▼ 女心と春の空 (10/13)
目的地に着くや否や、名前は河辺の芝生に腰を下ろした。
オレもその隣に寝転ぶ。
肌の露出している部分はむず痒かったが、いつものベンチよりも柔らかく、草の匂いをすぐ傍に感じる。
水の近くで夜風が冷たいのも、身を寄せ合えば充分凌げた。
「何でだろ、贅沢な気分」
名前は両手をつっかえに体を反らし、頭上にある桜を仰ぎ見ていた。
普段感じる桜よりも、遥かに遠い。
その距離感の違いが新鮮で、花の間から月が見え隠れしているのにもまた心を奪われた。
「朧月だね」
目を細めて名前が言う。
月が霞んで見えると思っていたら、雲がかかっていたらしい。
これは風流だ。
「よし、団子でも食うか」
腕の反動を使って起き上がるオレに、月見じゃないんだからと名前は冷静に指摘した。
しかしそれを無視し袋に手を伸ばす。
店の人は閉店間際でも出来立てを渡してくれたのだろうか。
包みを解くと広がる、ほのかなぬくもりと甘い匂い。
適度な労働を終えた後だと食欲をそそられる。
「もう、明日のでしょ」
「細かい事気にすんなよ」
「みんなの分が減っちゃう」
「最後の一口はチョウジ。だから、最初の一口くらい、前準備頑張ったオレたちの褒美って事でいいだろ?」
ニッと笑って見せると名前も仕方なさそうに笑ってから、オレから団子を一串、受け取ろうとした。
その手には、何もはめられていなかった。
「…………」
左手の薬指どころか、どの指にも、何もない。
オレの視線に気づいた名前は、さっと手を引いた。
そして左手を隠すように、右手で包み込む。
「ごめん、仕事終わったら、つけるべきだったよね」
――好きな指にはめとけよ。
一年前、誕生日に指輪を贈ったオレは、名前にそう言った。
しかしその当時、もし左手の薬指にはめてくれたらと覚悟を決めていたオレは、まさか名前がどの指にもそれをはめないとは想定していなかった。
何故ってあの時、名前は泣いて喜んでいたのだから。
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