▼ 黄昏に微笑む (6/16)
「――いの?」
ふいに名前を呼ばれ、はっと顔を上げた。
絵筆を滑らせていたはずの名前が、いつからかその手を止め、不審そうに私の方を見ていた。
「何か言った?」
「ううん、なーんにも」
私は慌てて否定をする。
平静を装ってまた前に向き直りながらも、心臓はバクバクだった。
やばいなぁ。
私、変なこと口走ってたかも。
嫌な予感に冷や汗が出そうになる。
しかしそれを悟られたら居心地が悪い。
私は指定されたポーズを忠実に守り、うつむきかけた顔をくいとあげた。
そして重心をやや後ろに傾ければ、自然と上向いた視線が捕らえる窓ぎわの席。
そこは、数年前、私と名前が初めて喧嘩をした場所だった。
――友達ごっこに、つき合えっていうの?
作り笑顔で余裕をかました名前にはっきりそう言われ、幼かった私は、何かを言い返すよりも早く、手が出ていた。
名前の胸倉を掴んで通路に投げ捨てる。
いのの様子がおかしいと駆け付けた同級生に止められるまで、私は名前にまたがり顔を殴りつけた。
抵抗しようとすればいくらでも出来たはずなのに。
名前は一度もガードをせず、ただ私からの罵詈雑言と理不尽に襲いかかる痛みに耐え続けていた。
そこまでして守った大切な手で、名前は今、私を描いてくれている。
それがどんな意味を持つのか、私にも完全には分からない。
しかし今まで描いたことのない人物画、しかも鉛筆画しか描いてこなかった名前が着色まで挑戦してくれると聞けば、特別な意味を期待するのも無理はないと思う。
調子に乗って、美人に描いてねと注文をつけた私に、名前は三つの条件を提示した。
夕暮れ時の教室、黒板に背を向けて机に座り、その横顔を描く。
なんで横顔なのと聞けば、その方がバランスよく描ける気がするのだと言い張り、窓際の席なんて夕方は暗いんだからせめて席を変えようと言えば、暗い方が美人度増すんだよと失礼な発言をさらっとされた。
本当は知っている。
名前は人のむき出しの感情が大好きなんだ。
これは私がよくサクラに話しかけていた時の体勢。
隣同士顔を見合わせるには近すぎて照れ臭いから、休み時間になるたび私はサクラの前に回り込んでいた。
まったく、趣味の悪いところだけは変わらない。
それでもそれ以外の条件は撥ねつけられたから渋々承諾し今に至るけれど、同じ姿勢を保つのは意外に辛くて、意識を紛らわそうと昔に想いを馳せればあの失態。
「ちょっと、まだかかるわけ?」
さすがの私も耐えかね、一度肩を回してからポーズを戻す。
名前は申し訳ないとは微塵も思わない様子で話をすり替えてきた。
「そういえば、さっき」
「ん?」
「懐かしい冗談が聞こえた気がした」
「…あんたって時間差で嫌味言う奴だったわよね」
「そんな事ないですよ、山中さん」
「……」
今では名前で呼び合う間柄だというのに、遠回しな嫌がらせだ。
しかし私を黙らせるには十分な効果があった。
あの日から仲良くなったかと問われれば、答えは否。
名前の嫌味は驚くほど的確に私を傷つけ、時に憎らしく感じる。
しかしそれも私の表層だけを見ている他の誰かには指摘出来ないものばかりだと、そう気づいたある日、ふと名前と目があった。
今思えばそれがきっかけだった。
名前はクラスに打ち解けるまではならなくても、浮くことはなくなり、名前の隣の席はいつしか私の指定席になっていた。
名前を変人扱いする人はもういない。
私が殴りかかる最中、拾い上げられたスケッチブックが多くの生徒の目に触れることになったからだ。
prev / next
←back