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「彼にプロポーズされたの」

日曜の昼下がり、今でも頻繁に連絡を取り合っている大学時代の友人とカフェでランチをしていた時。集まろうと招集をかけた張本人がそう口にした。

「今日誘われたときからそうだと思った! おめでとう!」
「式は決まってるの?」

私以外の友人が左手の薬指を輝かせながら手を鳴らし、祝福の言葉を直ぐに投げ掛けた。

二十代後半。二十代はあっという間、と聞いたことはあるが実際その通りで。アラサーなんて言われる年になった私の周りは、ついこの前まで合コンだ婚活だと騒いでいたと思ったら、今では結婚ラッシュ。だから「おめでとう」と口でいいながら頭の中では「ああ、またか」なんて失礼な言葉が思い浮かんだ。

「まだ決まってないけど、式はするつもり。絶対来てね」
「これでもうナマエだけじゃん独身なの」
「でも時間の問題でしょ?」

そう言って笑う友人は、腹の中では私と貴大の破局のニュースを待っているのではないかと勘ぐってしまう。そんな自分に呆れるが、女ってそういうところがあるよねと苦笑いをしつつ「……さあ。どうだろう」と言葉を濁して冷たい飲み物に口をつけた。
大学生の時は誰が先に結婚するかなんて話題が出ると必ず私の名前が上がった。理由は単純。彼氏、貴大との付き合いが長いから。

「まだ花巻くんと付き合ってるんでしょ?」
「そうね」
「付き合ってどんくらいだっけ?」
「高校の時からだから、十年かな」
「あれかな、そんなに長いと結婚するきっかけがないとか?」

貴大との結婚を強く意識して、焦ったりもした。けれどつい数ヵ月前。同窓生の岩泉の結婚式に参加したとき「次はマッキーなんじゃない?」と言った及川の言葉に貴大はハッキリと言った。

「いやーナイナイ。考えたことないし」

その言葉を聞いて、何かが冷えきってしまった。だからって別れる決断をするには確信に欠けていて、貴大との過ごしてきた長い時間が無駄なものになってしまうことが怖くて。今更別れられるかなんて変な意地もあって。これから新しく相手を見つけて恋愛してなんて勇気もなくて。結局現状維持が続いている。
高校生の時は、少女漫画のように日々がきらめていたと思う。目が合うだけでドキドキして。手を繋ぐのが恥ずかしくて、キスをしただけで顔を真っ赤にさせた。

大学生になったばかりの頃はお互いのバイト代を貯めて旅行にいったり、一日中くっついていたり。けれどお酒やら異性やら新しい世界を知ると、問題事が増えた。
貴大が女の子も同席するような飲み会に参加したと知れば嫉妬して。私がバイト仲間と遊びに行けば貴大が嫉妬して。お互い様な行為を繰り返しては喧嘩をした。別れてやると思ったことは数知れず。けれどその言葉を口にしたのは一度だけ。貴大の部屋に知らない女がいて「最低。別れる」と言ってやった。当て付けに他の男とデートしてやった。


「俺とデートって当て付けになんの?」

呆れたように松川が笑った。だって仕方ないじゃない。他に誘える男はいないし、本気でそういうことがしたいわけじゃないんだから。そう思っても言葉にはできず。それを分かってか松川は「まあ、俺が安牌か」なんて私の気持ちを汲んでくれた。そんな松川の顔を見えないようにしてツーショット写真をとり、これまたわざとらしくSNSにアップしてやると、なぜか松川に貴大からの着信があった。どうやら松川の着ていた服が貴大からの誕生日プレゼントだったらしく、さっさと足がついてしまった。

「松川わざとでしょ」
「さて、どうでしょう」

不貞腐れながら貴大の到着を待っていると、貴大は一輪の花を握って走ってきた。息を切らせて額に汗なんか浮かべちゃって。そして部屋にいた女は何でもないと長い長い説明をする。言い訳よりもっと先に言うことがあるんじゃないの? そういった意味を込めて「話が長い」と睨んでやると、貴大は押し黙って「あー」とか「うー」とか唸ってから、小さい声で「ごめん」と謝って私に花を差し出した。

「許せよ」
「何で花束じゃないの」
「……金が無かった」

そう言ってばつが悪そうに頭をかいた貴大。その仕草が一輪の花よりも可愛らしく思えて、私は笑ってしまった。それから喧嘩をするたびに貴大は花を一輪買ってきて、これで手打ちだと喧嘩の終止符を打つ。私も私で喧嘩をした時は花を貴大へ贈るようになっていた。仲直りの儀式。それが私と貴大を繋いでいたのだと今は思う。
花を貰うと許さなければいけない。花を贈れば許される。いつしかそういった解釈になった。まるで呪縛であった。



「今のところ結婚の予定はないよ」

私の言葉を最後に話題は移り変わり、各々の近況報告や愚痴へと変わった。そして友人とのランチは「次はナマエだね」と言った台詞を合図に解散した。
友人と別れて歩く一人の帰り道。そうえば最近花を贈りあっていないなと思う。そして喧嘩をしていないのだと気づく。喧嘩どころかどこかへ出かけただとか、メッセージだとか電話のやり取り。勿論それらが皆無だということではない。ただ、デートらしいデート。目的の無いような他愛ない連絡のやり取り。それらが無くなっただけ。

同棲はしていない。けれど基本的に土日はどちらかの部屋で一緒に過ごす。干渉し過ぎない距離。その距離に慣れてしまった今は物足りなさは感じない。時々、どうして私は貴大と付き合っているのだろう。そう思う。


自分の住むマンションへついて部屋へ入ると、玄関に見慣れた男物の靴があった。室内からはテレビの音が聞こえ、顔を覗かせるとソファに座りスマホを手にした貴大がいた。

「来てたんだ」
「おう。今日バレー無くなったから」
「そっか」

日曜は社会人バレーがあるため、貴大が部屋に来るのは基本的に夜だ。だから夕時に貴大が部屋にいると、ゆっくりする間もなく直ぐに夕飯の支度をしなければならないのかと、憂鬱な気分になった。

「どっか行ってたの?」
「うん。いつもの子らとランチ」
「へー」

会話をしていても貴大の視線はスマホ画面を見つめたまま。まあ、いつものことだ。

「そう言えば結婚するらしいよ」

私も私で部屋着に着替えながら、貴大も面識のある友人の名前を口にすれば、「へーオメドウって言っておいて」とスマホから視線をあげることなく呟いた。

喧嘩どころか同じ空間にいても会話が減った。気を遣わない、互いの時間を大切にする。良いことだと思う。思うけれどなんだか虚しいなと感じるのは、岩泉の結婚式であの台詞を聞いてからだ。それまで不満に思っていなかった貴大の態度が妙に気になる。結婚する気のない女とどうして。結婚する気のない男にどうして私が。そんな感情がある。
けれど今までやっていたことを急に辞められるわけもなく、私はキッチンで料理をする。料理をして、できた食材を並べて一緒に食事をする。食べ終わると貴大がシャワーを浴びている間に洗い物をして片付ける。私が貴大の部屋に行けば、貴大が料理をして片付けをしてくれる。だから不満はない。不満はないのだけれど、なぜか心にぽっかりと穴があいている気分だった。

片付けを済ませてシャワーを浴び、一通りのやることを終えて私は録りためたドラマを再生させた。今期は当たりが多いなと、ようやく訪れた自由時間を漫喫しようとソファへ深く腰かける。すると不意に貴大が私の肩を抱くようにして距離を詰めてきた。

「これ、おもしれーの?」
「うん」
「ふーん」

そう言いながら肩に回した腕の力を強めて、私の首筋に顔を埋めた。そして深く息を吸って耳元で囁く。

「なあ、ダメ?」

貴大の誘い文句。正直ゆっくりしたい。ドラマの続が見たい。けれどこの誘いを断ってしまうと、何かが崩壊してしまうような気がして、私は「いいよ」とテレビ画面を消した。
貴大は部屋の明かりを消して、私の手を引くことなく、抱き抱えてくれるわけでもなく、一人でさっさとベッドへと寝転ぶ。そして私に触れて、自身の少し勃ち上がった性器を舐めるよう促すのだ。キスなんてしない。最後にキスをしたのはいつだったか。ぼんやりとそんなことを考えながら知りすぎた相手の身体。知られ過ぎた自分の身体の快楽に身を任せた。


情事の後、互いにシャワーを浴び直して私はテレビをつけた。ソファにかけた腰がずっぷりと埋まっていくような感覚。ああ、明日は仕事だし、寝ないといけないのに。そう思うがなぜだかベッドへ行く気にならなかった。

「寝ねーの?」
「うん。ドラマ見たい」

好きだな、ドラマ。と皮肉にも取れる言葉を無視すれば貴大は「先に寝るわ」と布団を被った。

「おやすみ」

おやすみ、と返事は返ってこない。
音量を下げて見つめたテレビ画面には、整った顔の俳優と女優が焦れったい恋愛をしていた。人のために泣いて、笑って。ドラマの恋愛とはなんて素敵なのだろう。虚構の恋愛はなんて美しいのだろう。そう感じると自分が好んで見ていたはずのドラマが途端につまらなくなってしまった。好物を食べ過ぎて、それが好物ではなくなってしまったなんて話がある。私はドラマの見すぎなのだろうか。それとも私は貴大を食べ過ぎてしまったのだろうか。


‐‐‐‐‐‐‐‐‐‐


たまっていたドラマを見たせいで寝不足のまま朝礼に参加して、ぼやけた頭でパソコンのディスプレイを眺めていると、不意に課長から呼び出された。寝不足であるがそこまで勤務態度が悪かったとは思わない。何かミスでもしたのだろうかと急に頭の中がクリアになる。
課長の背中を追ってたどり着いたのは会議室で、何を言われるのかと緊張し硬直してしまうが、課長は構わず業務連絡かのように淡々と話し出した。


「転勤……ですか?」
「そう」
「海外、ですか……」
「そ、シンガポールね。今、向こうに小笠原が行ってるのは知ってるでしょ?」

小笠原というのは、私が入社したときの教育係でずっと同じ部署の上司であった人物だ。シンガポールへ転勤したのは記憶に新しいが、よくよく考えるともう三年ほど前になるのだろうか。

「彼が直々に君を指名してきたんだよ」
「小笠原さんが、ですか」
「でもまあ、……セクハラだと思わないで欲しいんだけど、結婚、妊娠。女性にはいろいろあるだろう? それを踏まえてよく考えて欲しい」

頭が真っ白になった。

「遅くても今月中には返事をしてくれ。これを断ったからと言って君の立場が変わることはないから。会社の希望としては向こうで最低三年は働いて欲しいと思っている」

はいと口では返事をしているが、課長の言葉は右から左へ。無理矢理に何度も脳内で「海外転勤」と反芻させるとゆっくりゆっくりと食事を消化するように染み込んできた。そんな理解に欠けた状態で会議室を出ていつも通り仕事をこなすが、頭の中ではぐるぐるとまだ想像もつかない未来が泳ぎ回っていた。


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久々の定時で退社して、私は貴大のマンションへと向かっていた。海外に転勤するかどうか、そう相談したら貴大はなんと言うだろうか。行くなと反対されるだろうか。それともこれを期に別れを切り出されるだろうか。
今の仕事は好きだ。だから向こうで働いてみたいとは思う。けれど、貴大に待っていてなんて言えないし、だからといっていきなり別れようとも言えない。すべての決断を貴大に委ねたい訳ではない。ただ、これをきっかけに将来の話をするにはいい機会だとは思った。


貴大の部屋の小さなダイニングテーブルへ肘をついて、項垂れるようにして椅子へ座り貴大の帰りを待った。遠距離恋愛なんてできるの? 貴大と別れていいの? 貴大は本当に私と結婚する気がないの? そんなことを考えていると時間が過ぎるのはあっという間だった。気づけば二時間ほど経過していて、部屋の鍵が開けられる音。帰ってきた貴大は一瞬固まり私の存在に驚いていた。

「来てたんだ。珍しーじゃん」

連絡もなしに何かあったのか、と私を横目に着替え始めた貴大に「転勤の話が出た」と真っ直ぐに彼を見つめながら伝えた。

「は?」

ネクタイを緩めながら目を見開いた貴大は間の抜けた顔をして、時が止まったかのように瞬きすら忘れている。

「どこに?」
「シンガポール」
「え、海外じゃん」

咀嚼するように「シンガポール」と暫く繰り返し、そしてマジかと言いつつもどこか納得したように背広を脱いで動き出した貴大。

「それって決定?」
「決定ではない。断ってもいいって」
「へー。そういうのも有りなんだ」

結婚とか妊娠とか出産の予定があるなら。その言葉は言わなかった。言えなかった。だから黙って一度脱衣所へ姿を消した貴大が現れるのを待った。貴大はどう思ったのだろう。今、何を考えているのだろう。そんなことを考えていると、すっかり部屋着姿になった貴大が私の前に腰を下ろして口を開いた。

「そんで?」

それで? 自分は何も言わずに私に言わせようと促すのか。何を言えというのだろう。行きたいって?待っていてって?別れようって? それとも結婚? 全部全部分からないから相談したいのに。

「決めたの?」
「いや……」
「悩んでんだ」
「そりゃ……うん。今日いきなり……、だったし」
「ふーん」

貴大から驚きや戸惑いは消えていて、いつも通りの彼に戻っていた。袖をまくって「飯、食うだろ?」なんて言ってキッチンへ立つ。もっと他に言うことないの? ふーんって何? 信じられない。そんな思いで呆気に取られていると、気づけば目の前にパスタとスープが並んでいた。

「今日ナマエが来るとは思ってなかったら冷蔵庫、大したもん無かったわ」
「いやいや、充分です。ありがとう。頂きます」

いつも通りの口数の多くない会話。けれども私の頭は冷水を被ったように冷えていた。

「ねえ、何か無いの?」
「何か? 酒? それとも甘いの?」
「そうじゃなくて、転勤の話」
「ああ、そっちな。何かって言われてもなぁ。とりあえず驚いた」
「貴大はどう思う?」
「どうって……。俺だったらシンガポール、行ってみたいけど」

それは暗に背中を押してくれているのだろうか。だから別れてもいいよって言っているのだろうか。

「ナマエもだろうけど、俺も今日いきなりだからなぁ」

それっきり会話が途切れてしまった。ただ食事を取る音だけが室内に響く。今までどうやって会話をしていたか、貴大といるときどうやって呼吸をしていたか。それすら忘れてしまった。息が苦しかった。目頭に熱が集まり、気を抜けば涙が出そうだった。それがなんの涙かは分からない。けれどこのままここには居たくなかった。


「泊まっていかねぇの?」
「うん」
「そ。送る?」
「いや、いいよ」
「なら気ーつけて」

玄関口で貴大と目を合わせることができなかった。そのままドアノブに触れると貴大は「決まったら教えてな」と何でもないように言う。

「おやすみ」

私はただ「うん」とだけ返事をして部屋を後にした。


‐‐‐‐‐‐‐‐‐


転勤の話が出てから二週間。お互いの予定が合わず暫く貴大には会っていない。転勤の返事を来週にはしなければならないというのに、私と貴大に変化はなかった。すっかり気持ちは冷めて、心は凍りついたかのよう。私の中で返事は決まった。シンガポールへ行く。貴大と別れてもいい。別れてもいいなんて随分と上から目線だなと思う。けれど貴大より私は仕事を取る。

土曜日には会いに行こう。そう決めた金曜の夜、会社から出ると外は予報外の雨。コンビニで傘と作るのが面倒だという理由で晩御飯と少しのアルコールを購入した。そして自分の住む部屋の扉を開けるとこれまた予想外。貴大が私を玄関で出迎えた。

「お帰り」
「……ただいま。びっくり、した」
「連絡しなかったもんな。悪い悪い」
「別にいいんだけど」

傘を差して歩いたにも関わらず水気を含んだ爪先。湿って肌に張り付いたストッキング。手には濡れたビニール傘と今日の夕飯。そんな私を見て貴大は「先に風呂入ったら」といつもの調子で言葉を紡ぐ。

「あーうん、そうする。でも冷蔵庫、何もないんだけど」

貴大は「いーよいーよ」とコンビニの袋を私から受け取り中身へ視線を落とす。

「急だったし。俺も食べるもん少しは買ってきた」
「そっか」

別れてもいい。別れる。そう決断した後だからか勝手に気不味い空気に感じられ、それから逃げるように浴室へと向かった。シャワーを浴びながらどう話を切り出そうかと考えたが、髪の毛を乾かし終わってもそれらしい答えは出ず。

部屋に戻ると珍しくテレビもスマホも見ることなく私へ向けられた貴大の双眼に、息が止まるかと思った。

「酒、飲むんだろ?」

テーブルにはお皿に移し代えられたお総菜。貴大は冷蔵庫の扉に触れて私の買ってきた缶ビールを取り出した。貴大も飲むのだろうとコップを出そうとキッチンへ入ろうとすると、何故か「俺がやる」と追い出されてしまった。
そして貴大が買ってきたらしい、妙に豪勢なお総菜を食べながら私の決意はゆらゆらと揺らめいていた。そんな気持ちで食事を続け、アルコールが空になると貴大が立ち上がった。

「ワイン飲む? 俺買ってきたんだわ」

そう言ってキッチンへ向かう。基本的に部屋の主があれこれすると言うのに、私の部屋で動き回る貴大に違和感を覚えた。もしかしたら彼も別れを決意したのだろうか。そんなことを考えながら空になったコップを縁を撫でる。一人しんみりとしているとキッチンから「グラスどこ?」だとか「コルク抜きある?」だとか。

「私が出すから座ってて」
「いや! 言ってくれれば探すし」
「……グラスは食器棚の真中らへんの奥。コルク抜きは戸棚のところ」
「オッケー」

何だか頑なだな。手持ち無沙汰になり不要な食器をまとめていると、コルク抜きが見つからないのか扉や引き出しを開けたり閉めたりする音が繰り返し聞こえてきた。やっぱり私がやった方が早いじゃん。そう思いまとめた食器を持ってキッチンへ行くと、貴大が慌てた様子で私の前に立ち塞がった。

「……何してるの?」
「ちょい待って。マジで」
「はあ」

本当に何をしているんだと貴大から視線をずらすと、冷蔵庫の前に見慣れない物が広くもないキッチンを占領していた。

「え、何あれ」
「あー。見えた?」
「いや、うん。普通に見える」

私の言葉に貴大は観念したといった表情を浮かべ、半歩ずれて私の視界を広げた。そして見たこともないような大きさの花束を抱えて、私の持っていた食器と交換するように差し出した。

「私たち、喧嘩してたっけ」
「喧嘩しないと渡しちゃいけねーのかよ」

花はどれも綺麗だった。そして花束の意味を想像して、花弁を滑るようにして私の涙が吸い込まれていく。

「いつも同じ花屋で仲直りできる花下さいって、買ってたんだわ。今回プロポーズするから花束下さいって初めて予約したら、俺のこと覚えてくれてたみたいで。今までナマエに贈ったことのある花を多く入れてくれたってよ」

見覚えのある花。喧嘩をするたび、一輪の花が私を宥めてくれた。そんな貴大と過ごした日々が花束となって私の腕の中に広がっている。まるで無駄なことは一つもなかったと言ってくれているようだった。

「手、出して」

その言葉に従い右手を差し出すと、貴大は鼻で笑って「そっちじゃねーよ」と反対の手を握った。そしておもむろに花束から茎の柔らかい花を抜き取って、器用に私の薬指へ巻き付ける。

「昔は指輪パカーってやんのがプロポーズだと思ってたけど、勝手に買うのはどうかと思って」

左の薬指が少し締め付けられる。その感覚に胸が張り裂けてしまいそうなくらい締め付けられた。

「なあ、ナマエ。結婚、しませんか」

どうして? どうして今それを言うの?

「……私、海外赴任、受けようと思ってたの……に」
「おー。知ってる」

それならなんで、そう言いたかったのに貴大が私の濡れた頬へ触れ、言葉にできなかった。

「何年一緒にいると思ってんだよ。最初に話聞いたときから分かってたわ」
「でも結婚、考えたことないって」
「は?」
「岩泉の結婚式のとき」
「あー。だって実際結婚式どうするかなんて話したことなかっただろ?」
「……結婚式?」
「俺の中でナマエと結婚すんのは確定事項だったんだけど……。それに及川に結婚宣言なんてできっかよ」

考えたことないって、言ってたくせに。ずるい。タイミングも言葉も花束も全部ずるい。

「本当に、なに、それ。私、シンガポール行っていいの?貴大ずっと待ってるの? 結婚なんかしちゃっていいの?」
「おう。つか待ってるつもりはねーし」
「……え?」

貴大は歯を見せ口角を吊り上げた。

「今の仕事、すぐは辞めれねえけど。転職するわ」
「そんなの……」
「無理だって?なんとかなるだろ。つかシンガポールで良かったわ。去年大学んときの先輩が向こうで起業したのよ。俺結構人脈は広いんだぜ。一応仕事、紹介してもらえることになったし。そりゃー給料は下がるだろうけど、そこは妻になるナマエさんに支えて貰うことになると思うんですが……」
「……貴大、英語できるの?」
「おー。先週から英会話行ってる」
「中国語もやった方がいいよ」
「マジで? 一年でなんとかなんのかな……」

貴大は私が想像もしなかった、二人の未来を考えていてくれた。その事実がたまらなく嬉しい。

「で、どうすんの」
「どうって」
「結婚」

別れる決断をしたというのに。それなのに私は花束ごと貴大に抱きついて、「する」そう伝えるのが精一杯だった。
花の香りに包まれながら、いつぶりだろうか。貴大とキスをした。なんでかすごく照れ臭かった。顔に熱が集まっているのがわかる。間近で交わった貴大の瞳が色っぽくて、十年付き合ってきた彼氏が酷くいい男に見えた。そんな貴大の頬が少し赤らんで見えたのは、見間違いではないだろう。

これからも何があっても彼を許し、彼に許されよう。けれどそれには、やはり花と共にあるのだろう。凍りついたと思った心がどろどろと流れ出て再び花弁を濡らし、私は貴大との生涯、永遠を誓い合った。


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