後編



「すみません、お待たせしました!」
「ううん、俺も今来たとこだから」

 そう言って、昼神はゆったりと笑う。その笑みを見て、彼女はやっぱり昼神の包容力と色気にメロメロになった。



 彼女の衝撃発言に、昼神は目を丸くして、うーん?と額を押さえた。昼神の情報処理が追い付いていないらしい。昼神は一つ一つ確認をするように、彼女に質問した。

「君は名字名前さん、だよね?」
「は、い、名字です」
「……もしかして、俺たち抜け出したの?」
「えぇ?ちゃんとお店で解散して、その後……ふたりで、ここに来ました」

 昼神の言葉に、彼女は首を傾げる。事実を口にすると、どうしようもない恥ずかしさが彼女を襲った。酔っていたとは言え、欲求に従ってホテルに行きました、とは言い難い。彼女の声は後半小さくなっていった。

「もしかして……昼神さん覚えてないですか?」
「……ごめん、そうみたい」

 昼神の顔色が悪い。精神的な問題なのか?と思ったが、そうではなさそうだった。昼神は額を強く押さえて、眉間のシワを険しくさせる。その表情に、彼女はピンっと来た。元々あまり大きくない声を小さくして、昼神に囁いた。

「昼神さん、二日酔いですか……?」
「……あんまりなったことないんだけど」
「だいじょ……ばないですね」
「うん、すごい頭が痛くて……」

 うぅ、と唸る昼神は、もはや体調不良のように見えた。彼女はベッドからそぉっと下りて、とりあえずキャミソールと下着を素早く身に付けた。どうかこの姿は昼神さんに見られていませんように。備え付けの冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して、グラスへ注ぐ。あと、自分のバックから二日酔いにも効く頭痛薬を取り出すのも忘れずに。

 その間、鏡に映った自分の顔を見て、彼女は悲鳴を上げそうになった。メイク落としてない!やけに視界が良好だと思ったら、コンタクトまで……!彼女はゾッとしたが、昼神の為にも、悲鳴は耐えて、己の肌は犠牲にすることにした。

「昼神さん、お水飲めますか?」
「あっ、ありがとう……ごめんね」
「いえいえ」
「はあ、……やけに美味しく感じるな、この水」

 昼神は少し参ったように、眉を下げて笑う。色気も何もない、困り顔。目尻にできる笑い皺。自分の皺なんて発見したら、イヤー!となってしまうのに。なぜ、こんなにも目の前の大きな男の皺は愛おしく感じてしまうのか。昼神さんギャップすごいな。たぶん、母性がやばい人はこれだけで落ちてしまう。彼女はドキドキする自分と、冷静な自分がいるアンバランスが変な感じだった。

「これ二日酔いに効く頭痛薬です、良かったら」
「……何から何までごめんね、名字さん。
 有り難く使わせて貰うね」
「いえ……すみません、私ちょっとシャワー使っても、だいじょうぶですか?」
「え」
「音とか……」
「あぁ、だいじょうぶ。水分とったら、多少落ち着いたから」

 問題ないよ、と笑う昼神に、彼女も、良かったと笑い返した。



 彼女はホテルに感謝しかなかった。ちゃんとスキンケア系置いてあるホテルで良かった!化粧落としも、洗顔もある!もちろん、化粧水も乳液も!カラッカラのコンタクトはゴミ箱へ。目が悲鳴を上げている。ひとまず目薬をさして、ゆっくりと化粧を落としていく。あー今日はちゃんとケアしないと、後に響くだろうなぁ。

 肌荒れは治りづらい。でも、少しでも生活を乱せば、その結果はすぐに肌に現れる。彼女はそんな繊細なお年頃だった。

 熱いお湯を頭から浴びれば、どんどん目が覚めていく。彼女は昼神のように、両手で顔を覆う。あー、やっちゃった。居酒屋独特の匂いが髪からして、彼女はシュコシュコとシャンプーのポンプをいつもより多めに押した。ホテルだし。髪、身体、顔と綺麗にしていく内に、ここからどうしようかなぁ、と考えて、すぐに答えが出た。

 何もならない。それに尽きる。

「……ひるがみさん、えっちだ」

 その呟きは彼女が身体を拭いているときに、零れたものだった。一見彼女の胸元は何もないように見えた。しかし、胸を持ち上げる様にしてみると、赤い跡がいくつも付けられていた。



 その頃の昼神は、やっぱり頭を抱えていた。記憶を無くしたことも、彼女とこんなスタートを飾ってしまったことも、しかもこんな二日酔いの姿まで晒してしまった。昨日の夜はいい感じだったのに。覚えている記憶の限りは。昼神は情けない姿しか見せていないのに、彼女は優しい気遣いで、昼神に接してくれる。

 彼女の優しさや魅力がいっぱい知れたことは嬉しい。でも、何もこんな形でなくとも、いいだろう。昼神は全ての言葉の後に、かっこマークと、泣をつけたい気分でいっぱいだった。

「昼神さんすごい大人で、どきどきしますね」

 そう言って困ったように、照れたように彼女は笑っていた。その姿が昼神の最後の記憶だった。その言葉に、確か自分は「歳をとってるだけだよ」と笑ったと思う。本当はそんな素直な彼女に、自分もドキッと胸を弾ませたくせに。本音を悟らせないことは昔から得意だった。

「……まだ挽回きくといいけど」



「ブランチですか?」
「そ、ちょっと遅い朝ごはん一緒にどうかな?
 ……というか、お詫びも兼ねて」
「え、お詫びなんて、そんな」

 互いにシャワーを浴びて、後五分で部屋を出なければ行けなかった。彼女は昨日とは打って変わって、さっぱりとした顔つきだった。ベースメイクと眉だけ。ホテルから自宅までも、お肌の大敵、紫外線は存在しているので、仕方ない。彼女の事情を知らない昼神は、すっぴんに近い彼女の顔をまじまじと見つめそうになった。

 やっぱり、俺名字さんのこと好きだなぁ。もっと話したいし、なんなら付き合って、関係を深めるのも有りだと思ってる。でも、彼女は何となく素っ気ない。きっと、俺との関係は今日だけで終わると思ってるんだろうな。いや、終わらせたいって感じだったら、どうしよう。

 遠慮がちに眉を下げる彼女以上に、昼神は眉を下げて、大袈裟に立派な肩を落とした。

「そうだよね、何も覚えてなくて、二日酔いのおっさんとブランチなんてヤダよね」
「そっ、そんな!ぜんぜん!行きたいです!昼神さんとブランチ!ぜひ!」
「ほんと?良かった!じゃあ、待ち合わせは……」

 彼女の了承の言葉に、昼神は一瞬で復活を遂げた。彼女は目を大きくして、昼神を見上げるが、昼神はイタズラっぽく笑うだけだった。

 もう昼神に怖いものはなかった。これだけ情けない姿は見せたのだ。使えるものをは全て使わせて貰う。それが、例え彼女の人の良さの隙を突く形だとしても。



「美味しかったです!本当にご馳走様でした!」
「俺も、名字さんが気に入ってくれて良かった」

 すっかり調子を取り戻した昼神に、彼女は頬を緩める。そんな彼女に、昼神はん?と首を傾げた。ふたりはいい気分で、いい感じの雰囲気で、駅までゆっくりと街頭を歩いていた。

「昼神さんが元気になって良かったなって思って」
「あー……朝は本当にごめんね」
「あ、すみません、そんなつもりじゃなくて」
「ふふ、分かってる。名字さん優しいもんね」

 俺と違って。昼神の心の声は当然彼女に聞こえない。彼女はまたそんなことないです、と謙虚に両手を横に振った。昼神はぶんぶん、と左右に動く自分よりも小さな手を、取りたくて仕方がない。ただ互いにお礼という建前もあるし、何より彼女は距離感を間違えると、引いてしまう子な気がする。よく昨日の自分は、彼女とホテルに行けたなぁと素直に関心してしまうのだ。話している感じ彼女も、普段は昨夜みたいなことはあまり……というか、昨夜がイレギュラーなだけだったらしい。

 なるべく昼神はゆっくりと歩いた。彼女がいつもの歩幅をさらに、小さくしてしまうくらいのスピードで。まだ外は明るい。夕方にもなっていない。これからの予定はまだ決めていない。ふたりとも考えているのに、口にしていない。昼神は最近映画って何やってったっけ、ここら辺見るようなところあったっけ。頭の中はフル回転。話すテンポは彼女がリラックスできるように、ゆっくり。あーどうしよう、駅着いちゃうな。

「昼神さん三兄弟なんですか?多いですね」
「うん、妹と弟」
「えーいいなぁ。きょうだい多いと、うわっ」

 昼神が困り果てたとき、エンジン音が聞こえてきた。そして、目の前で彼女がぐらり、と傾いた。きっと昼神の身長を意識したハイヒールだったろうに。駅も近づいて、彼女も油断したのかもしれない。昼神は彼女の背中を支えるように、腕を伸ばした。

「名字さんだいじょうぶ?」
「は、はい、だいじょうぶです」

 分かってる。これは不可抗力。何の意味もない。それこそ、下心なんて、ない。彼女は抱き締められるように、昼神に引き寄せられて、どうにかなりそうだった。確かに、昼神は覚えていない。でも、彼女は全て覚えているのだ。昼神の深い口付けも、優しくでも、暴くよう動く指先も、腕の中もぬくもりも匂いも、すべて。ハイヒールで不安定だった彼女は昼神の逞しい胸板に鼻をぶつけてしまった。

「危ないな……」

 昼神はスピードが出過ぎた車の後ろ姿を睨んで、視線を下に向ける。小さな旋毛が可愛らしくて、このまま自分の家に持って帰りたくなった。彼女がもぞもぞと顔を上げる。その仕草に既視感を覚えた昼神は、手を勝手に動かしてしまった。彼女の背中を撫で上げるように。

「ひゃっ」

 小さな甘い声。ふたりとも、目を丸くした。急に大きな手に背中を触れられた彼女は声が出てしまった。だって、昨日の昼神もこうやって触れてきたのだ。

「名前ちゃん、背中弱いんだ。かわいいね」

 って、言った。色気をたっぷり含ませた笑顔に、彼女は蕩ける道しか残っていなかった。彼女はじっと目の前の昼神を見上げある。昼神は昨日の夜ように笑っていた。ただちょっと眉を下げて、その仕草が足されただけなのに、さらに色気が増したように感じた。

「……な」
「え?」

 呟くような声に、彼女が思わず聞き返した。

「やっぱり記憶失くしたの惜しいな」
「え」
「昨日の俺はもっと可愛い名字さんの声聞いたんだなーって思って」
「ひ、ひるがみさ」
「ごめん。名字さん……今日も夜まで一緒に居たいって言ったら、引く?」

 熱の篭った瞳に覗き込まれた彼女は、昨日と同じように頷くことしか出来なかった。

あとがき

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