後日談



0、

「飽きた」
「え」

 そう言ってフロイドは持っていたフォークを、テーブルに置いた。彼女はフロイドの態度の豹変に動揺が隠せず、目を丸くしてフロイドを見上げる。すん、と静かになったフロイドの目が一瞬できらきらと輝いて、彼女を自分の膝から下すと、飛んでいく。

「小エビちゃーん!何してんの?」

 小エビちゃんと呼ばれた方向には、小柄な一人のNRC生が居た。

1、

「……」

 ナマエは寮の自室で、三十分ほど鏡と睨めっこしていた。どんなに頑張っても、フロイドがしてくれたように、ならない。ふんわりと、くるくるさせたいのに、彼女の髪はくねくね、とあちらこちらに曲がっているだけだった。これでは寝ぐせとあまり変わらない。彼女はマジカルペンを机の上に放り投げて、うーんと背伸びをする。魔法で出来ないなら、普通にやるしかないよなぁ。彼女は机の引き出しから、コテと、ついでに、メイクポーチも取り出して、腕まくりをする。

「よし、やるぞ」

 マジカルペンで一度髪をストレートに直している間に、コテのスイッチを入れておく。なんで、ストレートはできるのに、巻き髪は出来ないんだろう。彼女は落ち込みながらも、何度も何度も練習した。髪を巻いて、瞼にアイシャドウをのせて、リップを引く。あのとき、フロイドが彼女に魔法をかけてくれたときの、姿を再現したくて。

「ちゃんとした恰好で、フロイドくんに会いたい」

 フロイドとの約束の週末は、明後日に迫っていた。そして、あわよくば本人から一言、褒めてもらえないだろうか、とそんな下心を込めて。

2、

「やっぱり、無理帰りたい」
「ナマエちゃん挫けるの早いよ」

 彼女はNRCへ続く鏡を目の前にして引き返そうとするが、シンシアに腕を掴まれてしまう。シンシアは七分丈の上品なワンピースで、いいとこのお嬢さんのようだった。というか、実際いいとこのお嬢さんであることが、こないだ発覚したばかりである。対して、彼女は自分はどうだろうか、大丈夫だろうか、と不安になった。八センチのあるヒールを履くと、背筋が伸びて、目線も高くなって、大人になったような気がした。シンシアは自信なさげに俯く彼女の背中を優しく撫でて、ゆったりと声をかける。

「今日のナマエちゃん、とっても素敵だよ」
「ありがとう、シンシア」
「その淡いパープルのワンピースもよく似合ってる」

 彼女はベースが淡いパープルで、胸元の透け感の素材は黒の、大人っぽいワンピースを着ていた。思い切って、二の腕も出してみた。けれども、やっぱり恥ずかしくて、カーディガンが羽織ってしまったけれど。髪もフロイドのようには出来なかったけれど、シンシアに手伝って貰って、ふんわり、と巻けているし、メイクもちゃんと馴染んでいる。彼女が下げていた視線を上げて、シンシアを見ると、シンシアは優しく笑って、ちょっとおどけたように言う。

「ナマエちゃん行こう?私お腹空いちゃった」
「う、うん」
「それに、ナマエちゃん今日は絶対いいことあるから大丈夫。
 それに不安なら、これ付けて」
「し、シンシア!シンシアのそれって魔法道具の一種なんだよね?そんなもう」

 申し訳ないよ、と彼女が言う前に、シンシアは彼女の耳に、イヤリングを付けてしまう。貝がモチーフになっていて、これから行くモストロ・ラウンジにぴったりだった。彼女の言葉に、シンシアはきょとん、として、首を横にふる。

「ただの、ハンドメイドだってば。おまけで、私の魔力が付いてるだけ」
「いやいやいや」
「あ、予約の時間もうすぐじゃない?ほら、出発〜!」
「シンシア!?」

 シンシアはわざとらしく腕時計を確認して、彼女を腕を引っ張った。彼女はヒールの所為で、踏ん張ることもできずに、鏡の中へ入ってしまった。

3、

 NRC校内の鏡がある場所、鏡の間に出ると、彼女は初めて見る独特の空気感に、シンシアの腕を掴む。そう言えば、こないだ私NRC来たけど、来る時も帰る時も寝てたから、初めて通るかも。シンシアはきょろきょろと辺りを見渡して、小さくなっている彼女の背中をまた撫でた。まだ日が昇っている時間帯のはずなのに、少し暗めの明るさのせいか、時間の感覚が変になりそうだなぁ、とシンシアは思った。そもそも、棺桶が浮いてるのが不思議だった。

「やっぱり、他校ってだけで大分違うね」
「そうだね、シンシア」
「ウチはもっとシンプルだもんね」
「ね、後もうちょっと明るい」
「うんうん、足元は見えるけど」

 彼女は自分たちの鏡の間を思い出した。教会のような白を基調とした間は、吹き抜けのステンドグラスから温かな日差しが零れて、その中央に大きな鏡が置かれている。彼女たちの学校は本当にそれなりであって、程よくゆるく、程よく厳しい。寮制の学校には珍しく、平日でも街へ行くことができる。最悪、外出許可が事後報告になっても、小言を言われるだけで通ってしまったりする。ただ出席率よりも、最終的なレポートや試験にて容赦なく結果が決まる為、油断していると足元を掬われやすい。

 ウチのゆるさと、NRCのゆるさはいい勝負かもしれない。でも、流石にオクタヴィネル寮みたいに、他校生にゲストルームと称して寮の一室を貸し出す許可は下りないかも。女の子限定なら、下りるかもしれないけど。彼女がNRCと自分の通う学校について考えながら歩いていると、「あはっ」と独特な笑い声が聞こえて、足を止める。

「ナマエもう来てる〜」
「ふ、フロイドくん、どうしてここに」
「ん〜?ナマエのこと、迎えに来たんだよぉ。
 ナマエ前のときは意識飛んでたから、全然道のり分かんないでしょ」
「!」
「あ、シンシアサン、こないだはありがとねぇ」
「いえいえ。ナマエちゃんを助けてくれてありがとうございました」

 フロイドは寮服(こないだ教えてもらった)を着ていて、その姿はやっぱり同い年の男の子だとは思えなかった。一週間ぶりのフロイドに彼女が見惚れていると、シンシアとフロイドが知り合いのように喋り始める。え?ええ?と彼女がふたりを見比べていると、シンシアはくすくすと笑っていた。

「フロイドさんにナマエちゃんが運ばれたって言ったでしょ?」
「う、うん?」
「そのときナマエちゃんの携帯から私に連絡があったんだけど、
 電話の時点でナマエちゃんじゃないから、すごいびっくりして」
「あんとき、俺すげえ疑われててウケるよね」
「ごめんなさい。まさかナマエちゃんが男の子に運ばれて帰ってくるなんて、思わなかったから」

 眉を下げるシンシアに、フロイドは「気にしてねぇから、いいよ〜」と返していた。そうか。今まで気にしていなかったが、シンシアとフロイドは接触があったのか。ちなみに、正門から寮の自室までは、シンシアが浮遊魔法で運んでくれたらしい。シンシアはナマエと話すときと変わらない雰囲気で、フロイドと話している。普段から、シンシアは動じない子だなぁと思っていたが、恐るべしシンシア。彼女がシンシアとフロイドのゆるゆる空間を眺めていると、フロイドが彼女を見下ろして、いいモノを見つけたように目を細める。彼女はそんなフロイドにドキッとしながらも、合わせた視線は外せなかった。

「ナマエ」

 フロイドの目線が、彼女の髪からつま先までじっくり見て、ゆったりと嬉しそうに笑う。ふんわり、と巻かれた髪に、きらきらと輝くアイシャドウと、きゅう、と結ばれた色付いた唇。ぜんぶ、フロイドが彼女に似合うと思ったものだった。

「いいじゃん」
「え」
「ちょーきれい」
「!」

 想像よりもストレートに頑張った姿を褒められて、彼女は意味もなく横上をかき集めて、口元を隠してしまう。両手が自由に動くから出来る照れ隠しだった。嬉しいくせに、彼女は言い訳をするように、もごもごと口を動かした。

「ふ、フロイドくんがこないだしてくれた、おかげだし、確かにこのワンピースも、素敵なんだけ」
「もーそういうんじゃなくてぇ」

 フロイドの苛立ったような声に彼女はしまった!と、視線を落とした。卑屈になり過ぎた。こないだみたいに大人しくありがとう、と言えばよかった。俯いた彼女の視界に、ひょこっとフロイドが入ってきた。こないだの恋人の距離間並みに、近かった。

「俺はその髪型して、そのメイクして、そのワンピース着たぁナマエがきれいって、言ってんの。
 分かる?ちゃんと伝わったぁ?」
「……つ、伝わってます!あ、ありがとう、ふろいどくん」
「んへへ、どういたしましてぇ?」

 彼女は息が止まりそうだった。至近距離で、少し怒ったように、きれいだと言うフロイドは怖くなかった。怖くなかったのに、彼女の心臓はドクドクと暴れまわっている。彼女がなんとか胸を押さえて、真っ赤になりながらもお礼を言えば、フロイドは褒められた子どものように無邪気に彼女に笑いかけた。あ、やばい、私今日しんじゃうかもしれない。彼女はフロイドを意識してしまう理由を、異性だからだと思っていた。けれど、これ以上フロイドと近付いてしまえば、それ以上の理由が生まれてしまう気しか、しないのだ。相手はやばめの、匂いだってするのに。

 ふたりは気付かない。甘酸っぱい空気を生成するふたりは気付かない。シンシアの内心が荒ぶっていることを。シンシアも、彼女もオタク仲間である。シンシアの中では、完全にエンダァァァァ!!となっているのだ。ええ、ふたりはもう三回ほどデートしたら付き合うのでは!?シンシアはもどかしくて、思わずワンピース下のネックレスに触れる。今にも自分の力を使って、ふたりの未来を見たかった。いや、でも、こういうものはふたりの努力あってこその、ロマンだろうか。彼女の隣で一人で大変なことになっているシンシアの様子に、全然気づかないフロイドは甘い笑みのまま、ぴくり、と片眉を動かした。

「ア、でも……ね、ナマエ」
「うん?」
「そのワンピースって、袖ない奴?」
「え、うん、そうだよ」

 フロイドくん、よく分かったね。と彼女が言おうとして、彼女の口から出たのは小さな悲鳴だった。目にも見えぬ早さで、フロイドはマジカルペンを取り出し、躊躇なく彼女のカーディガンにぽん、と触れる。次の瞬間、カーディガンは小ぶりな貝の髪飾りになっていた。固まっている彼女のことも気にしないで、フロイドは鼻歌を歌いながら彼女の肩を掴んで、回れ右をさせる。彼女の髪に触れて、弄って、止めて、髪飾りを付ければ、ゆる巻きハーフアップの完成である。その一連の流れに、シンシアはわぁお、とお上品に開いた口を両手で隠した。

「うんうん、俺ってやっぱり天才?」
「ふ、フロイドくん、こ、これ」

 フロイドは右〜左〜と彼女の髪型やバランスを見て、ニコニコと頬を緩めた。きれいな彼女を、自分の手でもっと綺麗にするのは、なんだか気分が良い。彼女は剥き出しになった二の腕を隠すように、腕を交差して、フロイドに抗議する。フロイドはピシッと笑顔のまま、固まる。剥き出しになった白い肌や、彼女のポーズに、自分のふしだらな妄想がフラッシュバックしたのだ。フロイドは自分の首から頬にかけて熱くなっていくのが、分かる。勝手に、手が動く。フロイドの大きな両手が遠慮なく、彼女の剥き出しの二の腕に触れて、彼女の肌にフロイドの指が沈み込んだ。は?やば、ナマエの肌柔らかすぎ。彼女はフロイドの様子がおかしいことに気付いて、首を横に振って、シンシア!と助けを求めた。シンシアはまるでそうなることが分かっていたかのように、バッグから手鏡を取り出していた。

「ナマエちゃんかわいい!あ、でも大人っぽい?が正しいかな?
 フロイドさんってセンスあるんですね!」
「へ?あ、ウン」

 割り込んだシンシアの声に、フロイドは我に返って、彼女から手を離す。フロイドの脳内では、ジェイドがおやおや?と笑って登場してきた。「フロイドいいですか。同意もなしに、相手の許しなしに、相手の身体に触れることはマナー違反ですよ。あと、間違ってもナマエさんに、ナマエで抜いたんだ〜とは言っては」あーもう、ジェイドうるさい。分かってるし。「酷いです。フロイド……しくしく」フロイドは鬱陶しいジェイドのウソ泣きに内心舌打ちをして、ハットを被り直すフリをして、自分を落ち着かせる。はぁ、俺思ってたより、重症かもぉ。今日一日我慢できっかなぁ。

 フロイドは珍しく理性でダメだと分かっていても、口が勝手にへの字になっていた。ここで彼女に手を出してはいけないのは、分かる。でも、ちょっと良い雰囲気を邪魔されたのは、気に入らない。シンシアに対して特に何も思っていなかったが、八つ当たりに近い感情が生まれてしまう。シンシアはフロイドの視線に気付くと、にっこりと笑う。ジェイドとも、アズールとも、違う。嫌味のない、穏やかな笑顔だった。

「こないだナマエちゃんのメイクや髪やってくれたのもフロイドさん、なんですよね?」
「うん、そうだよぉ」

 それがなに?とでも態度に出そうなのを、フロイドはギリギリの所で我慢する。

「ナマエちゃん今日の為に、毎日練習してたんですよ」
「し、シンシア!?」
「え、そうなの?ナマエ」

 フロイドは目を丸くして、鏡を見ることに夢中になっていた彼女を見下ろした。ハーフアップにした所為で丸見えになった彼女の白い耳が、赤く染まっていく。彼女はフロイドの問いかけに、あちこちに視線を泳がせながら、最終的にはちゃんとフロイドの目を見上げて、小さく頷いた。

「ちゃんとした恰好で、フロイドくんに会いたかった、から」
「……そ、そっかぁ〜。ナマエ超頑張ったんだねぇ、えらいねぇ」
「わ、わわ、ふろ、フロイドくん私同い年だってば」

 フロイドは自分の赤い顔が見られないように、髪型を崩さないように、彼女の頭を撫で回した。些細な苛立ちなど、既にどこかへ飛んで行ってしまった。彼女の小さな抵抗と、言葉に、フロイドは奥歯を噛み締める。分かってるし、じゃなきゃ、ナマエで抜かないし。はぁ〜、なに?ナマエかわいいんだけど。

 ハッと視線を感じて、フロイドは視線の方へ振り向く。そこには、シンシアがただ微笑ましいものを見るような顔をして、穏やかに笑っているだけ、だった。俺、シンシアさん苦手かも。優しいように見えて、何でも見透かしたような目をする彼女の目では、自分のふしだらな欲望もバレている気がして、なんだか気まずかった。

4、

「ナマエは何がいい〜?」

 彼女はテーブルに広がったメニューを見るフリをしながら、少し混乱していた。フロイドにモストロ・ラウンジまでに案内されるまでは良かった。

 相変わらずモストロ・ラウンジは高級感に溢れており、彼女はフロイドの背中に隠れてしまう。そんな彼女の知ってか知らずかフロイドは彼女の腰を抱いて、「二名様ご案内〜」と機嫌よくふたりを連れて行く。自由の発言や振る舞いが目立つフロイドだが、ふたりと歩く際に、何も言わずに歩幅を合わせてくれたし、段があると「気を付けてね〜」「お手をどうぞ、お嬢様?」なんておどけながら、フロイド流にふたりをエスコートしてくれた。彼女はギョッとして、大丈夫ですと首を横に振ったが、シンシアがありがとう、とフロイドの手を取った辺り、シンシアはマジモンのお嬢なんだなぁと彼女は改めて実感していた。

 フロイドに案内された席は、こないだと同じボックス席だった。シンシアは大きな水槽に夢中になっているようで、席に着いた途端ずっと上を見上げていた。そんなシンシアの様子に、彼女はニコニコと笑顔になる。正直シンシアを連れて行くのはちょっと申し訳ない気もしたが、シンシアが本人が楽しんでくれれば、何よりだ。さぁて、何を食べようかなと思ったとき、横に大きな気配を感じて、え?と彼女はフロイドを見つめる。なぜ?フロイドくん隣に座っちゃってんの?モストロ・ラウンジって、そういうお店じゃない、よね?フロイドくん、店員さん、なんだよね?

「これメニューね。今日はオムライスなしだよぉ?」
「う、うん。
 フロイドくんここに居ても、だいじょうぶなの?」
「?」
「え、えっと、お仕事は……」
「あーいいのいいの。今日は大事なお客様の案内がお仕事だから」
「……だいじな、おきゃくさま?」
「ン、違う。ナマエじゃなっくて、シンシアサン」
「そっちかぁ〜!」

 彼女が思わず突っ込むと、フロイドはケラケラと笑う。シンシアはフロイドの言葉に、きょとん、として首を傾げた。

「大事なお客様?私が?」
「ウン。支配人がねぇ、シンシアサンとお話したいんだって」
「あ、ナマエが言ってた人かな?
 実家は確かに有名だけど、私自身はあんまり大した力もないし、末っ子だから特に仲良くしても、イイコトないんだけどなぁ」

 シンシアは特に気にした様子もなく、そう語る様子に、フロイドと彼女は目を合わせて、シンシアを見つめる。シンシアは再びきょとん、としてしまう。

「え、あんだけ強いまじない使えるのに、大したことないの?」
「し、シンシアの基準が高いのかも」
「アー実家のお姉さんたちの方がレベルもっと高いってこと?」
「う、うん、分かんないけど」

 フロイドと彼女は小言でやり取りをする。シンシアには、本当のことは言ってはいない。パルクール中のフロイドの着地点に彼女が居た為、彼女が全身複雑骨折しそうになった、と知ったら、穏やかなシンシアも流石に、フロイドたちを見る目が変わってしまうかもしれない。あと、やっぱり、彼女自身が大事にしたくないからだ。にしても、なぜナチュラルにシンシアに姉が居ると知っている。と彼女はフロイドに突っ込みたくなったが、深く考えてはいけないと。気にしないフリをした。

「まあ、支配人はその内来ると思うからさ。
 とりあえず食べたいもん注文して」
「はーい。どれにしようかなぁ」
「う、うーん」
「ふふ、ナマエちゃんはこういうの迷いがちだもんね」
「うん。どれも美味しそうだからなぁ」

5、

「お待たせいたしました〜」

 ゆるい声と共に運ばれてきた料理は、高級感溢れる店内の雰囲気に負けず劣らず高級感溢れた料理だった。盛り付けがオシャレだった。なんかよく分からないソースがオシャレにかかっている系の、オシャレな料理だ。彼女はお行儀よく食べれるだろうか、少し緊張してしまう。シンシアは美味しそう〜!と笑っている辺り、やはりお嬢らしい。私みたいに全然動揺してない!テーブルに料理が置かれて、当たり前のように彼女の隣にフロイドが座る。

 彼女がナイフとフォークを手に持とうとした瞬間、消えた。いや、フロイドに取られた。

「今日も俺が食べさせてあげるねぇ?」
「え、え?
 きょ、今日はうで……じゃない、元気だから自分で食べれるよ?」
「いいの。はい、あ〜ん」
「むぐっ」
「アー、やっぱ、この距離やり辛い」

 彼女は柔らかいお肉と、そこに絡むソースの絶品さに感動してしまい、まさに身体が浮いてしまうくらいの美味しさだった。は?身体が浮く?彼女は一瞬の浮遊感に意識を持ってかれていると、テーブルの向こう側で、シンシアが大きく目を見開いている。シンシアのフォークの先から、パスタが落ちた。彼女は顔を真っ赤にして、首を横に振る。ちがう、違うの、シンシア。何が違うんだと問われても、何がとは答えられないけれど。驚くシンシアと、色んな意味で羞恥心に耐えれない彼女の様子を一ミリも気にせずに、フロイドはステーキを一口大に機嫌よく切っていく。

 恥ずかしいのに、と彼女がじとっとフロイドを見上げても、フロイドはニコッと彼女に笑いかけた。

「ナマエ美味しい?」
「う、うん、おいしいよ、フロイドくん」
「えへへ、でしょ」

 彼女の頬は勝手に上がっていて、フロイドに笑いかけてしまう。フロイドは彼女の、眉を下げて仕方ないなぁと笑う、笑い方が好きだった。美味しい、と嬉しそうに頬をゆるめて食べている姿も。彼女を膝に乗せれば、彼女の好きな姿がもっと近くで見ることができる。

「ふ、フロイドさんとナマエちゃんって仲いいんだねぇ?」
「うん?うん、そお。俺たち仲いいのね、ねナマエ」
「う、うん?そ、そうだね?フロイドくん」

 シンシアは目の前の光景に、とても驚いてしまったが、彼女の様子を見てほっと胸を撫で下した。彼女が本当に心底嫌がっていたら、意地でもフロイドを引き離すけれど。今のところ彼女は恥ずかしがっているだけ、らしい。シンシアの言葉に、フロイドは目をぱちくり、と瞬きを一度して、にんまりと嬉しそうに笑う。彼女はこないだの、使い魔と一緒に首を傾げるフロイドを思い出していた。ねえ?とフロイドにつられるように、自分も首を傾げながら。

 そんなフロイドの奇行により変な雰囲気になりかけたが、順応性が高いふたりのおかげで(主に順応性が高いのはシンシアの方だが)、穏やかな食事が再開したと思われた。賑やかな店内に、カツカツと神経質な足音が響き渡る。アズールさんだ。彼女はフロイドの肩越しにアズールの姿を見つけて、アズールも、彼女も頬を引き攣らせた。

「フロイド!またお前は!」

 げえ、面倒なのに見つかった。フロイドは眉を下げて、大袈裟に彼女の肩を抱いて、自分の方へ引き寄せる。まるで、アズールのせいで彼女が怯えているとでも言いたげだった。本当は、ただの下心だ。相変わらず彼女は柔らかくて、いい匂いがした。フロイドの太ももに乗っているお尻も、意識をしてみると、とても柔らかくて、変な気を起こしそうだった。でも、少しでも変な気を起こしかけると、脳内のジェイドがおやおやと言いながら登場するので、フロイドは煩悩を見ないフリをして、あくまで普段の自分を装った。

「そんなことよりさぁ、アズールいいの?」
「は?なにが」
「大事なお客様の前で」

 アズールはフロイドと彼女しか視界に入っていなくて、ふたりの向かいに座っているシンシアに気付くことにワンテンポ遅れしまった。シンシアはアズールをきょとん、と見つめていて、アズールと目が合うと、にっこりと笑いかけた。アズールもつられて、へらりと笑い返す。アズールにしては、随分とゆるい笑い方だった。

「コホン、失礼いたしました。
 僕はモストロ・ラウンジの支配人の、アズール・アーシェングロットと申します。
 今日はモストロ・ラウンジにお越しいただきありがとうございます」
「こちらこそ、招待して下さってありがとうございました。
 シンシア・アムレアンって言います」

 アズールの切り替えの早さは何度見てもすごいなぁと、彼女はアズールの完璧な挨拶に目をひかれてしまう。その間に、遠慮なくフロイドが唇にステーキを押し付けてくるものだから、彼女は仕方なく口を開けて、受け入れる。

 ふと、線を感じて、ホール全体を見渡すと、一組の女性たちのお客さんと目が合う。彼女たちが何を話しているかは聞こえてこない。でも、フロイドと自分を見比べているのは分かった。彼女は不特定多数の前で、フロイドの膝に乗っかっているという事実に、再び羞恥心を思い出した。そして、一人の女性の口の動きがやけに、ゆっくりと見えた。

「つりあってない」



 フロイドは自分の中で、ぷつり、と途切れるのが分かる。楽しくない。まるで、ずっと気分が良くて、大好きな音楽に、リズムに身体がノッてきて、踊り出そうとした瞬間に、無理やり音楽をブツ切りされたような気分だった。フロイドは変な笑い方をする彼女を見下ろして、イライラした気持ちをぶつけないように自分の膝から下す。

「飽きた」

 そこに居たフロイド以外の全員が唖然としていた。いや、アズールだけは、またコイツ……と頭を抱えていた。彼女は少し目線下がって、転がされているナイフとフォークを黙って見つめていた。いや、何にも考えられなくて、そうするこしか出来なかった。傍から見れば、彼女はフロイドの気まぐれに振り回されて、ショックを受けているように見えた。普段ならば、相手がNRCの生徒ならば、誰もこの後フォローはしない。これはフロイドにとって、フロイドを知る者にとって、日常的な出来事だから。ですが、流石にコレは見ていられませんねぇ。

「申し訳ありません」
「……あ」
「フロイドはとても気分屋でして、僕やアズールでもフロイドがどんな行動をとるか予測できないんです」
「そ、そうなんですね。ゴウマイウェイな方なんですね」
「そうなんです。僕のキョウダイはゴウマイウェイなんです。
 なので……」

 彼女の表情は驚きに染まっているが、ショックを受けている様子はなかった。ジェイドは彼女の反応に些か疑問を感じながらも、彼女の隣へ座る。彼女はえ?とジェイドを見上げて固まっていると、新しいフォークを持って、にこやかに彼女の口元へ持っていく。

「僭越ながら、僕がフロイドの代わりを務めさせて頂きます。
 ナマエさん、あーん」
「え?いやいや」

 彼女がおかしいおかしいと言いたげに、手を大きく振り出した。ジェイドは気にする様子もなく、あーんという手つきのまま、綺麗な笑顔のままだ。ジェイドはわざとらしく何かを思い出しように、頷いた。

「そうでした。膝の上に」
「いや!そこじゃないです!あーん、しなくてもいいです!
 お、お気持ちだけ受け取っておきます」
「おやおや、振られてしまいましたね」

 眉を下げて、ポーズだけでショックを示すジェイドに、彼女も、もう、とちょっと呆れた視線で返した。

「でも」
「?」
「自由に振る舞えるって、フロイドくんの強いところですよね」

 彼女は遠目で何かやらかしているフロイドを見つめて、再びステーキを口に入れる。ジェイドは彼女の言葉に、少しだけ目を見開いた。ふむ。まあ、遅かれ早かれフロイドの、気分屋の一面はバレていただろうし。ナマエさんがあんまり気にしてないように見えるのは、薄々気付いていたのかもしれない。だとしても、フロイドの自由な振舞いをフロイドだから仕方ないと納得するには、早い段階の気もしたが。

「ナマエさんはフロイドを理解してくれているんですね」
「え、いや、そんな大層なものじゃないです。
 私が他人の目ばっかり気にしちゃう人間だから、フロイドくんみたいな人見ると眩しいんですよ」

 眉を下げて困ったように笑う彼女に、ジェイドは今度こそ目を丸くした。自由な振舞いをするフロイドの自分勝手さを眩しい、と表現する人間は初めてだった。彼女の言葉に、ずっと固まっていたシンシアがやっと表情を柔らかくして、クスクスと笑う。

「ふふ、確かに。
 あんなに自由な人滅多にいないね」
「ね、私も初めて会った」

 ニコニコとお喋りに花を咲かすふたりに、ジェイドとアズールは目を合わせて、少しだけ首を傾げる。陸の女性って、ちょっと変わっている……?



「シンシア、そろそろ行こうか」
「ん、でもいいの?」
「……いいの。長居しても、次のお客さんに迷惑だし」
「そうだね」

 結局、「飽きた」と言って、席を離れたフロイドは、彼女たちがデザートを食べ終わっても、戻って来なかった。



「あれ?ナマエは?」

 フロイドは監督生と遊んで、すっかり気分も上々だった。ボックス席を覗いても、シンシアと彼女は居なかった。ホールでドリンクを下げていたジェイドに尋ねれば、ジェイドは何でもないように答える。

「先ほどお帰りになられましたよ?」
「え!?ナマエ俺に一言もなしで帰ったの?ひど」
「こらこら、フロイド。
 そもどもあなたが彼女たちを放置したんじゃないですか」
「だぁって、もっと居ると思ったんだもん。こないだもっと食べるの遅かったし」
「あれはフロイドが食べさせていたからでしょう」
「ア、そうだった。え、さっきって?何分くらい前?」



 彼女は鏡の間へ向かいながら、シンシアとお喋りを楽しむ。今日食べた料理が美味しかったとか、モストロ・ラウンジのインテリアが素敵だったとか、アズールとジェイドは変わっていて面白かったとか、フロイドは結局戻ってこなかったとか、色々喋った。でも、彼女の頭の中には、フロイドしか居なかった。遅かれ早かれ、こうなることは分かっていたのだ。初めてフロイドと会った日のフロイドはずっと機嫌が良くて、彼女のことを大切に気にかけてくれた。あの日が特別なだっただけで、今日のあの姿がきっとフロイドの日常なのだ。

 彼女はこれ以上自分が惨めになりたくなくて、分かっていた、気付いていた、と自分に言い聞かせる。天才肌のフロイドと、魔力の量も、コントロールも人並みな自分は釣り合わない。それでも、やっぱり……

「さみしい」
「ナマエちゃん?」
「あ、な、なんでもない」
「ふふ、ナマエちゃん帰るのはちょっと早かったみたい」
「え?」
「私先に戻ってるから。
 学校のカフェテラスで、またお喋りの続きしようね」

 シンシアはニコニコと楽しそうに笑いながら、彼女より先に二歩、三歩と歩いて、鏡の中へと入っていった。唐突なシンシアの行動に、彼女は目を丸くしながら、「待って」と自分も鏡の中へ入ろうといた。そのとき、

「ナマエ!」

 彼女は背後から聞こえた大きな声に、驚きながらも振り返る。そこには、息を切らしたフロイドの姿があった。フロイドは怒っているようで、ずんずんと大きな一歩で彼女に迫っていく。

「なんで勝手に帰るわけ!?俺に何にも言わずにさ!」
「え、え?だって、さっきフロイドくん飽きたって言うから」
「はぁ〜?アレはご飯食べさせるのに飽きたって意味で、ナマエに飽きたから帰っていいって意味じゃねぇから!」
「そ、そうだったの」
「そうだったの!」

 ぷんぷん、俺怒ってるからね!と頬を膨らますフロイドを見上げて、彼女はぽかん、としてしまう。分からない。フロイドくんのことが全然分からない。分かる気も全然しないけど、本当に全然分からない。全然思いつきもしなかったフロイドの事情に、彼女はやっぱり意味もなく「ご、ごめんね?」と戸惑いながらも、謝ってしまった。頭上にクエスチョンマークをたくさん思浮かべている彼女に謝られて、そこでフロイドはやっと我に返る。

 今日彼女を誘ったのは自分で、自分の機嫌で彼女を左右して、上手く行かなくて八つ当たりして、彼女に謝らせている。自分から誘った気になる子にする仕打ちではない。理性では分かっているけれど、彼女が喜んでくれなかったから。オムライスを食べたときのように、メイクや髪を弄ったときのように、またキラキラとした目を見せてくれると思った。見せてほしかった。

 フロイドは自分の気持ちが、自分で分からなかった。そっか。別にナマエに食べさせることに飽きたんじゃなくて、俺と居るのに、俺の知らない何かを考えて、誤魔化してたナマエの態度が嫌だったから、ヤな気分になったんだ。あのときの俺だったら、ヤな気持ちに任せて、ナマエのこと傷付けちゃいそうだっただし、変な笑い方するナマエを見たくなくて、離れちゃったけど。本当は俺、ナマエが変な笑い方しちゃう、理由が知りたかったんだ。

「ナマエ……今日の料理美味しくなかった?」
「え、お、美味しかったよ?」
「ホントに?じゃあ、なんで美味しそうに食べてくんなかったの?」
「……」
「なんで……途中から、楽しくないって顔してたの?」

 彼女は話題がコロコロと変わる展開に付いていけなかったが、なんとかフロイドの言いたいことを理解しようと耳を傾けようと思った。思って、フロイドの口から出て来たものが予想外で、目を丸くする。そして、悪戯がバレた子どもみたいな気分になった。フロイドの言葉に、彼女は口を噤んで何も言えなくなる。

 私とフロイドくんは違う。周りの目を気にしてしまうし、フロイドくんみたいに自分に正直には慣れない。フロイドくんは機嫌が急に悪くなったんじゃない。せっかく作った料理を目の前にして、あんな態度を取られたら、そりゃ嫌だろう。それに、フロイドくんなりのやり方だろうけど、きっと私を楽しませようとしてくれた。その気持ちは充分伝わっていた。だからこそ、彼女は周りを気にして、気が落ちている気持ちを出してはいけないと思ったし、表情に出したつもりはなかったが、鋭いフロイドにはバレていたらしい。

 けれど結局、自分のこんな性格の所為で、フロイドの気を悪くさせてたのだと、気が付いた彼女は申し訳ない気持ちと、情けない気持ちでいっぱいになって、自分のつま先を見つめてしまう。

 フロイドは何も言わず俯いてしまった小さな頭を見下ろして、ハットが落ちるのにもかまわずに、自分の髪をぐしゃぐしゃと手でかき回した。

「言ってくんないと分かんないんだけど」
「……」
「ナマエ?ちょっと聞いてんのぉ?」

 イライラが我慢できなくなったフロイドは彼女の肩が震えていることに、彼女の肩を掴むまで気が付かなかった。フロイドがギョッとして、彼女の顔を覗き込めば、彼女は涙が零れないように目を開いていて懸命に耐えようとしているが、彼女の目に溜まった涙はポロポロと彼女の頬を滑り落ちてしまっている。

「え、え、ンデ、なんで泣いてんの?ごめん、俺怖かった?
 ごめんごめん」
「……」

 フロイドは今にも崩れ落ちそうな彼女の背中を撫でて、抱き締めたかった。だが、自分が怖がられているのならば、自分が触れられた嫌だろうし、長い腕を無駄にわさわさ動かすことしかできなかった。違う、違うの、フロイドくんは悪くない。私の性格の問題で、フロイドくんは悪くない。こないだも、今日も、フロイドくんは私が勝手に気にして、落ち込んだら、ぐいっと引っ張ってくれる。「何気にしてんのぉ?」って、私が気にしてるものなんて、目に入らないとでも言うように。彼女はアイシャドウがぐちゃぐちゃになることに、一瞬躊躇したが、ええい、と手の甲で目元をゴシゴシと拭う。ここで泣いているだけの自分になってしまったら、正真正銘の何もできない奴になってしまう。せめて、自分の口で説明しないと。

「フロイドくん」
「ウン」
「私フロイドくんが怖いから泣いたんじゃなくて、自分が情けなくて」
「え?どういうこと?」
「フロイドくんは何でも出来て、大人っぽくて、かっこいいのに、そんなフロイドくんに私全然つりあってないからって、勝手に落ち込んで」
「まって、まって、ナマエストップ」
「だ、だって、うっ、ううっ」

 勝手に落ち込んで、フロイドくんに嫌な気分にさせてごめんなさい。そこまで言えなかった。言葉を口にすると、見ないフリをしていた劣等感の塊のようなどろり、とした感情が零れてきた。涙になって、嗚咽になって、彼女は我慢ができなくなって、両手で顔を覆った。こんな情けない泣き顔まで、フロイドに晒したくなかった。

 そんな彼女の心情を知らないフロイドは顔を真っ赤にして、固まっていた。何かわかんねぇけど、俺今めっちゃ褒められた?しかも、かっこいいって?ナマエ俺の事かっこいいって思ってたの?フロイドがどんなに大人っぽく見えても、腕っぷしが強くても、十七歳の男の子なのである。気になる子から、そんなことを言われて悪い気がする訳がない。

「ナマエだって、かわいいじゃん。えっと、まあ、今日はすっげーきれいって感じだけど」
「……」

 うっうっ、と泣いていた彼女の肩がびくり、と少しだけ揺れる。

「てか、つりあってないってなに?もしかして、誰かに言われたの?」
「!」

 ギクギク。彼女の肩がまるで、そんな効果音付きで、跳ねる。フロイドは右肩に左手を置いて、こきり、と首を鳴らす仕草をした。彼女はフロイドのやばめな雰囲気を察知して、顔を上げて、首を横に振る。

「ナマエ」
「え」
「俺ね、嘘つかれんのちょー嫌いなの。
 いい子のナマエは分かるよねぇ?」
「……」

 いい子のナマエは俺が言う意味分かるよねぇ?そんな副音声が聞こえてきた。このまま私が黙っていたら、見知らぬ人が犠牲者になってしまうかもしれない。彼女は大きく頷いて、正直に全て話す道を選んだ。

10、

「ハ〜?俺そんなことでヤな気分になったの〜?」
「……」

 フロイドは彼女の話を聞いて、心底分からないという顔をした。赤の他人の一言を、そこまで気にできるものだなぁ、と。彼女はフロイドの反応に少し頬を膨らまして、だから言いたくなかったのに、と拗ねた顔をする。

「ナマエは小さな頭でごちゃごちゃ考える癖があるってことね」
「……間違ってないけど、けど」

 彼女はぷくぷく、頬を膨らませたかったが、そんなお年頃でもないので、じとーっとフロイドを見上げるだけで我慢した。フロイドは彼女が少しだけ剥き出しな感情を見せてくれることに気分を良くして、マジカルペンをくるくると回した。すると、ぼんっ!と大きな大きな鏡が現れた。そこに、凸凹コンビです!とでも言うように、背の高いフロイドと、彼女が並んでいた。泣いた所為で、あちらこちらにアイシャドウは飛んでしまっているし、目も鼻も真っ赤だし、せっかくのワンピースは涙で濡れてしまって、全てが台無しだった。彼女が眉をひそめて、鏡の中に自分と睨み合っていると、フロイドは彼女の手を引っ張って、歌うように呪文を呟いた。

 彼女のワンピースにしみ込んでいた涙が時間が巻き戻るように、しずくの形になって、空中へと舞う。「ナマエ目ぇ瞑って?」「?」彼女は大人しく、フロイドに言われるがままだった。彼女の瞼をフロイドが慰めるように、優しくなぞる。フロイドは彼女の肩を優しく掴んで、彼女に囁く。

「もういいよぉ。目開けて」
「……わあっ」

 彼女は目の前の光景に、目を輝かせた。フロイドの周りを透明のガラスで出来た細工のような、イルカやタコ、ペンギンと言った海の生き物たちが空中を海の中のように泳いでいた。なぜか、彼女の胸元に細長い生き物がブローチのように、ちょこんと座っている。「あ、それはね、ウツボだよぉ」「ど、どうして、ウツボ?」「ん−、ないしょ。それより、こっちも見て?」フロイドに言われて、彼女は鏡の中を覗き込んで、またまた目を輝かせた。フロイドと、お揃いの目元になっていた。パープルのアイシャドウが彼女の目元をきらきらと彩っている。自分なら絶対に挑戦しないし、選ばない色をフロイドはいつも彼女に選ぶ。そして、彼女以上に彼女が魅力が分かっているのか、彼女に似合う形で新しい彼女を見せてくれる。

「俺たち、めっちゃイケてね?」

 フロイドは彼女の肩を抱いて、目をぱちぱち、と瞬きをしてる彼女の頭に、こつん、と自分の頭を乗せる。もう答えは出ていた。

「うん、イケてる」

 鏡の中の彼女も、フロイドの隣の彼女も、目をきらきらとさせて、素直に笑顔になっていた。

11、

「そいや、ナマエ。はいこれ」
「アッ、忘れてた!ありがとう」

 彼女はフロイドがひょいっと差し出した青いビニール袋の姿に、当初の目的をやっと思い出した。大きな鏡も、空中を泳いでいた魚たちも、いつの間にか消えてしまった。ただ相変わらずウツボのブローチもどきだけは、彼女の胸元にしっかりと残っていた。彼女が青いビニール袋を受け取ろうとすると、何故かフロイドが手を引っ込めてしまう。彼女も、フロイドも、驚いた顔して、見つめ合う。

「あ、あれぇ?ご、ごめん」
「ううん?えっと、受け取っていいんだよね?」
「ウン、だって、これナマエのだし」
「じゃあ」

 彼女がもう一度手を伸ばす。フロイドは手を引っ込める。彼女は一歩踏み出して、フロイドが手を引っ込める前に、受け取ろうと試してみた。すると、フロイドが大きな一歩で後ろへ逃げる。彼女も負けじと二歩前へ進む、またフロイドが後ろへ逃げる。それを数回繰り返すと、フロイドの背中に壁がとん、と当たった。彼女は今度こそ、と手を伸ばした。もうフロイドに逃げる場所はない、と思ったのに、フロイドは器用に左へ逃げようとして、透明の壁にぶち当たる。

「いってぇ」
「ご、ごめんね。でも、フロイドくんが返してくれないから」

 彼女がユニーク魔法を使って、フロイドの両サイドの空間を切り取って、器用にフロイドを閉じ込めたらしい。彼女が手を伸ばすと、フロイドは漫画をワイシャツの中のお腹辺りに入れて、大きな身体を丸くして、しゃがみこんでしまった。

「ふ、ふろいどくん?」

 分からない。今度こそ、フロイドの奇行の意味が、きっかけが、分からない。彼女がフロイドの様子を伺うように、フロイドの名前を呼ぶ。フロイドはさっきの彼女のように、頬を膨らまして、拗ねていた。

「これ返したら、ナマエもう帰っちゃうでしょ」
「え、えっと、まあ、そうだね」
「だから、ヤダ。返したくない」
「ええ」
「来週もモストロ・ラウンジに来てくれるって言うなら、返すけど」
「それはちょっと……学生にモストロ・ラウンジに週一はキツイかなぁ」
「割引券あればいい?」
「いや、割引券何回も貰うの申し訳ないし」
「……やっぱ返さない」
「ええ」

 彼女はターコイズブルーの旋毛を見下ろしながら、自分の頬を摘まむ。夢じゃない。ほっぺ、あつい。フロイドくん、分かってて言ってる?

「ねえ、フロイドくん……あのね、私フロイドくんと同い年なんだよ?」
「ハ?知ってるし。何回言うの、それ」

 フロイドが自分のこと棚に上げて、ナマエ何言ってんの?訳分かんないと眉を顰めながら、顔を上げる。フロイドは思っていたよりも、彼女の顔が近くあって、驚いて、再び壁にゴツン、と頭をぶつけた。彼女もフロイドの視線に合わせて、しゃがんでいたらしい。彼女の顔は真っ赤だった。けど、今までと違うのは、彼女の目の中に隠れる熱だった。フロイドと同じパープルの煌めきに彩られた瞳が、フロイドを見つめている。フロイドだけを、見つめて、もう一度繰り返す。

「フロイドくんは私と同い年の、男の子なんだよ?」
「……ナマエ」
「わ、私そんなこと言われたら」

 正直、フロイドは彼女がどんな言葉を言うか分からなかった。フロイドは長い人差し指を、彼女の唇に当てる。彼女は大人しく口を閉じた。フロイドはくしゃくしゃと髪をかき回して、ふぅーと大きく息を吐くと、身長差がない彼女の目を見つめる。

「そっから先は言わないで」
「!」
「ちがーう。誤解して、ごちゃごちゃ考えんのやめてよぉ」

 フロイドの言葉に、彼女の眉がへにゃり、と下がるものだから、フロイドは慌てて、言葉を繋げる。

「来週の週末俺と、デートして」
「わ、私と?」
「そぉ。ナマエと俺がデートすんの。イヤ?」

 彼女はぶんぶん、と大きく首を横に振って、「嫌じゃない。嬉しい」と微笑みと本音を一緒に零した。フロイドはそんな彼女の可愛さに我慢が出来なくなって、両腕を心置きなく伸ばしてしまった。彼女が小さい悲鳴を上げる。彼女は目を丸くして、自分を抱きしめるフロイドの行動に、心臓がまた暴れまわった。もう、この心臓が恐怖とは別に暴れまわる理由は分かってしまった。彼女は少し迷って、ええい、と小さな手をフロイドの背中に回した。

 一週間後に、ふたりの関係性に名前がつくことを祈って、彼女は目をゆっくりと閉じた……はずだった。

 フロイドがまるで、猫のように彼女の首筋にすり寄って、鼻を押し付けるものだから、彼女は可愛いなぁと思わずフロイドの頭を撫でてしまう。フロイドがすぅ、と彼女の匂いを嗅いで、うっとりとした声を出してしまった。

「はあ、やっぱナマエいい匂い。ア、やば、たつかも」
「ぎゃああああ」

 彼女の悲鳴に、フロイドの脳内ジェイドではなく、本物のジェイドが「おやおや」と登場することになるとは、彼女を堪能中のフロイドは思いもしなかった。

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