先輩 01


“女の子に優しく”
 その言葉は、飯綱が物心つく前から親に言われていた言葉だった。特に父親が強く言い聞かせてきた。どうして女の子だけ?と飯綱は首を捻っていたが、次第にその現実に気付くことになる。しばらく電車が乗れなくなった姉、学校へ好きな服装をしなくなった妹。ふたりを傷付けた大人も、子どもも、きっと思ってもいないのだろう。どこまで二人を追い詰めて、どれほどの影響を与えたのか。
 父親が過剰なほど言い聞かせた“女の子に優しく”は、過剰で丁度良かったのだ。飯綱が加害者にならないため、女の子を守るため、父親は両方守りたかったのだと思う。父親の真意をちゃんと気付ける聡い飯綱は、今日も“女の子に優しく”を守って過ごしている。
 その所為で、同年代の男子に揶揄われることもあった。揶揄ってくる男子の行動や考え方が、心底ナゾだった。だったけれど、フタを開ければ、くだらない理由だった。
 “女(女の子)に負けたくない”たったそれだけの理由だ。

「飯綱掌です。よろしく」
「よろしくお願いします……」
 今からおよそ、一年前。彼女と飯綱が知り合ったばかりの頃の話。ニコッと優しく笑う飯綱を見上げて、彼女は控えめに笑い返した。図書委員会の集まりが第一回目で、大まかの説明も終わって、後はこれから一年の週番を決めるだけ。その流れで、彼女にとっての事件が起きた。
 彼女は同級生の女の子や、先輩の女の子が希望だったのに。まさかジャンケンに負けて、先輩……しかも、男の子と組むことになるとは思いもしなかった。別の女の子からすれば、飯綱はアタリだったので、逆に彼女はちょっと羨ましがられていた。しかし、今日飯綱に会ったばかりの彼女はそんなことを知る由もなく、ただただガーンとショックを受けるばかりだった。
「何曜日がいいとかある?」
「いつでも……」
「そっかぁ。じゃあ……」
 飯綱は必要以上に怯えて、見るからに落ち込んでいる彼女を刺激しないように、やさしく声をかけてやる。そんな飯綱の努力も虚しく、彼女はずっと飯綱に引き釣った笑みを浮かべていた。

「飯綱さーん」
「ん、どうした」
「この本の返却お願いしてもいいですか?私だと届かなくて」
「分かった。じゃあ、受付頼むなー」
「はぁい」
 飯綱は彼女から本を受け取って、カウンターから出ていく。何気なく、自然に、なんでもない顔をして。飯綱は彼女に背を向けたところで、つい口元が緩んでしまう。慌てて本で隠して、不審者のレッテルを貼られないように、対策をとる。
 でも、口元が緩んでも仕方ないだろう。警戒心が野生の野良猫といい勝負だった後輩が、やっと懐いてきたのだ。向こうから名前を呼ばれる。その上で、頼られるなんて。
 以前なら、踏み台の上でさらに背伸びをしているところ発見して、飯綱が声をかけ、そこでも遠慮され……とモチャモチャしていた。彼女は飯綱に甘えることが申し訳ないのではなく、飯綱に話しかける機会を減らしたかった。ゆえに、自分で何でも解決しようと無駄に時間がかかっていた。
 その無駄な時間がかかる度に、飯綱が心配して見に来るのだと気付くまで、彼女は飯綱に頼ることが出来なかった。
3
 飯綱は憂鬱な気持ちを抱えて、図書室へ向かっていた。また、あの後輩が野性に戻ってしまったかもしれないと心配になっていたのだ。せっかく一年かけて気を許してくれたのに。
 しかも、アレは完全になー。俺もダメだった。飯綱の脳内に、蘇る目と鼻の先の彼女の顔。自分とは違って、小さく柔い身体。そして、キョウダイとも違う、シャンプーのいい香り。飯綱は顔を手で押さえて、声も無く唸る。ダメだ。良くない。彼女を怖がらせてしまう。好きでもない異性からの、そういう目は恐怖でしかない。
 そもそも、俺も彼女をそんな目で見ていないし、見るつもりもない。そう分かっているのに、どうしようもなく意識してしまった彼女の異性の部分。心と身体は繋がっている。その繋がりは厄介だ。
 飯綱がヴーと唸り声を出そうになったところで、「飯綱さん!」と元気な声が聞こえてきた。
「あ」
「飯綱さん、お疲れさまです!」
 振り返ると、野良猫が二匹。彼女は飯綱に駆け寄ってくると、「こないだはすみませんでした」とぺこり、と頭を下げる。彼女が手に持っている紙袋には、先日飯綱が彼女に貸したカーディガンが入っていた。飯綱は「気にすんな」と笑って、紙袋を受け取って、彼女の後ろへいる佐久早へ視線を向ける。
「佐久早とクラス一緒だっけ……?」
「聖臣くんですか?クラス一緒じゃないですけど……?」
「きよおみくん!?」
 驚く飯綱と、首を傾げる後輩ふたり。彼女があっと気付いて、ポンっと手を打った。
「聖臣くんとは幼馴染なんです」
 ね、と彼女に見上げられて、佐久早は小さく頷いた。佐久早はたまたま図書室に用があった途中で、彼女と出会ったため、一緒に歩いてきただけである。なんなら、ついさっき飯綱と彼女が同じ図書委員だと知ったばかりだった。そんなに自分と彼女が幼馴染であることに驚くか?と佐久早は不思議そうに飯綱を見つめる。
 飯綱は漆黒の瞳に見つめられ、なんとも言えない気持ちになる。先ほどまで、かわいい後輩を邪気な目で見ていたことさえバレそうだ。
「あ、聖臣くんは飯綱さんと同じバレー部だもんね」
「うん」
「……幼馴染って、タッチに出てくる?あの幼馴染?」
「え、あんな甘酸っぱい?関係じゃないですけど、幼馴染です」
「……へ、へえ」
「俺はおっぽに全国大会へ連れてって、って言われたことないですね」
「聖臣くん言われても、困りそう」
「なんで」
「自分で行けよって言いそうじゃん」
「……まあ、それは思う」
 見知らぬ男に警戒しかしない彼女がポンポンと会話をしている。あの、気難しい佐久早と親しげに!そして、飯綱は気付く。いつも拳を作っている小さな手が、ゆるく開かれていることを。聖臣くんと彼女の指先が、佐久早の袖を軽く引っ張る。佐久早は慣れたように、彼女の口元へ耳を寄せる。
「あぁ、飯綱さんそういうとこある」
「ね」
 ふふ、と笑う彼女に、飯綱はハッと我に返る。
「コラコラ、本人の目の前で悪口かぁ?」
「違いますよ。飯綱さんあるある言ってただけです」
 彼女が柔らかくイタズラっぽく笑う。飯綱はホッとして、少し面白くなかった。一年かけて縮めた距離は無くなっていなかった。それと同時に、たった一年の距離を見せつけられてしまった。

あとがき

- ナノ -