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肌寒い季節の、星の綺麗な日の夜というのは泣きたくなる。悲しくなる。寂しくなる。人肌が恋しくなる。愛されたくなる。私がもちあわせているこの面倒な感情を、あなたは「可愛い」と言って笑ってくれた。その笑顔を最後に見たのはいつだったか。もう二度と見ることはできないのではないか。最近そう思う。

そこそこ大きなマンションの、そこそこ高い位置から眺めた星空はやっぱり怖いくらいに綺麗で、足元が滲む、霞む、崩れそうになる。重苦しい色をした冷たい扉に背中をつけて立ち尽くしていると、背後からどんどん体温が奪われて寒くなる。そんな温度の変化すら私という存在を脅かす。こんなに星がたくさんあって、人もたくさんいるのに、私は誰にも必要とされていないみたいな気持ちになる。
そんな孤独な夜の空気が小さく震えた。ガサリと揺れるビニール袋の音に続いて、ゆっくりと鳴る靴底の音は鉛を付けられているかのように重たそうだ。そしてその音の主は私を見つけると少し眉間を歪ませて、口から重い重い辟易した息を吐き出した。

「今日は会えないって言わなかったっけ」

困らせたいの。それでも笑って私を許してほしいの。私はあなたに愛されてるって実感していないと綺麗な星空に呑み込まれて、心臓が、感情が、全部がちりじりになって、星屑になってしまう。そんなことを思う私を黙って見下ろす冷めた視線。もう「可愛い」と言って笑ってくれたあなたはいない。

「うん、言った。でも会いたくないとは言ってなかった」

私の言葉に薄ら笑いを浮かべて部屋の鍵を開け、こちらを見ることなく部屋の中へと消えた長い影。目の前でバタンと音を立てて閉じた扉は相変わらず重苦しい色をしていた。


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「一静」
「なに?」

薄暗い部屋の中。シーツを被っただけの私の横で、スマホ画面の明かりが彼の顔の陰影を色濃く作り出している。さっきまで私の上で甘い息づかいをしていた面影など微塵もない横顔。昔だったら情事のあとはお互いに肌をくっつけて、互いの体温を分けあいながら眠りについたのに視線すら交わらない。数分前までの熱い目差しが嘘みたいだ。一静の全てが嘘みたいで怖くなる。

「寝ないの?」
「寝るよ」

まだ視線が交わることはない。それが虚しくて、確かな熱の存在に触れたくてそっと彼の腕をなぞる。骨に絡み付くように伸びた筋肉が作る筋。全身を這う血管。彼を存在させる肉体に頬を寄せて頭を預けると、ようやく私へと向けられた視線。

「そうやって寝られると身体おかしくなるから」

するりと離れていく身体。私の瞳から流れ星のように一粒の涙が光って、死んだ。

「一静、変わった」
「唐突だな」

どこが? と上半身を起こして私に向き直り、しっかりと双眼でこちらを見据える瞳は何処と無く嬉々としているようだけれど、その奥で軽蔑の色を覗かせている。だから私の内なる想いを伝えたら、それが侮蔑の目差しに変わるのだろう。そう思いながらも、開いた口は止まらない。

「昔はもっと優しかった」
「今は優しくないんだ、俺」
「優しくない。冷たい」

ふっと短く漏れた乾いた息。少し持ち上がった口角を、自身の長い指でなぞる仕草は背筋が凍るほど美しく、鋭くなった視線に恐怖を覚える。その恐怖は、一静のことが怖いのではない。一静から向けられる感情が怖いのだ。

「今日は日帰り出張で会う余裕ないって言ってんのに会いに来た誰かさんを部屋にいれて、疲れてる言ってんのにシたいって言うから付き合ってやったじゃん」

怖いと思うのに、自分の感情を抑えることのできない。だって「付き合ってやった」だなんて、その台詞に私が求めていた愛がないから。あるのは一静の人となりだろうか。それが寂しい、虚しい。私が欲しいのはそんなものじゃない。一静は私が何が欲しいか知っているくせに、知らん顔。冷めた顔して冷たい視線で私を撫でるだけ。触れて欲しい彼の指は決してこちらに伸びてはこない。私に触れてくれない一静は、私を見下ろす星たちと一緒だ。手の届かないところでぴかぴか光って、見せつけるだけ。

「嫌なら追い返せばよかったじゃん」
「そう。追い返してよかったんだ」
「シたくなかったんなら断ったらよかったじゃん」
「断ったつもりだけど。俺は」

ほら、優しくない。私を傷つける目的で吐かれる言葉は酷く痛い。痛くて痛くて怖くて、寒い。

「なんで意地悪ばっかり言うの?」
「俺が悪いんだ?」
「私が悪いの? なんで私のせいにするの? なんで全部が私の責任なの? どうして優しくしてくれないの? どうしてそんな目で見るの!?」

感情いっぱい叫んでも、届かない。夜空の星はちっぽけな私を嘲笑うだけ。

「ナマエはさ、俺にこれ以上なにを求めてんの?」

そういって笑う。哀れむ微笑みが私の胸をバラバラにする。名前のない黒い感情に呑み込まれて、押し潰されて、染まっていく。沈んでいく。

「なにをって、私は、好きだからって言っ欲しいだけじゃん。前は外を歩けば手を繋いでくれたし、飽きるくらいキスしてくれたし、私が会いに来れば抱き締めて喜んでくれた。我儘言っても笑って許してくれた!」
「学生の時と社会人の今、変わるのは自然だろ」
「……なに、それ。社会人になったら人は冷たくなるってこと?」

今度は喉を鳴らして笑う。けれどその笑顔は無機質で、諦めたような顔。一静はなにを諦めたのだろうか。いや、「なにを」なんて考えたくないし知りたくない。それを知ってしまったら、私という存在が崩壊してしまう。

「ナマエも変わったよ。求めてばかりだ」

額を押さえて俯き、自身の乱れた前髪をかきあげた。諦めと、呆れと、疲労。そんな顔をさせているのは私。それを自覚した途端に明確な不安が襲ってくる。

「面倒でイヤになった? 嫌いになった?」

お願いだから違うと言って。好きだと言って。それを求めても、一静は何も言ってはくれなかった。

「私のこと、好き……だよね?」
「もー寝るわ」

誰の頭上でも等しく瞬く星の輝き。一静の無償の愛はもう、私には届いていない。いや、本当は愛なんて最初から無かったのかもしれない。なぜなら私は一静に、肯定はされてもはっきりと「好きだ」とは一度も言われたことがない。


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「ナマエも変わったよ。求めてばかりだ」

大好きな声で私の鼓膜を殴り付けた。そんな衝撃。いつからそうなんだっけ。なんでこうなったんだっけ。変わる前の私ってどんなだっけ。一静と付き合ったとき、私はどんな人間だったんだっけ?
私に向けられた広い背中を見つめても返事はない。そんな事実から目を背けたくて、目を閉じた。そして思い出す。一静と初めて会った日も肌寒い季節で、星が綺麗な夜だったことを。



「今日、彼氏が欲しくて来ました。だからその気のない人は話しかけないでください」

周りの男も女もドン引きしているのがわかる。けれどこの時の私は彼氏が欲しくて欲しくて仕方がなかった。大学生になって、高校生のとき付き合った彼氏は、遠距離になった途端うまくいかなくなった。その次にできた彼氏は、彼氏だと思っていたのは私だけで彼氏じゃなかった。すごくすごく好きだったのに、彼にとって私はセフレだったらしい。

彼氏が欲しい。誰かを好きになりたい。私を好きになって欲しい。求められたい、求めたい。私を必要として欲しい、私が必要としたい。誰かにすがり付いて、大声で泣き叫びたい夜に、会いに来てくれる温もりが欲しい。ぽっかり空いた穴を埋めてくれる存在が欲しい。それがないと立っていられないほど、私は弱い人間だから。
そんな想いで初めて参加した合コン。初端の自己紹介で他者を震撼させた私に、やわらかく笑って見せたのが一静だった。

「いいね、わかりやすくて」

二人で抜けようか、そう言って合コン開始十分足らずで、大きな手に引かれ居酒屋を後にする。ドラマのワンシーンの様ではあるけれど、初対面でこんなことをする松川一静という男を、私は測りかねていた。
こんなことをする目的は? 乗り気じゃない合コンを抜け出すための口実? それともヤりたいだけ? そんなのごめんだ。

「あの! なんのつもり!?」
「ん?」
「私、本気なんだから!」

引かれた腕を無理矢理に引き抜いて、足を止める。すると男は数歩進んで、立ち止まった。そしてゆっくりと振り向く。じっとこちらを見据える視線があまりに扇情的で、その瞳を見続けることができなかった。頭の中で警告音が鳴る。気を抜いてはいけないと。強張る身体に苦しくなる呼吸。けれどそんな自分を知られたくなくて、必死に顔に、手に、足に、己自身に力を込めて男と対峙した。

「あなたがどうかは知らないけど、私は本気なの」
「ああ、彼氏が欲しいってやつ?」

一歩二歩と距離を詰めて、目の前で立ち止まる。そして私を見下ろし、挑発的な声色で言葉を続けた。

「それって誰でもいいの?」
「誰でもよくないよ。私が愛せる人じゃないと」
「愛せる人、ねぇ」

そう呟いた彼は、私を馬鹿にしているのだろうか。一瞬そんな思考が過るが、そうではないと知る。

「初対面で誰かを愛せるの? 君は」

声が泣いていた。真剣で、それでいてとても寂しそうな顔だった。なんでかその表情が酷く綺麗だと思った。危なげで儚くて、今にも消えてしまいそうな、目を離すと見失ってしまいそうな弱い輝きの星。そんな美しさ。そう見えた。泣いてしまえばいいのに。それなのに涙一つ流さない男に胸の辺りがぎゅっとして、急にどうしようもなく松川一静という男が愛おしくなってしまったのだ。

「私はあなたを愛せるよ。あなたは?」


この後一静はなんと言ったんだっけ。覚えているのはちょっと困ったように、けれど少しだけ潤んだ瞳が印象的だった。今思えば、あれは一静の涙だったのかもしれない。もしそうなら、初対面で泣いてしまうほど一静は孤独だったのだろうか。何か傷を抱えていたのだろうか。辛く苦しい想いをしていたのだろうか。
それなら今は? 今もそうなら、その原因は私?急に自分の指先が凍るような感覚に襲われた。その感覚に目を開けると、夜が明け、朝日が部屋に差し込んでいた。

考え事をしていたつもりなのに、いつの間にか眠っていたようだ。寝ぼけた頭の動きは鈍く、布団から飛び出した自分の腕の色をただ黙って眺めた。次第に意識がはっきりすると、他人の、一静の体温が私の背面を包んでいることを理解する。そして視線の先に、自分と違う色をした、無防備に横たわる長い腕。その指先の、整った爪の曲線をなぞると、それに反応するように一静の指先が私の人差し指へと集まった。

「起こしちゃった?」
「いや、起きてた」

昨夜の寒々とした空気も、名前のない不安ももうない。それらは夜と共に消えてしまったようだ。

「懐かしい夢を見たよ」
「へー。どんな?」
「一静と初めて会った日の夢」
「確かにそれは懐かしいな」

それからぽつりぽつりと思出話をした。初めてデートした場所。一静の友達に紹介してもらった日。大喧嘩した日。仲直りした日。一緒にいろいろな場所へ行った。よく覚えている。思い出が蘇る。それなのにわからない。いつからこんなに求めてばかりになってしまったのだろう。私は一静を好きだし愛している。けれどちゃんと愛せていたのかな。愛せているのかな。私たち、お互いを駄目にしていない?

「ねえ、一静」
「ん?」

愛ってなんだろうね。

「私と別れたい?」
「は、なんで?」

どうして愛って見えないんだろう。見えてしまえば楽なのに。そうすれば一緒にいる理由も離れる理由も明確にわかるのに。でも愛が見えなくてもわかる。好きな人を不幸にするのは、愛じゃないよね。

「私と付き合ってると一静、駄目になっちゃわない?」

背後で一静が細く息を吸い込んだ。そして次には、彼の肺が小刻みに震えている振動。その振動は、笑みを堪えているように感じた。

「それは逆なんじゃないの? 俺と付き合ってると、ナマエが駄目になっていくんじゃねぇの?」

予想していなかった言葉に驚いて一静の方へ身体を向けると、笑っているように感じたその表情はなく、むしろ蔑むような目付きで私を睨み付けていた。

「つーか、そうなればいいって思ってたし」
「そうなればって……。一静そんなこと考えてたの」
「ん? まあ」
「え、なんで?」
「なんでって。誰かに求められるのは心地がいいもんだろ?」

それは私も同じだ。自分の欲求を満たすことしか考えず、心地のいい言葉を一静に言わせていた。強要していたのだ。あの合コンで、私と一静は誰かを求めていた。求めてくれる人、求めたい人。それはまるで傷の舐め合いみたいな行為だった。そんな関係は今も変わっていない。そんなの、そんなのって、愛とは呼べないんじゃない?

「なんかさ、ちゃんとした関係をつくれなかったのかな、私たち」

ちゃんとした、ねぇ、そう悩ましげに間延びした音を呟いた一静は、目を細めて私の頭の下にある腕を曲げ、触れるか触れないか。そんなくすぐったい触りかたで、私の髪を耳へとかけるように一静の指先が滑る。まるで幼子をあやすような触れかただ。そのくすぐったさに鼻先を一静の肩口へと寄せると「ナマエはさ」と、少し低くなった声が体内を震わせた。

「ナマエはなんだかんだ俺がいなくても、明日には彼氏が欲しいとか平気で言うんだろうな」
「何それ……。何でそんなこと言うの?」
「昨日は寂しくて死ぬみたいなテンションだったのに、朝になったら別れようかっておかしいだろ。情緒大丈夫かよ」
「……いつになく辛辣。私、一静のこと、好きだし愛してるよ。でもちゃんと愛せていたのかなって。一緒にいないほうが一静は幸せなんじゃないかって…」…
「普通はさ、その情緒をなんとかしようと思わねぇの? さんざん喚いて最後は逃げんのかよ」
「逃げてなんか!」

逃げてなんかない。そう言って身体を起こすと、一静が「逃げんな」と私の髪の毛を掴み動きを制止させる。ぴんと一直線に張った髪。頭皮に少しの痛みが生じるが、一静の怖いくらいに真剣な顔に何も言えなかった。

「俺はナマエを愛せるよ」

ぱらぱらと一静の指から滑り落ちる髪に神経が通っているような感覚になった。五感、それ以上に感じる。目も耳も肌も。全てが研ぎ澄まされたような感覚。

「ナマエは? 俺のこと愛せないの?」

今の自分の感情がわからない。嬉しいのか悲しいのか。驚いているのか冷静なのか。ぼろぼろとこぼれ落ちる涙の理由もわからない。でも勝手に口が動いた。

「あいせる、愛せる、よ」
「へえ?」

ゆっくりと一静の手がのびてくる。そして私の涙をすくいあげながら目尻から頬にかけて、優しく親指が滑る。

「結婚しようか」

吸い込んだ息が氷のように冷たく固かった。それなのに体内は燃えるように熱く、どろどろと溶けていく。思考も視界も溶けて混ざり合う。ぐちゃぐちゃになって、ひとつになる。それはきっと愛。陰も陽も善も悪も全部混ざって、きっと愛になる。

「お互いに腹くくって、ナマエのいう“ちゃんたした”関係をつくろうか」
「……一静って、思い付きでそういうこという人だと思わなかった」
「ん。俺も」

まだ泣くのかよ。呆れたように一静は笑う。泣くよ。だってもう訳がわからない。私も一静も誰でもいい誰かを探してた。それがたまたま私で一静で。二人で過去の傷に包帯を巻いて隠した。隠したまま理由なんか話さず、ただ慰めるように寄りかかっていた。それをやめる。やめる? やめることなんてできるの?

「結婚……したいの?」
「どうだろうな」
「えぇ、何それ」

窓の外から朝の音がする。

「今のままでいいとは思えなかった。それにそう思ったのはナマエだろ?」
「それは、そうなんだけど」

一日の始まり。そんないつもの音が、終焉の音に聞こえた。この世の終わり。そして始まりでもある。それはやっぱりとても勇気が必要で、怖くて一歩も動けなくなってしまう。

「怖いの」
「何が」
「変わるのが」
「別れる変化は受け入れられんのに、俺のことは受け入れられねぇんだ?」

怒ってるみたいな声。シーツについた私の手に、一静の手が重なる。刺々しい声を出しておきながら、重なった手は温かくて、本当に今までの二人に終わりがきたのだと思った。

「だって一静、私のことを愛せても、好きじゃないでしょ?」
「好きでもないやつを愛せるかよ」
「でも好きだって言われたことない」
「安心したらナマエ、どっかにいきそうって思ってたんだよ」

重なった手元のシーツの皺が増える。

「一静と一緒にいたい」
「うん」
「別れたくない」
「うん」
「でも、私も一静も話さなきゃいけないことがあるんじゃないのって、思うの」

うん、そう呟きながらゆっくりと近づく一静。瞬きとともに自分の目から流れる涙。終わりと始まりが交互にやってくる。そして息の触れあう距離。ゼロの距離になったとき、ここが終わりなのか始まりなのかわからなくなっていた。ただ、言葉を紡ぐ度に震えていた私の唇に触れた一静の唇も、微かに震えていた。

「話さなきゃいけないことって?」

離れた唇は再び私の唇に触れて、静かに離れた。ゆっくりとゼロの距離から少し遠ざかる。カーテンの隙間から入り込む光に照らされた一静は、見たことのない顔をしていた。きっとそれは私も同じ。

「例えばナマエはどうして昨日みたいな夜が駄目かとか?」
「例えば一静はどうして私に安心をくれなくなったのかとか」

久々にほどいた包帯の下には何もない。長年巻いていた包帯のせいでちょっと肌が荒れたくらい。今になって、いざ開けてみればそんなものなのかもしれない。そう思えるのは、私と一静だから。誰でもよかったわけじゃない。私と一静じゃないと駄目だった。そう想ったって、そう願ったっていいよね?

「なにから話そうか」


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孤悲をした過去がありました

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