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冬独特の殺風景だと感じる街の端々に、淡い春の色が灯り始めた。鼻を刺すような冷気が穏やかになり、やわらかな花や草木の匂いがする。眠っていた動物たちの動き出した音が、どこかで聞こえてきそうである。
春というのは、様々なものの訪れだ。そして俺にとって春は、記憶が蘇る季節。春は、キミを連れてやってくる。けれど今年は本当にキミがやってきた。

「あ、もしもし? 天童くん? ねえ、聞いてよ」

さんざん悩んで再生させた、留守電のメッセージ。しかし開口一番、この声を聞いて不思議な感覚にとらわれた。なぜならあまりに思い出の中のキミ、そのまま過ぎたから。

「私、今病院でさー。初めて手術、したん、だけどさ」

話し口調、気の抜けた笑いかた。涙ぐんでいても、どこを探しても紛れもなくキミの声。

「ご飯がね、ほぼ水。液体なの。笑っちゃう、よね。本当に病人だよ、私」

声をつまらせながら俺を呼ぶのは、どこまでも思い出のままの姿のキミ。笑うと少し鼻にシワが寄る。怒ると瞳孔の開ききった目がすごく怖い。涙を流すと下睫毛に大きな水滴ができる。そんなキミ。まるであの時の、高校生のキミが俺へ電話をかけてきたのではないかと錯覚させるほどに。

「……ねえ、今から変なこと、聞いていい?」

俺にとって高校生活というのは、生涯忘れることのない宝石のような思い出。そこに添えられた花。それこそがキミ、ミョウジナマエの存在。

「今って、西暦何年?」

電流が流れたように、電話越しの声が耳から全身へと走り抜け、昔の記憶がはらはらと舞い降りた。


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スポーツ推薦で入学した白鳥沢学園。春休みから寮に入って部活に参加すれば、同じ推薦入学者たちは初対面ではないらしく、顔を合わせて早々に「久しぶり」ってな感じで意気投合していた。そいつらは俺でも見たことのあるなと思う顔ぶればかり。そして入学式を終えて一般入試からの入部者が加わると、「どこそこ中学の誰それだ」とか。「県選抜に選ばれていたアイツだ」とか。会話をしたことがないような人にまでにも認識されている、バレーでの有名人。そんな推薦組の中にいる俺は、誰の記憶にもない。アイツ誰? って感じの視線。高さがあって、白鳥沢バレー部の理念に当てはまったから呼ばれた。そんな俺のことを周りは誰も知らない。

そりゃそーだ。強い中学校ではなかったし、俺個人だって、賞だとか選抜だとかに選ばれた経験はない。だからって別になんてことはない。ヤッホーよろしくネーって挨拶するだけ。それなのになぜかふと思い出す、中学の卒業アルバムの真っ白いページ。漠然と怖くなった。誰の記憶にも残らない。なんて、悲観的過ぎる思考。別に特別仲が良かったわけではないけど、隣の席の人とか同じ委員会の人とかバレー部員だとか。毎日誰かしらと会話をしていた俺は、確かにそこにいた。当たり前に存在していたはずなのに、誰も思い出しもしないなんて、存在しないのと同じではないか。それを寂しいとは思わないけど、つまんねーな、とは思う。

そんなセンチメンタル的な考えが浮かんだのは、十五年間暮らした家をでて、母ちゃんの飯が恋しく思えたからであろう。だって寮の飯多すぎだし、先輩こえーし、体育館より外にいる時間のが長いし、ボール拾いのボール多すぎたし、筋トレきつすぎて身体バキバキだし、足の裏の剥けたことのない皮ずる剥けだし、夜にようやく自主練かと思いきやまたボール拾いだし。布団に入れば三秒で寝れて、体感的に五分後には朝。

はーしんどい。しんどいけど、俺を認めてくれた人が呼んでくれたからな。一応頑張るゾー的な感じで入学決めたしな。俺、バレー頑張るゾーって。でもさ、俺はバレーっていうかブロック。ドシャット決めるのが好きなんだよね。俺のこと見下してたヤツの、悔しそうに歪む顔が痛快で爽快で快楽で。そもそも俺、走るの好きじゃねえし。運動が好きなわけじゃねえし。

「俺、部活辞めます」

なんて言っても誰も止めてはくれないんだろうな。そんで辞めたとして、何ヵ月か後には俺がバレー部だった、推薦で入学した、なんてこと周りは忘れてしまうんだろうな。そしたら漠然としていた恐怖、人の記憶に残らないってことが、はっきりとした輪郭を現し、それに怯えた。だってこんなしんどい思いしてんのに、消滅してしまうなんて怖すぎでしょ。

そんなくだらないこと考えながら、ロードワークの道を外れて、一緒に走っていた部員の背中ではなく、空に敷かれたピンクを追いかけた。走りすぎて吐きそうで、ちょっと休憩という名のサボリ。だってこのまま走り続けたら吐いちゃう。マジで。

足を止めて見上げたピンク。毎年見ているはずのそれは特別美しかった。早朝の空の色と桜のピンクと、ちょっと寒い気温が、なんでか優しく思えた。当たり前だけど、バレーがなくても桜は咲くし季節は変わっていくんだなって。狭まった視野が開けたというよりは、通常に戻った。そうやって暫くぼーっと桜を見ていると人の気配がして、視線をさげたときにはでっかいワンコがいた。

「すみません」

そう言って小さく頭をさげた女の子は、最近見慣れた紫のスカート。まだ新しい質感のウインドブレーカーの左肩には「ミョウジナマエ」の刺繍。同じ学校のたぶん同じ一年。たったそれだけの共通点に興味が湧く。こんな時間にこんな場所で同じ学校の同級生が。偶然と呼ぶにはなんだか勿体なくて、特別な言葉をあてがいたいと思う俺は、本当は誰かの記憶に存在したいのかもしれない。

目が合うと吃驚したように瞳を大きくさせた彼女にますます興味が出て、注意深くこちらを覗く視線がもしかして俺のこと知ってるのかなって思わずにはいられない。

「大丈夫だヨ」

そう伝えても彼女の緊張は解けないようで、全身が強張っているのが見てわかる。それとは対照的に、ワンコは俺にすり寄るようにして距離を詰めてきた。疲れた身体にでっかいワンコは癒しでしかなくて、嫌がらないことをいいことにしゃがみこんでせっせっと撫でてみる。ウン。めちゃくちゃ可愛い。そうやって手を動かしながら、あれこれ適当な会話をして知る。この子、俺のこと全然知らないんだなって。バレー部ってだけで結構違うクラスの人にも話しかけられるから、この子もそうであるなんて自惚れだったなと反省。
時間やばいなーと考えつつも、どうせ学校に戻ったら怒鳴られてなにかしらのペナルティーがあるんだろうから、今だけでいいからワンコに癒してもらうことにする。

「懐っこいネ」

いいこだねって犬の毛並みを楽しんでいると「綺麗な女の人にはすぐ懐く」なんて言うもんだから、少しの感動を覚えた。本当は女の子が好きなのに、疲労困憊な俺を慰めてくれるのかって。

「犬なのに面食いかよ! つか俺男のなのにー」
「でも綺麗だから、」

聞き間違いかと思った。けれど見上げた視線の先。大きな目を泳がせて固く結ばれた口は、聞き間違いではないと教えていた。変なやつとか、よくわからないとか、妖怪とか。そんな言葉しか知らない俺にどうしてそんなことを言ったのか。

「綺麗? 俺が?」
「いや! 違っ! ……わない……です」

顔を赤くさせてもごもごと口を動かす。桜舞い散る中、俺を綺麗だ言った彼女は可愛らしかった。あまりに可愛くて笑ってしまった。そんな彼女に覚えていて欲しいと思った。今日この瞬間。朝の気温と、桜のピンクと、俺のこと。学校で俺を見かけたら全てを思い出して、声をかけて欲しい。そのためにはどうするか。そんなの記憶に刻むしかない。

最初はほんの悪戯心だったんだ。

「今って西暦何年?」

変な人でいい。強烈に記憶に刻んで欲しい。それだけだった。俺を不審そうに見ながらも、どこか興味津々な瞳。その瞳を捕まえてしまいたかった。だから学校内で再会した時の反応は嬉しかった。俺のことを覚えていてくれて、あれこれ頭を悩ませては俺を思い出していただろうことが。俺の思惑以上の反応をした彼女。それが嬉しくて嬉しくて仕方がなくて、ちょっと口走ってしまった。

「そういうの好きヨ!」

みるみる顔を赤くさせた彼女を見て、自分の発言を思い返す。ちょっとはしゃぎすぎたな、と思う反面、俺の言葉で顔を赤らめる彼女をもっと見たくなった。

「好きだよ」

意図的に繰り返した言葉。彼女を赤くさせる魔法の言葉。使えば使うほど、彼女の記憶に刻める気がした。けれどその魔法は代償が伴った。後に気づく。魔法だと思っていたそれは、呪いだった。使えば使うほど己に返ってきた。彼女を好きになってた。「好きだよ」って言葉はいつしか「俺を好きになって」に変わってたんだと思う。俺を好きなってくれないかな。それでいつまでも、永遠にキミの記憶に存在し続けたい。そんな願望が花開くなんて思ってもみなかった。

「そんなところが……す、すきだよ!」

震えた小さな唇。力強い瞳に影を落とす睫毛、一本一本が正確に見えた気がした。それだけ鮮烈に響いた。髪も肌も纏う空気さえも鮮明に映る。心を燃やす。息を忘れるほどに吃驚した。それと同時に全身が冷たくなった。それは魔法を使い果たしたからか、呪い殺されたのか。ただ理解できたのは、ひとつ、願いが叶ったということ。

願いが叶ったその先は? 考えたこともなかった。想いが通じたらどうなる? 付き合う? 部活に学業にさらに恋愛? そんなの別れてしまう未来が目に見えている。それでミョウジちゃんは、将来素敵な男と付き合って、いつかは結婚して。同窓会なんかで思い出すんだ。そういえばこんな恋愛もしたなって。そんなこともあったな。そんな元カレのうちの一人になるのなんて、ごめんだ。俺は、キミの忘れられない人になりたい。

だから逃げた。逃げて、追いかけられて。振り向いてキミがいなければ、探して手招きをした。ずるい酷いヤツでいい。毎年、春がくるたびに俺を思い出せばいい。俺を綺麗だと言ったこと。好きだと言われたこと。俺の腕の中で泣いたこと。好きだと言ったこと。告白を無下されたこと。ナマエちゃんって名前を呼ばれたこと。桜を見て、俺を思い出せばいい。一生、そうやって苦くていいから覚えていて欲しい。
俺とキミはそれがハッピーエンドだから。俺はキミとのハッピーエンドしか認めない。


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彼女、ミョウジナマエは俺の中で生きる永遠の美しい思い出。恋とか愛とかそんなものでは収まることはない。失われることなく、裏切ることなく、永遠に完璧なハッピーエンド。絵本と同じ。お姫様は王子様と結婚して、お話はおしまい。ヒーローはラスボスを倒したらおしまい。ハッピーなところでやめとくから、ハッピーなエンド。幸せな結末。俺にとってナマエちゃんは、そんな存在。汚れのない純白に生きる思い出。お気に入りの絵本を読むように、何度も読み返しては、その美しさを懐かしみ、ちょっと焦がれて、また大事に本を閉じる。それでよかった。それがよかった。それなのに崩落してしまった。急に、あっけなく、留守電ひとつで。ハッピーエンドには続きあった。それがハッピーなのかバッドなのかはわからない。

「あ、もしもし? 天童くん? ねえ、聞いてよ」

そう始まる電話口。高校生の時は何度も聞いたお決まりのセリフ。そのセリフで始まる留守電は、三件目になっていた。その内容は「コンビニの新商品がヤバイ」とか「月9の録画ができなかった」とか「お母さんがアイドルにハマりだした」とか。昔となんらかわりない話題。最初の留守電の、薄暗い影を微塵も感じさせない。それどころか、ナマエちゃんは高校生なのではないか? なんてバカげた発想が浮かぶほど明るく、昔のままだった。それでも昨日の留守電の後ろでハッキリと聞こえた。

「あ、いたいた。ミョウジさん、検査の時間ですよ」

そんなハリのある声。やっぱりナマエちゃんが病院にいるのは間違いないらしい。その事実が胸をざわめかせる。電話をかけ直しても、決まって電源が切られていた。電話がかかってくるのは偶然か、必然か。決まって俺が電話に出れない時。それがなんだか特別に思えた。
「運命」なんて、陳腐な言葉だ。けれど偶然の積み重ねをそう呼ぶのならば、俺とキミにその言葉をあてがってもいいだろうか。パリから地元へ帰ってきて二日目にかかってきた電話。それも冬の終わり、春に指先が触れている季節。春、俺にとって春そのものがもう、キミで支配されている。そんな時期にかかってきた電話。

たったの三十秒。俺とキミが繋がる時間。その中でナマエちゃんはわざとらしく、病院名と退院する日を四件目の留守電に詰め込んだ。ハッピーエンドの続きを見に来いと言っているのだろう。キミにとっての、人生の一ページに過ぎない俺に電話をかけてきた。そうさせたのはほかの誰でもない。俺だ。俺がそうさせた。だから知るべきなのかもしれない。キミをそうさせるのに至った原因。俺を待ち構えている結末を。


あの時に似たピンク色を集めた花束を手に、病院のエントランスの外で彼女を待った。ナマエちゃんを待つ間、いろいろな不安が生まれた。手術をしたらしい彼女は大丈夫なのだろうかとか。病気なのか、大怪我をしたのかとか。そして、卒業してから約十年。俺はキミを見つけられるだろうか。キミは俺を見つけてくれるだろうか。そんな不安が渦巻いていた。けれど後者の不安はすぐに消えることとなる。

静かに、確実に人が流れ動くガラスの向こう側。一目でわかった。きっとナマエちゃんも一目で気づいてくれた。当たり前に高校生ではないナマエちゃんに、手を振ってみる。するとナマエちゃんは怒ってるみたいな顔をして、俺の心配を余所にスカートを揺らしながら、大股でこちらへ向かってきた。そして閉まりかけた自動ドアに身体を滑り込ませて俺の前に立った。

懐かしい目線の高さ。薄そうな肩を持ち上げて、細く呼吸をする身体。服から覗く肌が青白く見える。唇もあまり血色がいいとはいえない。そんな唇が何かを言おうと歪むが、俺が持つピンクに目を丸くさせて動きが止まった。

「退院、オメデトウ」

思ったよりぎこちなく出た言葉に、ナマエちゃんは「ありがとう」と少し声を詰まらせた。昔と変わらない瞳が少し潤んでいるのは、俺のせいだろうか。そうだったらいいな、なんて口にしたらナマエちゃんは口を尖らせて、その右手に抱えた大きな鞄を俺に投げつけるのだろうか。そうなる前に、花束と交換してナマエちゃんの鞄をそっと奪う。

「どこからきたの?」

電話口とは違う。少し寒くて少し暖かな空気を震わせて俺の耳を直に撫でる音が、すごくリアルだ。

「家から来たヨー? でもまあ、ある意味すごく遠くからもきたよ」
「なにそれ。歩いていけないとこ?」
「うん。歩いても走っても、車でも電車でも行けないとこ」
「めっちゃ遠いじゃん!」

笑うとできる鼻のシワ。変わらない笑顔。それに小さな安心を感じながら、歩きだしたナマエちゃんに続いた。少し先を歩き、背伸びをしながらとりとめのない話を俺にする。昨日見たテレビ番組。晩御飯。今日好きな俳優がでる番組情報。ナマエちゃんの手術したという近況と、約十年ぶりという再会に緊張している俺に構うことなく「久々に会った気がしないね」なんて言う彼女は、思い出の中のキミ過ぎて戸惑ってしまう。

「ナマエちゃん、大丈夫なの」
「なにが?」

振り向かない彼女は、どんな顔をしているのだろうか。ついさっき現在のナマエちゃんを見たと言うのに、なんでか思い浮かぶかのは過去のキミ。

「手術したって」
「いや、死ぬかと思ったよ本当に。虫垂炎でさ」
「チュウスイエン」
「盲腸」
「あぁ、盲腸」

馴染みのある病名にホッとしたのも束の間。

「一部破けてて、もう少し遅かったら本当にヤバかったって」

ケラケラと笑う姿に腹が立った。ナマエちゃんの命はそんな笑い話にしていいものではないと、怒鳴ってしまいそうになった。けれども泣きながら「今、西暦何年?」と、そう俺に問いかけたナマエちゃんは、少なからず俺に仕返しをしたいのだろう。少しでも俺に腹を立てさせ、嫌な気持ちにさせたいのだろう。

「いや、笑えねえよ」
「初めて救急車乗って、手術して。そしたらなんでか天童くんのこと思い出して」

ナマエちゃんが足を止めたその時、不意に風が強く吹いた。その激しさに目を開けてはいられなくて、細めた視線の先。振り向いたキミの、揺れたスカートが、懐かしい紫に見えた。

「当たり前だけど、人は死ぬんだなって思ったら会っておかなきゃなって」

わかってる。目の前のキミは高校生なんかじゃないってことくらい。

「なんで俺?」
「文句言わないといけないから」

ナマエちゃんの一大事であるのに、その時に思い出していたのが俺だという事実に喜んでいいだろうか。そんな気持ちが表情に出ていたようで、緩んだ口元を見たナマエちゃんが「なに笑ってんの」と声を大きくした。

「天童くんってさ、もー! 本当なんなの!?」

地団駄を踏むようにてパタパタと動かした腕。その手首が俺が知るものより細くて、不安で胸が軋んだ。ここからは見えない、服の中。そこにはメスを入れた痕がある。それを想像すると、細い腕を雑に動かす姿を見ていたくなくて、思わずその細さに触れた。存在を確かめたくて、強く握った。

「何を知りたい?」

パタリと止まった動き。そしてゆっくりと、染み込むようにして俺の腕に重みが加わった。それはすがり付くようで、俺を責めているようでもあって。けれどそうだとするなら、もっと重くていいのに。俺を押し潰すほどに、重くのしかかってくれていいのに。あまりに軽いそれは、不確かで、脆くて、儚くて、苦しくなる。

「私のこと、たぶん、好きだったくせに……」

俺よりも不安そうに、怯えたように震えた声。そんなナマエちゃんの、伏せられた睫毛さえ愛らしい。視線をそらして、呟くような音をだした唇に触れてしまいたい。昔からそう何度も想い、とどまった。

「叶った恋より、叶わなかった、何もできなかった恋の方が記憶に残るかと思ってさ」
「は?」
「綺麗なまま残しておきたかったんだ。俺の中に。ナマエちゃんの中に」
「でもそれって未練とか後悔とかが残るじゃん」
「うん。それでいいの。それがあるから思い出すでしょ?」

受け入れることができないであろう。俺の考えていることなんて。素直で、純粋で、無垢で、俺にたくさんのものを与えてくれたキミには理解できない。

「変! 天童くん変!」

当たり前にそう言うナマエちゃんに、「えー、そう?」なんて白々しく言ってみる。自分の怯えや恐れを上手に隠して笑ってやるんだ。

「そうだよ! 普通好きだったら付き合いたいじゃん!」

そうだと思う。実際頭の中ではキミの肌の温度、柔らかさ、匂いを想像した。それが実現してしまったら、壊れたときの立ち直りかたを俺は知らないし知りたくないし、想像もしたくないし、たぶん立ち直りたくもない。だからハッピーエンドが必要だったんだ。

「ナマエちゃんは、押し花だよ。綺麗なまま俺の中にずっといる花だよ」

貞操観念をどうこう言いたいわけじゃない。今のナマエちゃんは、素直でも純粋でも、無垢でもないのかもしれない。それに失望なんかしない。本当にただ、キミの忘れられない綺麗な思い出になりたかっただけ。綺麗な思い出が欲しかっただけ。

「じゃー天童くんは変な花だよ」
「へ?」
「咲かない花。だから枯れない花。でも花なの。変でしょ」

綺麗だとか、花だとか。そんなことを言ってくれるのは、今も昔もナマエちゃんだけだ。変わらないキミを目の当たりにして涙が出そうになる。この涙に理由なんかいらない。そう思えることが、嬉しかった。嬉しくて、思わず笑いが溢れる。それを隠そうとナマエちゃんの腕を握っていた手を放した。するとなぜかそれを掴まれて、強く引かれる。あまりに急で、つんのめるようにして体勢を崩した。そして、知ってしまった。キミの唇の温度と、柔らかさと、匂いを。

「ねえ、覚くん。うちに高級ハンバーグがあるんだけど、食べに来ない?」

目の前のキミは、よく知った思い出の中の瞳の色を持った、知らない女の顔。そんな顔で俺を見上げていた。

「なんで、ハンバーグ」

なんでって言葉が脳内を巡って、結局口からでたのはそんなちっぽけな言葉。

「未練を解消しようと思って」
「ミレン」
「そう、未練。私、天童くんとキスしてみたかったんだ。それに、天童くんがあまりに自然にナマエって呼ぶから、覚くんって呼んでみたくなったの。それでハンバーグは、救急車に乗ったときに食べておくんだったなってすごく後悔したから」

細い指を一本一本折りながら、無邪気に無鉄砲な欲望を口にする。そしてあどけなく笑ったその顔は、高校生そのままだった。女の顔をしているのに、可愛らしい純粋無垢な笑顔。外見と中身が、ふと見せる表情が、ちぐはぐだ。けれど確かなのは、思い出のまま過ぎるキミが、色濃く存在していること。そんなキミを不気味だと思った。

押し花は俺の中にある。それなら目の前の花は、なんだ。

「ねえ、ナマエちゃん」
「なに?」
「変なこと聞いていい?」
「え、なに? まだなにかあるの?」

訝しげに俺を見つめる視線は、初めて会ったあの時と同じ。好奇心と警戒心とが混ざりあって、嬉々として輝いている。それは確かな十代の輝きを宿した瞳。

「ナマエちゃんって、今いくつ?」

キミは笑った。少し鼻にシワを寄せて、花が咲いたように笑った。

「押し花なんだから、永遠の十八歳なんじゃない?」

それを聞いて俺も笑った。二人で笑い合う今この瞬間。誰が見てもハッピーな二人だろう。ハッピーエンドの続きには、ハッピーがあった。

今日、俺が想像したバッドな展開というのは、失恋なんかじゃない。ナマエちゃんの寿命が尽きてしまうことだ。それを思うと、人類皆バッドエンドなんだなって妙に納得して、妙に安心した。そうしたら、どうせバッドエンドなキミと俺との物語の続きを、知りたくなってしまった。それをキミは許してくれるだろうか。

「ハンバーグ、食べにいってもいーい?」
「ちなみに冷凍のヤツだけどね。それに部屋を片付けないといけないから、天童くんは買い出し係だよ。私の退院パーティーの」

そう言ってピンクの花束で顔を隠した。くるりと半回転してスカートをひるがえし、俺に背を向ける。その背中は少女の背中。そんなキミの頭上に、美しい桜吹雪が見えた。

キミは押し花

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