思えば私は、財前礼子の笑っている姿しか見たことなかった気がします。気がするだけかもしれません、ですが今大事なことはそんなことではなくて。その、すっごく嫌そうな表情、なんだかゾクゾクします。ああ、私はそのしかめられた顔が好きなのかもしれません。

「…残念ながらイチゴ牛乳、もう終わりなんだよねー」
「そうですか」
「…買ってきてくれたら考えてあげないこともないかなー」
「行ってきます!」

おっと、そんなことを考えているうちにまたうっかり口が動いてしまいました。財前礼子が「ぶっ」と笑ったような気がしました、が、後ろなんて振り返りません。走りだす私。音速をも凌駕出来る、そんなスピードで自販機へ走ります。エロ紳士!エロ紳士!といい笑顔で財前礼子に言われて走り去ったあの日のことを思い出します。

自販機に辿りつくと、幸村君と柳君がいました。

「柳生、シャツにピンクの点々ついているが?」
「ああ、財前さんにイチゴ牛乳をかけられたんです」
「気の毒だね…ホンットあの女爆発すればいいのに…って、アレ?イチゴ牛乳買うの?」
「ええ、財前さんに頼まれて」

幸村君がポカンと私を見ています。柳君は「詳しく話を聞かせてくれないか」と。「急いでるんです」と言えば柳君は「そのうち詳しく」と続けたので「それでしたら構いません」と答えます。

「…柳生はそれで良いの?それで、本当に良いのかい?」
「はて?」
「財前礼子のことが、憎くはないのかい?あんなに、エロ紳士エロ紳士連呼されて、プライド砕かれて、バカにされて!目え覚ませよ柳生!」

慌てたようすで幸村君が私をガタガタと揺すります。
始まりは確かに憎しみから始まりました。何の悪さもしていないのに急にバナナトラップに掛けられて、粉々になったクッキーをもらって、眼鏡が透けるなんて嘘を振りまかれて、後輩にまで変な眼で見られて。ですが、今不思議なことにイライラもムカムカもしません。むしろ何故だか楽しくなってきます。ニヤニヤしてしまいます。

「…」

幸村君の手から力が抜けます。ああそうだ屋上へ行かねば。

「それでは、急ぎますので。アデュー」

ジーザス…、と幸村君が呟いたのが聞こえました。この世の終わりみたいな顔をしていったいどうしたのでしょう。まあともかく、屋上へ急ぐのみです。


ところが屋上へ行くと誰もいませんでした。ふふっふふふ、放置プレイですか、臨むところです!イチゴ牛乳をかけられるもよしですが、こういうのも…、悪いはずなのに。悪いはずなのにどこか期待してしまいます。どこから現れて、どんなことを仕掛けてくるのでしょう。ああ、そうか、私。

「いじられるの、好きなのかもしれません」
「ぶっ」

なんとなく呟いた声は笑い声にかき消されます。しかしそこには私の望んだ人物ではなく、

「仁王君」
「…ぶっ、くっくっく…」
「仁王君!」
「ああ…ぶっ、す、すまんすまん、あー…礼子から伝言じゃ」

仁王君が大笑いをしているのみでした。財前礼子を探したかった私ですが、なんと仁王君は財前礼子から伝言があると言うのです。ならば私はそれを聞くしかありません。神妙な面持ちで仁王君を見つめると、

「おめでとう」

パチ、パチ、と仁王君が拍手をしながら言います。

「おめでとう」

かと思うと、おや、今度は真田君です。しかしここには仁王君しかいなかったはず…ああそういうことですか、仁王君のイリュージョンですね、分かりました。全く手のこった伝言を残しますね、さすが財前礼子!

「おめでとう」
「おめでとう」

「おめでとう」
「めでたいッス!」

丸井君にジャッカル君、そして柳君、切原君。
拍手の音で何故だか泣きそうになっていると、屋上の扉がキイとなります。そして、そこには良い表情で手を叩く財前礼子がいました。コツ、コツと私に近寄ってきて、そして財前礼子はこう言うのでした。

「開眼、おめでとう」



「…ありがとうございます」

優しい声でおめでとう、と。そういう声にそういう表情も出来るのですね。私はいつもの声と表情のほうが好きですね。あの、ひたすら上から上から人を眺めるあの表情。私の思いが通じたのか、財前礼子がふきだします。

「ぶっ、どうして…はっはは!だめ…お腹痛い…」
「おい礼子、どういうことぜよこれは…ぶっ…」
「…もっと、もっと笑えば良いじゃないですか!さあ!」

「ひ、も、もう苦しい…やめてそれ以上笑わすの…」
「ぶっ、俺も限界じゃ…」
「ふふふ、ふふふふふ!」

ああ楽しい、楽しいです!屋上で笑い転げ回る財前礼子に仁王君、そして私。思わずごろごろごろと屋上を転がります。屋上で転がるのって、楽しいじゃん!

転がりながら、私は考えます。今までの私では、こんなに、心から笑うなんてことは考えられませんでした。新しい扉を開けてくれた、財前礼子にありがとう、そして―――

「どうしてそうなるんだよ!」

屋上を転がり続けると、入口で幸村君に足で止められました。おや、思ったより遅かったですね。ですがこれで心おきなく言えます。

「幸村精市にさようなら!」