彼氏の部屋ってのは甘い妄想が掻き立てられるものだとばかり思っていたが、そんな雰囲気は微塵もない。期待をしたって無駄。現に部屋の主、彼氏である国見英と過ごす何度目かのこの日々に甘いものなんて何一つ起こったためしがないのだから。
付き合ってからそれなりに経つのに、デートらしいデートをしたことがない。部屋に招かれたのは何度か経験があるが、英はベッドへ寝そべり微動だにしない。動きがあるのは瞬きする瞼と漫画本だとかスマホだとかをいじる指くらいなものだ。その行動にすら緊張を覚えたのは最初の二回まで。今はそう、呆れと落胆、不満で溢れ返っている。
「ねえ、なんで私と付き合ってるの」
冷たいフローリングに冷やされた爪先を撫でながら、私は自分のコートを膝掛けに暖をとっているというのにちゃっかりと布団に丸まっている英へ怒りを孕む視線を向けた。
「誰かさんの告白がしつこかったから」
こちらを見ることなくあっけからんと口を開く英。その英の言った言葉に間違いはない。確かにそう。英にした告白は数知れず。でもさ、仮にも付き合ったんだから少しは彼女に気を使って欲しいと思ったってバチは当たらないはず。
「私の好きなところ五個ある?」
「あー……。ない」
「ないの!? なら三個くらい今捻り出して!」
「嫌だけど」
この会話をしながらも、英の視線がスマホから上げられることはない。むかつく。私ばっかり好きでむかつく。
「なんで付き合ってんの、私ら」
「なに今日。えらい絡んでくるね」
今日に限ったことではない。ずっとずーと思っていた。それに気づかない疑問を持たない英がむかつく。その余裕に腹が立つ。惚れたら負けなんだから我慢しろって態度が憎たらしい。少しは振られるかもとか思わないわけ? むしろ振られてもいいとか思ってるわけ? 少しは私にみたいにジタバタして見せてよ。
「……する」
「は? なに?」
「絶交する!」
嘘でも別れるとか距離を置くなんて言えない私は結局、英の上に立つことはできないんだなと思う。けれどこれが私の精一杯なのだから仕方がない。だって別れたいわけじゃないのだから。
「一週間くらい絶交する! それじゃーね!」
そそくさとコートを着こんで荷物をひっつかみ、国見家を飛び出した。少しばかり家の前で英が追いかけてこないか待ってみるもののそんな気配はなくて、どこまでも一人相撲な自分に少し泣いた。
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英に絶交宣言をしてから早三日。学校ですれ違ってもノーリアクション。スマホは静かなままで、私から何もしないと本当に英は何もしてくれないのだと、怒りを通り越して虚しさでいっぱいになった。
デートだって私がどこか行きたいと言っても英は首を縦に振らない。休みの日くらい休ませろなんてどこぞのサラリーマンみたいなことを言う。初めて英の部屋へ行ったときだってデートを断られ、それでも一緒にいたいと英に執拗について歩き、なんだかんだ行き着いたのが国見家。そりゃ最初は彼氏の家! 彼氏の部屋! とテンションが馬鹿みたいに上がったけれど、いざ部屋に入っても何をするわけでもなくて。ただ同じ部屋の空気を吸っているだけ。そんな繰り返しを変えたくて絶交したのに英からの音沙汰は無し。
これってもうお別れのカウントダウンが始まっているのではないだろうか。というか、カウントダウンの終わりが見えてきたといったところ? もしかして楽して別れようとしてる? だとしたらなんて冷たい男なのだろう。別れる体力すら使いたくないなんて、省エネにも程がある。
無意味であった私の絶交作戦に肩を落とし、黄昏るようにして歩く一人での帰り道。薄暗くなった空を見上げて、それが晴れない自分の気持ちの表れのようで思わず重い重ーい溜息が口から漏れた。
「あれー? ひとりー?」
背後から聞こえた、この淀んだ空気に似合わぬ爽快な声。振り向いて見えたキラっと効果音が聞こえてきそうな笑顔を向ける及川先輩は、英を追いかけまわしていた私を応援してくれていた先輩の一人であった。
「及川先輩、お疲れ様です」
「お疲れ!」
「部活出てたんですか?」
「そうそう! 可愛い後輩たちが及川さんお願いしますって言うからさぁ」
引退した三年生、特に進路が既に決まっている及川先輩は結構な頻度で部活に顔をだしているらしい。後輩想いないい先輩である。いずれ大学の方の練習へ参加するからそれまで顔を出すのだと口にした及川先輩は、嬉しそうにけれどどこか寂しげな表情を浮かべていた。
「てか国見ちゃん待ってなくていいの? そろそろ出てくるころだったんじゃない?」
「いいんです。待ってなかったし」
「あれー? もしかして喧嘩?」
喧嘩だったらどれだけいいことか。
「今絶交中なんです」
「ん? 喧嘩と違うの?」
「違います。私、英と喧嘩したことないし……」
私が一方的に怒って、その時英は死んだ魚のような目をするだけ。呆れられることがあっても、英が私に怒りをぶつけたことはない。むしろ英が怒っているのを見たことがない気がする。煩いな、面倒だなって顔をされたことしかない気がする。
そう思うと泣きたくなんかないのに、視界が滲んでどんどん涙が溢れてきた。
「え!? ちょ! ミョウジちゃん!?」
突然泣き出した私に及川先輩は慌てながらも手を引いて、近くにあった公園のベンチへと座らせてくれた。自販機で購入した飲み物とタオルを手渡してくれる。
「……すみません」
「いーのいーの」
「タオルありがとうございます。……凄くいい匂いがしました」
私の見当違いな言葉に及川先輩は弾けたよな笑い声をあげて、母親の趣味だと教えてくれた。それから及川先輩はこの匂いを女みたいだと岩泉先輩が馬鹿にすることや、松川先輩のタオルが一番いい匂いだとか。私に気をつかってか、そんなことを面白おかしく話してくれた。
「本当にすみません、もう大丈夫です」
「そー? まあ、後は国見ちゃんと話しなね」
「はい、……そのうち」
「よし。本人来たし俺は帰ろうかな」
本人来たし。本人来たし? その言葉に視線を前方へ向けると、公園の入口に佇む英の姿があった。
「え、え?」
「俺が呼んじゃった」
舌を出して、まるでテヘなんて声が聞こえてきそうなその整った顔を初めて叩いてやりたいと思った。それを察したのか及川先輩は素早い動きてベンチから立ち上り私に手を振ってさっさと公園から立ち去ってしまう。
そんな及川先輩と入れ替わるようにして私に近づいてきた英。少しだけいつもよりむっとしているような顔をして、目の前で立ち止まる。
「絶交するって言って他の男とこういうことするのってどうなの」
「……こういうことって?」
「一緒に帰ったりここで二人っきりになったり」
「及川先輩は偶然、なんかこう、成り行きで」
ふーんと声を低くして私を見下ろす視線が、いつもと違って生気に満ち溢れていた。
「なら今後俺が成り行きでそういうこになっても文句言うなよ」
「え、それは……言うよ」
「なにそれ。おかしくね」
「おかしくない。だって、そりゃ……好きだから、嫌だよ」
「ならナマエもするなよ」
ハッキリとした口調。怒った顔。私に苛立ちをぶつける英は、まるで嫉妬しているよう。それが嫉妬なのか、違うのか。私には測りかねたが、そうであって欲しいとは思う。そんな願いを込めて英に疑問をぶつけた。
「英も嫌だった?」
私の言葉が予想外だったのか英は目を丸くさせ、ふんと顔を背けたと思うと小さく「クソ」と悪態をついた。そして嫌だったのかという質問に答えてはくれなかったが、「送る」とだけ言い残し私に背を向けて歩き出した。
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空はすっかり暗くなっていた。沈みきった太陽、夜道を照らす月明かりがやけに澄んで見えたのは、自分の心境の変化のせいだろうか。一人で歩くよりちょっぴり早い速度で進む英の隣を初めて居心良く思えた。そうやって並んで歩く帰り道。暫く足音だけが鼓膜を揺らしていたが、前を向いたまま英が不意に口を開いた。
「絶交は気、済んだの」
そうだ。絶交していたのだった。
「気、済みました。でも……」
「なに」
「私の好きなところ、三つ」
「まだそれは続いてたわけ」
そう言ってげんなりした声を出した英はいつと同じ、死んだ魚の目に戻っていた。そして先程同様、前を見据えたままこちらを向くことはない。
「俺、無駄なことはしたくないし。極力動きたくないし、疲れることしたくないし」
「うん、知ってる」
「断るのが面倒で付き合ったところはある」
分かってはいたが言葉にされると辛い。あんまりだ、酷い、そう文句を言ってやろうと顔を上げると、英と視線がぶつかり驚いて言葉が出なかった。じりじりと焦げるような眼光。見たことのない英の顔に私の心臓は強く強く脈打つ。
「だからって気のない人と付き合うほど体力ないから」
告白だ。英からの告白だ。全身がぶるりと震えて、足が止まる。歩くことを忘れてしまうほど、私は吃驚して、歓喜して、感動して、もう、訳がわからなかった。
「なんで泣くんだよ」
「だって、英が、」
手に握っていた及川先輩から借りたタオルで涙を拭おうとすると、英が急にそのタオルを奪い取り、自身の鞄から取り出したタオルを乱暴に私の顔へと押し当てる。
「痛い。痛いしなんか、臭い」
「俺の汗拭いたやつだし」
「最低……」
英は不満げな顔をして「これは俺が及川さんに返しておく」と及川先輩のタオルを鞄へしまおうとしたため、慌ててそれを制止させた。
「いいよ! 私が洗って返すよ」
「は? なんでだよ」
「なんでって、私が使ったから」
「いい」
私が使ったのに、それを英が洗って返すのっておかしくない? なんだか及川先輩に失礼じゃない? そう英に言ってもいいからと許否された。
「なんでなのよ」
「むかつくから」
「むかつく?」
「彼女が他の男の物使ったらむかつくだろ普通。それだけでもむかつくのに、洗って返すとか」
むかつく。そう言って顔を歪めた英は苛立っていた。嫉妬して、苛立っていた。
「英って、意外と嫉妬深いんだね……」
「なんだよ。悪いかよ」
普段口数の少ない英がぶつくさと悪態をつく。それはそれは自棄糞に。
「俺、ナマエの好きなところ無いから」
「え、なにそれ」
「むかつく。いつもお前にむかついてる。本当にむかつく」
「ねえ、普通に傷つくんだけど」
「デートしたいとか言われても俺金ないし」
そういう理由があったのかと一瞬呆けてしまったが「勿論面倒くさいのはあるけど」と、いらない付けたしをされた。
「なら今度、私奢る。バイトしてるし」
「男が奢られるとかみっともないだろ。それにナマエ、のこのこ家についてくるし」
「だってそれは! ……一緒にいたいから」
「男の部屋に不用心に入るし」
「英は彼氏だし」
「彼氏だからって何されてもいいわけじゃないだろ」
そう言った英の瞳はやけに熱っぽかった。その視線にごくりと唾を飲み、びりびりと背骨が痺れる感覚。男の空気を纏った英に緊張しつつも、私はゆっくりと俯くようにして頷いて見せた。だってそれはきっと、私が何度も想い描いた甘い妄想の正体であると思ったから。
「……何されても、いいし」
絞り出した声は想像よりも小さく、声にしてみると想像よりも恥ずかしかった。赤くなっているであろう自分の顔を、慌てて英のタオルに埋めて隠す。そんな私の姿に感心したような声色で「ああ、そう」と呟いた英は驚いているのだろうか。それともいつもみたいに呆れているのだろうか。その答えはわからない。なぜなら英の顔を見る勇気がないからだ。
「なら次からはそのつもりで」
追い討ちと言わんばかりのセリフに、ちょっと待ってと伝えようとタオルから顔を上げると、英は私の予想に反して笑っていた。悪戯な笑顔を浮かべ、けれどどこか満足そうに笑っていた。その顔を見て何も言えず、動くこともできない私は英に「帰るか」と手を引かれことによって漸く足を前へ踏み出した。
初めて結んだ手の温度と、少しだけゆっくりなペースの歩幅に、私はまた泣いた。
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「ミョウジちゃんー。やっほー」
食堂で友達と向かい合ってお昼を食べていると、陽気な声色で及川先輩がひらりと手を振り近づいてきた。
「こんにちは」
「タオルわざわざありがとうね」
「いやいや! こちらこそありがとうございました。直接渡せなくてすみません」
あとで英にお礼を言わないとな、そんなことを考えていると及川先輩が「ミョウジちゃんのタオルもいい匂いだったよ」なんて言われ、それが国見家の匂いですよとは言えずただヘラリと笑うことしかできなかった。
少しの雑談をして及川先輩が去ると、どこからともなく英が現れ「なに話てたんだよ」なんて声を低くする。どうやら英は今までそれなりに気を使ってくれていたらしい。上手にいろいろと隠していたようだ。私ばっかりなんて思っていたのが嘘みたい。
「英の家の柔軟剤の話」
「なにそれ。意味わかんね」
納得がいかないという顔をされるが、それが真実なのだなら仕方ない。ぶつぶつと小言を言う英は開き直ったのか、遠慮をやめたのか。口煩くなった彼は今までとは別人のよう。
英は私の好きなところがないらしい。私を見ているとむかつくらしい。けれどそれは嫉妬であり、執着であるなら私は甘んじて受け入れよう。なぜなら英の嫉妬は、私にとっては愛の告白なのだから。
Thanks100000hits!