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「今日ってどんな仕事だったのかな? 休日出勤、最近多過ぎじゃない? それにさこの前、仕事でミスしたっていうあの時の後輩の子に、お礼させてくださいって言われてご飯行ったんでしょ? どんな話したの? 一静のことだから、また相談にのってるんじゃないの? 上司と部下の関係なのはわかるけど、一静がそこまでしてあげる必要ってあるのかな。その後輩は一静に特別な感情があるんじゃないの?」

私は一息で捲し立てた。目の前の男はゆっくりと薄いグラスに入ったビールを口に含み、困ったように笑う。

「……俺に言われてもね。松川に言えよ」
「言えないから花巻に言ってるんでしょうが!」

映画を見終わった私たちは、昼間から「女子会歓迎」と看板の掲げられたお店でお酒を飲んでいた。

「本当に仕事なのかってどういう意味?」
「いや、どうって別に。適当に言っただけだって」
「なんか知ってるんじゃないの。ねえ」

一瞬目を泳がせたのを私は見逃さない。

「なんとか言いなさいよ」

花巻は「いや」だとか「あー」だとか。ごちゃごちゃ言葉を濁して、上唇のふちを爪先でなぞり、口元を隠すような仕草をする。煮えきらない態度に私は右手の人差し指と中指。ベージュで塗り固められた二枚の爪を、花巻の目玉に突き立てた。

「ねえ、私たちそれなりの付き合いじゃない。隠し事なんて酷いわ。傷つく」
「おいおい。落ち着けって」
「落ち着いてる。でも少し酔っているから、間違いが起きたらごめんね」

悩ましいため息をひとつ。そして「別に深い意味はない」と前置きをして、重そうに口を動かした。

「この前居酒屋で松川といた後輩の女の子。なんか見たことあんなーって思ったら、高校の時の後輩だった」
「それで? それだけのことで隠したりなんかしないでしょ?」
「あー、それで。それで……。まあ、なんて言うか。早い話、元カノみたいな?」

付き合っていないって本人は言ってたけど、俺らが三年のときにあの子は一年で。委員会が同じだかなんだかで、時々一緒に帰ったり、昼飯食ったり。でも卒業したらそれっきりだったんじゃねえかな。松川、普通に大学で違う彼女いたし。
そんな話をされて、はいそうですかって安心できるわけがない。なにそのキラキラ爽やか青春ストーリー。何もない方が問題あるよね? 未練後悔たっぷりじゃない? 今まさに燃え上がる寸前なんじゃないの? むしろ今燃え上がっちゃってるんじゃないの?

「泣きそう」
「げ、なんでだよ」
「憧れの松川先輩と社会人になって再会。会社では上司と部下。しかもピンチのときには助けてもらって、」
「わかった、言うな。……とりあえず飲もうぜ、な」
「……化粧直ししてくる」
「おう」

広くない化粧室の壁は黒く、控えめな照明。暗い空間。そこにぽっかりと浮かび上がる、楕円形の鏡と手洗い場。そこに立つ私の真上に裸電球が吊るされている。それはまるでスポットライトのよう。その鏡の前で呆然と自分の顔を眺めた。今、一静はどこにいるんだろう。仕事、だよね。それにその後輩ちゃんに気があったとしても、一静は浮気なんかしない。普通に私を振るはず。「ごめんな」って、優しい顔して言うんだきっと。

そんなことを考えていると、控えめに開かれた扉から光が差し込んだ。まるで主役のご登場かのように光を浴びながら現れたのは、見覚えのある顔。

「あ、すみません」

あの後輩ちゃんである。驚いて固まる私の後ろを通って、個室へ姿を消した。偶然? いや、そうでなくちゃ困る。私は落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせながら花巻の待つテーブルへと戻った。すると花巻が慌てたようになにか目配せをしてくる。けれどそれを理解する前より先に、足が止まってしまった。だって私の席の隣には、会いたかったはずなのに、今一番会いたくない人がいたから。

「一静」

一静は振り向いて、いつもと変わらない声色で「映画、楽しかった?」と口にした。

「あ、うん。それより、仕事は?」
「思ったより早く片付いた」

早く仕事が終わった。それでなぜここに? そう思っていると花巻が「俺がここで飯食ってるって松川に連絡した」と早口に喋る。そうだとしても、なんでそんな連絡したの? そんな流れじゃなかったじゃない。

「花巻に俺から最初に連絡したんだ。今なにしてんのって」
「え? あ、そうなの?」
「そう。そしたらナマエと映画観てここで飲んでるって。本当に仲がいいよな」

徐々に早まる口調。強まっていく語尾。「立ってないで座れよ」そう穏やかな風に装った声は、確実に苛立っていた。どうして? もう私の中で「どうして?」が多すぎて、頭が追い付かない。正直パニック状態である。そんな時に、新たな情報が加わる。

「い、一静くん!」

上擦ったソプラノ。明るい場所で見た後輩ちゃんは、サックスブルーのブラウスにホワイトのフレアスカート。品よくまとめられた髪は、後れ毛までしっかりと巻かれていて、完璧な仕上がり。足元の、ブラウスと同じカラーで揃えられたヒールは、まるでガラスの靴みたい。そう、この後輩ちゃんは主人公。本物のシンデレラのような出で立ちだった。

「いっせい、くん……?」
「あ、すみません! えっと……」

一静くんって、なに? 私と一静、花巻が座るテーブルの横で立ち止まった後輩ちゃんは、落ち着きなく「昔からの知り合いで」と挨拶をした。

「とりあえず座ったら? 一静と一緒に来たんでしょ?」

違うと言って。そう願ってみても、真実はすぐ目の前だ。

「し、失礼します。えと、はい。松川さんと、職場で会いまして……それで一緒にここまで……」

いつもお世話になっています、とありきたりな言葉を続ける。今日も仕事で──なんたらかんたら。この前の仕事では──なんたらかんたら。もう全部がなんたらかんたらとしか認識できなかった。

「ナマエ?」

そう私を呼んだのは、大好きな声。

「あ、ごめん。なに?」

聞いてなかった。そう続けたかったのに、言葉が出なかった。その代わりに涙がぼろぼろこぼれていた。嘘でしょ。待って、止まって。理由もわからず急に泣き出す女とか最悪じゃん。

「あれ? ご、ごめん。なんか、えっと、」

三人が私を見ている。当たり前だ。なにか言い訳を。そう考えたのは一瞬だけで、私は席を立ち「ごめん」とだけ伝えてお店を飛び出した。そして目と鼻の先の駅まで走って、滑り込むようにしてタクシーに乗り込む。ふと見上げたバックミラーに一静が映った気がしたけれど、もうそれどころではなかった。


-------


マンションにつき、部屋に入った途端私は玄関で崩れ落ちるようにして泣いた。涙が止めどなく流れ落ち、声を上げて泣いた。自分でもよくわからなかった。なんでこんなに泣いているのか。なにが悲しいのか、なにが辛いのか。その答えを考えたくなかった。気づきたくなった。けれど現実はどんなに逃げても、いつだって私の背後にいる。

部屋のチャイムが鳴った。大袈裟なくらい全身が跳ね上がる。この音に心臓が止まるのではないかと思ったのは、初めてだった。恐る恐る覗いたモニターに映っているのは、一静。その姿を見て胸が苦しくなる。今日ほど彼に会いたくないと思ったことはない。

「……はい」
「俺」
「うん」

私は一静が口を開く前に「今は会いたくない」そう伝えた。その言葉を吐き出しているとき、喉の奥から、歯の隙間から、涙の滲んだ声が漏れてしまいそうになった。

「会ってくれるまでここにいる」

私はモニターを消して、彼の存在を忘れるようにしてシャワーを浴び、いつものスキンケアをして、首もとのよれたトレーナーに、ウエストのゴムが伸びたスカートを履いた。換気をするために浴室の小さな窓を少しだけ開けると、隙間から見えた景色は雲のふちが赤く染まり、今日という日が終わることを告げていた。


さすがにもう帰ったであろう。そう思って私が部屋を出たのは、辺りがすっかり暗くなった頃。軽食とアルコールでも買おうと、マンションのエントランスまで降りてくると、ガラスの向う側に一静が闇に紛れるようにして立っていた。足が止まる。今ならまだ一静は私に気づいていない。部屋へ戻ろう。そう思ったけれど、同じマンションの住民がエントランスの扉を開けたことにより、視線が交わってしまった。それなのに一静は、ただ私を見据えるだけで、身動ぎひとつしなかった。

静かに扉が閉まる。私と一静との美しいガラスの境界線。それに触れたくない。何も聞きたくない、知りたくない。夢から覚めてしまう。私にはシンデレラの靴を履けない。それでも一静を目の前にして、彼を本気で拒むことなんてできない。

「入って」

マンションの中から部屋につくまで、私は一度も振り返らなかった。そして今、部屋に入ってもそれは変わらない。変わらないけれど、背中に一静を感じていた。

「俺の話聞いて。このままでいいから」

お腹の辺りできつく結ばれた一静の腕。その腕の結び目、一静の指が微かに震えているように見えた。さようならを抱き締めて言うなんて、なんて残酷な人なんだろう。愛しさと悲哀を感じながら、私は黙って一静の言葉を待った。その最中、普段は気にならない部屋の時計の秒針の音が、やけにうるさく時を刻んでいるような気がした。

「俺さ、ナマエが花巻と二人で飯食ったり出掛けたりするの、本当はすげえ嫌だった」
「え」

予想の180度違う言葉に思わず振り返ろうとすると、一静が腕の力を強めてそれを阻止する。

「だって一静、最初に私と花巻は友達なんだから、そういうの気にしなくていいって」
「俺と付き合ったらから会うのやめてくれとか、そんな懐の狭い男だと思われたくなかったんだよ。ダサいだろ。花巻の紹介で知り合ったようなもんなのに、付き合ったらその花巻と会うななんて」

そんなの、知らなかった。

「ずっと、毎回嫉妬してたよ。この前、花巻の転職祝いする居酒屋に後輩を連れて行ったのはわざと。二人で酒飲まれるのが嫌だったから」
「そんな、言ってくれたら」
「言えるかよ。ナマエは俺に不満も愚痴も何も言わねえのに。俺とは違っていつも余裕だよな」
「そんなこと、……ないよ」
「……だな。だから今、こうなってんだよな」

ごめん、と小さく呟いた一静は、「俺に言いたいことない?」と、私の涙のわけを掬い上げる。

「……あの、後輩の子は、どういう関係なの? 高校の後輩で、それで、……元カノって、花巻が言ってた」
「高校の後輩だけど、元カノじゃない」
「嘘! だって一静くんって、呼んでた。ただの後輩がそんな呼び方しない」
「ただの後輩では、ないな。実家の近所に住んでた子。母親同士が仲良くて、小さい頃は何度か遊んだことがある。でも学年も性別も違うし、小学校に上がった頃には、顔を合わせれば挨拶する程度の仲」
「高校の時、一緒に帰ったり、お昼食べてたって」

呆れたため息を吐き出し、一静は嫉妬の念を隠すことなく声にそれを含ませて「花巻情報かよ」と乱暴な口調。そして一呼吸置いて、どうでもいいことを言うみたいに「花巻のことが好きなんだ。あの子」と抑揚なく吐き出した。

「高校の時、その相談を何度かされた。相談料に昼飯奢ってくれるって言うから、何回か飯食った。でも花巻に付き合ってるって誤解されてから、そういうのはやめた。就職先が俺の会社だったのは偶然。それであの日、居酒屋で花巻をみつけて、まだ気がありそうな素振りだったから、一回飯でも食えばと思って今日花巻に連絡した。そうしたらナマエがいるんだもんな」

しらけたような、自嘲するような息が私の耳を撫でた。

「なあ、いつも花巻と会う時も、俺と会う時みたいな格好してんの?」

私を抱き締めていた手がほどけた。そして片手で腰を抱き、もう片方の手は私の中心を撫でるようにお腹から上へのぼってきた。鎖骨、首、顎までくると、頬を四本の指が包み、ゆっくりと親指が唇をなぞった。

「今日が一番妬けた」

こっちを見ろ。そう言っているみたいに私の顔を傾け、一静の焦げるような眼差しが私を責めている。

「いつもは、一静がいない時はもっと適当だよ。今日は、もしかしたら一静から会おうって連絡くるかもって思って。でも、一静は後輩の子といて……」
「仕事があったのは本当。それにナマエ、一人で映画観るの好きってよく言うだろ。だから本当は一人で観たいんじゃないかと思ってたところはある」
「それは!……私は映画館で観るの好きだけど、一静が映画館より部屋でDVD観る方が好きって前に言ったから、付き合わせるの悪いと思って」

「いつの話だよ」そう言って一静は笑った。いつってそんなの、付き合った日のことだと言おうと思ったけど、腰を抱いていた一静の手がトレーナーの中に滑るようにして潜り込み、ウエストのラインをじれったく蠢くものだから反論し損ねてしまった。

「そんなん、部屋に連れ込む口実」

低音が鼓膜を揺らす。その響きに背中がざわめくようにして粟立った。もう全てがどうでもよく思えてきてしまうような、浮わついた気持ちになる。けれど一静が「他には言いたいことないのか」と、先ほどと同じ音で私に囁くものだから、溶けそうな思考を必死に働かせた。

「最近、休日出勤が多いのはなんで」
「金、貯めたくて」
「……お金。そう、なんだ」
「引っ越そうと思ってる。もっと広い部屋に。できれば、ナマエと一緒に住めるような場所に」

「え」と私の感情が音になる前に、唇を撫でていた一静の親指が下唇を柔くめくり、ウエストラインをさ迷っていた手が再び腰へ絡み付いた。

「俺はナマエが思ってるような男じゃない」

めくられた下唇の内側を、一静の舌が音もなく這いずる。そして唇がゆっくりと挟み込むようにして触れて、離れていった。

「本当は嫉妬深いし、独占欲を押し付けたいし、余裕なんてない」

もどかしいキスをするように、唇が触れそうな距離で彼の声が私の中で木霊する。

「それでも俺が記念日にプロポーズしたら、受けてくれる?」

痛いくらいに私を抱き寄せた彼は、泣いているみたいに声を詰まらせた。でも実際に泣いているのは、私の方だった。
私は泣きながら一静に告げる。私もあなたが思っているような女じゃないの。

「それでも記念日に、プロポーズしてくれますか?」

一静は何も言わなかった。何も言わず、全部を受け入れてくれたみたいに、幸せなキスをした。


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偽りシンデレラ

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