透谷の反響に伸ばすかいな
迷宮攻略を祝う祭の熱気に包まれているシンドリアの一角で、白龍はシンドバッドと言葉を交わしていた。煌帝国一行が集まっている卓から離れ、迷宮でザガンを手に入れた白龍は再び覇王の助力を乞う。
シンドバッドは白龍の申し出に暫くの沈黙を保ち、そして……。
「わかった。前向きに考えよう」
「本当ですか!? ありがとうございます!」
「これで俺と君は運命共同体だな。君も、俺が必要とした時には力を貸してくれよ」
「勿論です!」
白龍は高揚を抑えようと努めながら、シンドバッドにそう返事をした。
祭の中を忙しなく歩き回るシンドバッドと別れて卓に戻ってきた白龍は、槍を握りしめて少しだけ肩の力を抜いた。
「……よかった」
やっとだ。やっと始まる。白龍は決意を一層強固にした。ここから、本当に始められるのだ。ザガンを得て、シンドリア王の庇護を取り付けられた。兄や父の仇が討てる。使命を果たせる。
「珂燿!」
あいつにも教えなければ。そう思った白龍は従者の名を呼んだ。
しかし……応えはない。名前を呼べば、いつでも応えてくれる従者は……そういえば、傍に寄るなと言ってしまっていた。命令を守っているのか、あれ以来珂燿の姿が見えない。
「……珂燿、どこにいる?」
「ここに」
「うわぁっ! お前……机の下!?」
足元から声が響き、白龍は思わず椅子から立ち上がった。そのまま数歩退いて死角が変わると、だんだんと見えてくるものがあった。軍議上がりの白龍の義兄のような雰囲気で地面の上に膝を揃えて……いた。髪も結っていないらしく、灰色の毛先が地面を掃除している。
「なんでそんな所にいるんだ! 驚いただろうが」
「あ、うぅ……」
普段は歯に衣着せぬ珂燿が、しどろもどろになりながら白龍に言い訳を始めた。
「控えているわけではなくて、えっと……そう! 散歩ー、でして……私が机の下にいる時に若君が戻ってこられたのでして……でもその視界に入らなければ、といいますか……」
「……………………」
「控えなくていい」とは言われても、はいそうですかと受け入れるわけにはいかない。だから珂燿は頑張って頑張って考えて……向うから近付いてくる分にはかまわねぇんじゃね? と、シンドバッドが白龍を連れて席を離れた時を見計らって、彼が着いていた卓に近づいたはいい。がしかし、いざ白龍が戻ってきた時に何を言っていいかかわからずに咄嗟に机の下に潜りこんでしまったのだ。
まだ白龍が怒っているのなら、当事者の――ぐっしょりすぎる濡れ衣なのだが――珂燿の言を聞き入れてくれるとは思えなかったからだ。ルフが枯渇してる今の状態で白龍に邪見にされたら、きっと比喩でなくルフに還れる。
「珂燿、出てこい」
「ですが、命令が……」
「もういい、わかっている。その……俺の方こそ、悪かった」
「え?」
「誤解だと、あの後義姉上と夏黄文が説明してくれた」
「っ……わかぎゃび!?」
「!?」
案じる事なんて何も無かった! 何処にいたのかを忘れてその場で立ちあがろうとした珂燿の頭と、天板の底が全力で衝突した。鈍い音がして、机が一瞬握り拳二つ分ほど浮かび上がった。
あまりの音に白龍の腰が引けたくらいだ。周りの人々も何の音だ? と周囲を見回しているが、祭の太鼓と見当をつけたのかそこまで注目される事は無かった。皿に盛っていた果物が散乱した机の下では、拳骨をもらった子供のように珂燿は頭を押さえている。
「っ……!」
「何をしているんだ、珂燿!?」
「い、たたっ……つい、感極まって……」
「……お前が痛がるのは珍しいな」
「す、みません」
「いや、別に謝ることはないが……」
珂燿の肉体はシンドリアへと海を渡り始めた頃からルフが慢性的に不足しているので、身体強化が上手く行えていなかった。そもそも、あの後もルフ不足の節約のためか気絶してしまった珂燿は、王宮の寝台で目覚めると髪を結う間もなく急いでここまで下りて来たのだ。
また頭をぶつけない内に出て来い、と机の下で蹲っている珂燿に白龍が手を差し伸べた。
「主公」
「どうした?」
篝火を背負った彼の姿に、白雄の姿が重なる。珂燿は少し震えながら手を伸ばして白龍の手に触れた時、白龍が包帯の下の痛みに呻いた。
「うっ……!」
ぞわり、と珂燿の肌が粟立った。何故か、白龍の中から別のルフの存在を感じた。珂燿の脳裏に、会った事も無い男の狡猾な蛇のような笑みが浮かんだ。
包帯の下にある白龍がザガンの迷宮でアル・サーメンの幹部によって付けられた蛇の咬傷。そこから白龍に入り込んだルフを侵す魔法が、発動した。
「離れろ!」
そう珂燿が叫んだ瞬間に、堕ちた。
白龍の腕が、肘の先、前腕の、半ばから……。
周囲から音が消えた。あれほど喧しかった祭の音も、白龍の悲鳴も耳に届かず、眼前に落ちる腕を茫然と見ていた珂燿は、頭の中で何かが切れる音を聞いた。
振れた。
触れた。
これは珂燿の命令式に触れた。過日の履行が許される、力の行使が可能だ。まだ間に合う。術式が完全に発動していない今ならまだ、白龍の腕を元の通りに癒着させてやれる。白龍の腕の中にいる仮面の男を消し去ってしまいさえすれば!
珂燿の身体から、燃えるようにルフが迸った。魔導士ならば、見えた……珂燿から生まれた銀灰のルフが忙しなく飛び交い、白龍の腕から飛び立つ黒いルフと拮抗する様を。
「させ、るか……!」
白龍の悲鳴に、異変に気付いた周囲も騒ぎ始めた。シンドバッドが白龍に駆け寄り、腕を診る。常人が見ているのは左腕を失くした白龍と、風も無いの髪をたなびかせ、手元に星のように瞬く光を集めている珂燿だ。
珂燿は手の内にある黒ルフに必死に抗った。しかし、相手が悪い。白龍の腕の中に巣食っていたのは、アル・サーメンの幹部なのだ。
それでも珂燿は諦めない。歯を砕かんばかりに食いしばり、鼻の奥から鉄錆の匂いを嗅ぎながらも……解いて、還して、肩に違和感が生まれた。
「ジュ、ダル……!?」
昼にジュダルから貫かれた所から、冷たく暗い力が体内を浸蝕する。癌細胞のように増殖をしていく。内と外から攻め立てる黒ルフに耐えきれずに珂燿は膝をついた。
そして、白龍の腕を食い破る様にして生まれた黒い蛇が、珂燿の白い肌に牙を立てていく。均衡は崩れた。噛まれた所から毒のように大量の黒ルフを流し込まれて、視界が朦朧としてきた。
「危ないじゃないか」
「う、あ……っ」
白龍の腕から延びた黒い蛇が人の腕の形をとり、珂燿は頭を鷲掴みにされた。身体が氷河の中に閉じ込められたように冷たくなる。しかし、無様に気を失う訳にはいかない。白龍をせめて、白龍の、腕、を……。
prev / next