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両の手があって、双脚がある。
それらを自分の意思で動かし、音を聞き匂いを嗅ぐ。
そして眼前に広がる風景を見る。

それは、当たり前のことだった。

少なくとも"俺の中"ではできるというのは当然で、今の今までそれらを特別として意識したことも、深く考察をしたこともなくこれまでを過ごしていた。


カツカツと地面を鳴らして、真っ直ぐ迷いなく近付いてくる、彼女に出逢うまでは。


「わぁっ!」

驚きの声を聞いたのは、身体が衝突したのと同時だった。

「……ごめんっなさいごめんなさい!!怪我ないですか!?」

早口でそう言いながらもよろけては今にも崩れ落ちそうになるものだから、その腕を支えれば手の先に持つ杖に気が付く。
真っ白のそれは俺が支える間にも、空間を探るように小刻みに動いていた。

その人物が目が見えないのだと確証を得たのは、ひとまずその身体を立たせた時。

「……あ、ありがとうございます」

深く下げてから上げたその顔は、完全に両目を瞑っていた。

「……悪い。下を向いていたせいで気が付かなかった」
「いえ〜、私こそ気付かなくてすいません」
「それは、当然だと思うが…」

垂直に持ち直した杖へと自然と目が向く。

本来なら接触する前にその先端に俺の足が当たるはずだ。
しかし角度が逸れたのか、互いに思い切り衝突するまで存在を認知できなかった。
どちらに非があるか問えば、考えるまでもなく進行方向を見ていなかった俺だろう。

「これでも音とかで誰かが近付いてくるかくらいはわかるんですよ?」

閉じられた両目が開くことはないが、顔はしっかりと真っ直ぐこちらに向けられてその信憑性を感じる。

「でも何でだろう?今のはわからなかったなぁ。気配しなかったし」

暫く考えたあとで「変なの」と笑う表情が、随分と幼く見えたのは気のせいじゃない。

約1ヶ月後、キメツ学園の制服に身を包み入学してきた彼女に、

「……お前は」

そう一言発した俺にあの時と同じ笑顔を見せて、

「あー!全然!存在感ない人だ!」

そう大声で言うものだから、宇髄には爆笑され、煉獄には慰められた。

彼女の名は、苗字名前。

視覚障害で最も重い、生まれつきの全盲だという。

何故中高一貫のこの学園に、16歳から来たのか。

俺から問うまでもなく、それは職員会議で説明をされた。

「様々なハンデを抱えた方々への支援、そして差別意識の意識化を図りたいというのが目的です」

淡々と説明をする校長に皆が黙って耳を傾け、そして納得をした。

あくまで教育委員会から"試験的な導入"とされたその制度に、何故彼女が選ばれたかといえばその姿勢から垣間見えた向上心だったという。

中学までは障碍に理解も知識もある手厚い支援学校に通っていた彼女も、いつだか気が付いたそうだ。

目が見えないことは不便ではあるが、人にお膳立てをして貰わなくては何もできないほど盲人は非力ではない、と。

そうして芽生えたのは自立心。

"普通の高校生として、普通のことをしたい"

その切実とも言える志望動機が校長、そして理事長の心を動かし、ついには実現までに至った。

「しかしこれがゴールではないことは、皆さん留意しておいてください」

そう告げた校長は、その先の未来を的確に想定していたのだろう。

いわゆる健常者である、特に保護者からくる苦情、無知ゆえに起こる生徒達の差別、そして困惑はしばらく怒涛の如く続き、目が見えない彼女が望む"普通"は、誰かの犠牲の上に成り立つものだというのが、皮肉にも顕著になっていった。

キメツ学園自体に支援体制が整っていなかったのが大きな要因として立ちはだかり、徐々に徐々に、その現実は彼女に重くのしかかるようになる。

俺がそれを知ったのは偶然にも学園に向かう途中、白杖で地面を確かめながら進んだ先で止まる背中を見つけた時。

最初に出逢った時とは違い点字ブロックの上で、途方に暮れているのはすぐにわかった。

その先を塞ぐように停められた自転車がはっきりと見えたからだ。

しかし彼女は立ち塞がるものが何かまでを当然知らない。

「……あれ?」

カツカツと先を動かして確かめるも、それがタイヤに何度も触れ先に進むことができない。
焦った様子で真横を向いて歩き出そうとするその先は、車が行き交う道路だった。

「待て」

咄嗟に掴んだ腕に、ビクッと身体が大きく震えるのも構わずそれを引く。

「こっちだ」
「……あ、冨岡先生!おはようございます!」

安心したように笑う彼女を顰めた目で見たのは無意識だった。

「……怒ってます?」

途端にかけられた一言に、表情を柔らかくするよう努める。

「車道に向かおうとしていた」
「……嘘!?」
「本当だ」

俺が止めていなかったら、確実にそこに飛び出していただろう。

「せめて学園の往復くらい身内に頼めないのか?」

現実を考えた発問は、その顔を曇らせた。

「すいません。何度も練習したから慣れたつもりでいたんだけど……」

誘導している間にもカツカツと動く杖の先に注視していたせいで、閉じられた瞳から零れ落ちる涙に気が付くまで時間がかかった。

「……何故、泣く?」

腕を強引に引いたわけでも、ましてや校則を破った生徒を叱るが如く声を荒げたわけでもない。

困惑する俺をよそに、彼女は更に嗚咽を強くした。

「私、迷惑、かけてますよね。色んな人に……」

その言葉の意味を改めて何故かと、わかりきっているのに問い掛けたくなった。

「自分が望んだことだろう」

咄嗟に出た言葉は意図せずその涙を誘っていく。

「……っふ…うえ…っ」

ついにはそのまま立ち止まったものだから、腕を離さざるを得なかった。

「……別に責めてるわけじゃない」

小さく呟いた言葉は紛れもない本音ではある。

"普通"を望む彼女に、俺はできうる限り他の生徒と同じように接してきたつもりだ。

だからこの時も"特別扱い"はしなかった。

「迷惑をかけない人間も、かけられない人間もいないと聞く。だから、それは特別なことじゃない。目が見えようと見えまいとそうだ」

泣きじゃくっていたその耳に正確な意味で届いていたかはわからない。

それでもこの時、俺に言えることといえばそれだけだった。


約束。


「懐かしいですね〜」

変わらず目蓋を閉じた横顔が、どことなく清々しく見えたのは気のせいか。

開け放たれた窓から流れてくる風が1枚の花びらを連れてきた。

例年なら今の時季、まだほとんどが蕾のままのその桜色は数えられるほどだが点在している。

青天に映えるその景色も、本人には見えていないだろう。

「3年間、ものすごーくお世話になりました!ごめんなさい、たっくさん迷惑かけちゃって!」

白杖をつき、こちらへ向いたと思えば勢い良く下げられる頭に、初めて会った時を重ねたのは、さっきまでの思い出話が原因だろうか。

「……そうだな」
「そんなことないとか言わないんだ……」

苦笑いに近い表情は、もう見慣れたような気もする。

「その迷惑をかけられた3年で、苗字が自分の行く末を見つけられたなら有意義だった。充分な成果といえる」
「……ふうん、そっか」

そう答えながらも首を傾けている辺り、理解はしていないだろう。

「ってことは、少しは冨岡先生の役に立てた?」

思わず口角が上がったのは、見えていないという気の弛みかもしれない。

「いい、経験にはなった。教師として」

思い返すとどうしてか。

楽しかった。

その一言に尽きる。

キメツ学園に盲人を支援する体制自体はなくても、同じ境遇の悲鳴嶼先生がいる。
だから俺は、どこか楽観的に考えているところがあった。

それでも蓋を開ければ、何故かこの生徒は俺にばかり助けを求めてくるようになっていた。

学園内での健常者とのズレは予想以上に大きく、通常の授業には半分ほどしかついていけない苗字は赤点、追試が常で、特に数学では不死川に毎回しごかれ、都度俺が両者の間に立たされた。

不死川にしてみれば、それもあくまで"公平を期する"ための行動だったのだろう。

「シナセン怖いからやだ。すぐ怒るし鬼みたい」

しっかりと俺の背中に隠れながら言うものだから何故か代わりに怒鳴られるのも、1年もしないうちに定番と化していた。

「きっと苗字さんに頼られてるのね。冨岡先生」

そう言って微笑んだのは胡蝶先生だったが、当の俺が受け持つ体育は常に見学の一択だった。

形だけジャージを身に纏うが、皆が思い思いに身体を動かす姿は見えていないにしても、毎回膝を抱えてはそこにいるだけの時間はどれだけつまらないものだっただろうか。

それでも"特別扱い"をしなかったのは、それが本人の望むものじゃないと知っていたからだ。

しかしせめてと、授業が終わってからその手を誘導して走るたかが校庭一周に息を切らしながら、

「やっば、速っ!楽しいっ!」

破顔一笑したのは、色濃く記憶として残っている。

そこまで遡ってから、また気付く。

俺にとって残る映像としての記憶は、苗字の中に存在していないことを。

「……お前は」

そう声を掛けたことで顔を上げる動作で、聞いているということはわかる。

俺にとって簡単に知覚できる機微は、苗字にとっては難しいのだと改めて思い知った。

「ここに来て良かったか?」

まるで答え合わせをしようとしているようだった。

俺は、間違っていなかったのだと思いたいが故の。

「良かったです!」

だからこそすぐに返ってきた言葉に、嬉しさよりも胸が軋む音がした。

「……そうか」

思わず伏せた目も、その目には見えないからこその動作だという自覚もある。

「冨岡先生のおかげで夢を見つけられたから」

カツカツと音を立て地面を叩く杖先で、こちらに向かってこようとするのが予想できた。

「……それは、良かったな」

キメツ学園の卒業を経て、教職員への道を志す。

苗字の進路希望を初めて訊ねた時から、それは今まで一度も揺るがなかった。

そしてその夢はこの春から、現実として動き出す。

感慨深いものはあって当然だろう。教師なのだから。

そんなことを考えていたせいで、次にカツッと小さく杖先が鳴ったのは俺の背後だった。

「……苗字」

視線を落とした先、すぐ目の前にいる存在に上擦りそうになる声は何とか抑える。

「これ以上進むと俺にぶつかる」

あくまで冷静に諭したつもりが、

「知ってますよ。だから止まってます」

あっけらかんと放たれる言葉に目を細めた。

「目が見えないから、わかることって多いんです実は。ちゃんと言ってなかったけど」

伸びてきた手が、少し迷いながら俺の頬へ触れる。

「先生、綺麗な顔してる」

閉じられた瞳はそのまま笑顔を作るから、避けようとする動作が止まった。

「…何故、そうだと?」
「視覚以外で感じるから」

温度の低い指先が小鼻に触れたあと、目へと移って思わず目を閉じる。

「ほら、やっぱり鼻も高いし睫毛も長い。予想通りだ」

歯を見せて笑うその姿は、ほんの少し大人びた。そんな気がした。

「人の顔で遊ぶな」
「あ、バレた?」
「ふざけてないでもう帰れ。あまり遅くなると親が心配する」
「はーい」

離れていく手に安堵したのも束の間、今度は首に下げた笛を触るものだから眉を寄せる。

「明日からこの笛の音も聞けなくなっちゃうのかぁ」

寂し気に見えたのは、少なからず環境の変化についての戸惑いと、感傷というものに浸っているからだろう。

「そうだな」
「吹いてみていい?」
「駄目だ」
「ちぇ」

尖らせた口は、すぐに柔らかな笑みに変わる。

「先生」
「何だ?」

次にどんな台詞を聞こうが、平静でいられる自信はあった。
基本的に苗字は俺のことをからかい、ふざけたがる。それがわかっていたためだ。

しかし、

「先生って、私のこと好きでしょ?」

突然すぎる発問には、一瞬息を呑みかけた。

「生徒を好き嫌いで判断したことはない」

咄嗟に出した答えは、存外尤もらしいものだと自分で思う。

例えば今ここで頷けたら、どんなに楽なのだろうか。

そんな"もしも"を考え始める思考は無理矢理止めた。

「私は先生のこと好きですよ?」
「それは一種の憧憬だろう。顔を合わせなくなればすぐに薄れる」
「むー。違うのに」

不満そうに口を尖らせるその幼さを再認識したところで、未だ笛を持ち続ける手へと触れる。

「だが、もし……」

きっと苗字は知らないだろう。

その指先が震えていて、その理由を俺が気が付いていることに。

「もしもそれでも、薄れなかったら」

言い掛けた言葉を塞ぐように頭へと口付けた。

「……え?」

ポカンとした表情に、敢えて涼しい顔で返す。

「桜の花びらだ。頭についていた」
「え!?どこ!?」
「もう取った」

懸命に頭を振る仕草には、思わず口角が上がっていった。

「ありがとうござ……あ、じゃなくて、さっきの続きは!?」
「何のだ?」
「え!?嘘!先生もう忘れてる!?」

この様子では、俺が髪にキスしたことも知覚していないんだろう。

言葉の先が紡がれなかったことだけを気になるようだった。

隠し切れていない狼狽が笑いを誘うも、それ以上は抑えてから続ける。

「今日はここまでだ」

動揺から咄嗟に笛から離された手を取れば、さきほどより温度が増していた。

「……え?」
「続きが聞きたいなら、また自分の意思で来い」

最後まで貫いた教師と生徒という決して相容れない立場も、明日になれば意味を成さなくなる。

それを理解した瞬間、

「じゃあまた明日来ますっ!」

嬉々として破顔していく変わらぬ幼さには心配にもなった。

「明日は在校生の通常授業だ」
「え〜?じゃあ明後日?」
「明後日もそうだ」

沈黙が流れてから、少しばかり厳しい口調だったことを後悔する。

「春季休業ならまだ構ってやれる時間がある」
「……。春休み?」
「そうだ」
「じゃあ春休み来ますね!楽しみ〜!」

嬉しさを全身で表す姿に、また心配は募っていく。

「だからといって車道には飛び出すな」
「わかってるってば!先生こそ体育館の鍵失くしてシナセンに怒られないようにね!」

痛い所を突かれて押し黙れば、

「じゃあまたっ!」

弾む声で教室を後にする背中を見送った。

カツカツと杖を叩く音が完全に遠ざかってからぬくもりを覚えてる手で、口唇へ触れる。

ふと落とした視線の先、その身に触れることなく地面に落ちたままの花びらに今は多少の感謝をしていた。

勝手に込み上げていく想いを、今度会えた時は伝えられるだろうか。

「……また、か」

上がっていく口元を指先で触れながら、その言葉を噛み締めていた。



また明日 また明日
僕とあなたの約束にしよう
また明日 また会いたい
あなただけの意味になればいい


SUPER BEAVER
"約束。"より抄出


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