液体の中に沈んだライム。
カクテル、なのかな?

「何呑んでるんですか?」
「カミカゼ」
「かみかぜ……」

そういえばこの間錆兎さんが頼んでたっけって思った時には、革靴が音を立てていて、引き寄せられた腕に身を任せた。

「こんな時までカクテルが気になるのか」

ごめんなさいって、言おうとした時には頭の上から笑い声がして、なんだかすごく安心してる。

抱き締めてくれる力とか、匂いとか、あったかさとか、全部が嬉しくて愛おしい。

「義勇さん」
「ん?」
「大好きっ…」

広い背中を包めるまでの腕はないけど、これでもかってくらいに伸ばした。
気持ちがちゃんと伝わるように。

「俺も、好きだ」

頭に落ちてきたキスは優しいけど、少しくすぐったくて思わず笑顔が零れた。


Kamikaze
あなたを救う




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