Disappeared smile
真っ白な世界が広がっているだけの空間から聞こえるのは何度も鼻をすする音とゼーゼーと苦しそうな音を立てている荒い息。
もうどれくらいこうしているだろう。
とても長い間お互いが沈黙する中、酷い傷を体全体に負っているアルベルへとただひたすらに治癒術をかけていたロアの手から発せられている光の中からふわりと蝶のようなシルエットが上へと飛んでいったのを見たアルベルが口を開いたことでその沈黙は破られた。…が。
「っ、おい。」
「……」
「おい。」
「………」
「聞けクソ虫ッ!」
「うえあっ?!」
どうやら治療をすることに相当集中していたのだろう。
アルベルに数回声を掛けられても全く反応をしないロアに痺れを切らせたアルベルが大声をあげれば、それに驚いたロアは意識を集中させていた両手に思わず力を込めてしまった。
「っ、?!」
「へ?」
ロアが驚いて声をあげたその瞬間。
力んでしまったらしい両手から発せられていた淡い光はまるで爆発でもしたかのようにその力を増すと、その光はぶわりと音を立てて何匹もの数え切れない量の蝶の形へと姿を変えて飛び立って行った。
淡く、優しく、美しく。
まるで治癒術では治せない心の傷までも癒すかのように向かい合っているアルベルとロアの周りを包み込んでから。
「……え、何…今の綺麗なやつ……」
「お前がやったんだろうが阿呆。…今のは何だ、見たことのない術だが。」
「え?!今の私がやったの?!てっきりアルベルがやったのかと思った…!」
「他に誰がいる。俺なわけねぇだろうが。」
先程の蝶へと姿を変えた光の正体のことを聞かれたロアはまさか自分がその術を放ったとは思っていなかったらしい。
そんなロアに「阿呆か貴様は」と心底呆れたように言ったアルベルの言葉にムッ!と両頬を膨らませそうになったロアだったが、その状況に何か疑問を感じたのか、はて…と数秒黙り込んだかと思いきや、今度はいきなり目の前のアルベルの両頬へと手を伸ばした。
「っ?!」
「今のはフェアリーライトだ!うん!きっとそうだよ!実はこの前からずっとブレアに教えてもらいながら練習してたんだけどやっぱり上手くいかなくて…っ、でも前のヒーリングみたいに、ここが夢の中だから成功したのかもしれない!というかそんなのどうでもいい!傷!!ねぇ傷は?!そうだよ!アルベル、傷は?!」
「…っ、もう何ともねぇ!だから離れろ!」
「本当?!本当に?!本当に治った?!他に痛いとこない?!」
「ないと言っているっ!!」
自分の両頬に手を添え、しかもかなりの至近距離にいるロアに驚いた様子のアルベルに離れろ!と言われたロアだったが、そんなことなど全く耳に入っていないのだろう、終いには腕や足、腹や頬などをぺたぺたと触り出したのだからアルベルは内心かなり焦ってしまったらしい。
そのまま、ぺたぺたと触って何度も怪我の確認をしてくるロアの腕を無理矢理掴むと、大きく息を吸って声をあげた。
「っ、俺に構うんじゃねぇっ!!」
「っ?!」
大きな声で叫ばれたのは、拒絶。
でもそれは何処か悲しげで、心がちくりと痛くなってしまうような寂しさを感じたロアは目を見開いて目の前のアルベルを見つめたまま言葉を失ってしまった。
そんなロアの視線が嫌だったのだろう、アルベルはロアからの視線に逃れるように目の前の彼女から背を向けるとこんな世界から早く起きてしまおうと意識を現実に集中させ始める。
しかしそれは背中に抱き着いてきたロアによって止められてしまった。
「てめぇ…っ!!」
「今のアルベルを放って現実に帰すわけにはいかないし、1人にしておけない!ねぇ、どうしたの?何か引っかかることでもあ、」
「負けた人間なんぞに価値はねぇんだよっ!」
真っ白な世界。
何も無い世界。
そんな世界に乱暴に響いたアルベルの声。
その声量はとても大きなものなのに、まるでそれが無理矢理絞り出したかのように弱々しくも聞こえたロアはアルベルの前へと回り込むと、ギリ…ッ!と歯を食いしばっているその表情を目の当たりにして戸惑いながらもアルベルへと声を掛けた。
「何言ってんの…っ!負けって言ったって、アルベルは3人を相手にしたんだよ?!」
「そんなもの関係あるか。…この世は弱肉強食だ。強いか、弱いか、ただそれだけだ!強い奴が何よりも偉く何よりも価値がある!」
「…アルベル…?」
「俺は負けた、恥ずべき人間だ!例え気休めだとしても俺はこうしてお前に治療をされて今ものうのうと生き長らえている!弱い奴が何故こうして生き延びる?!力の無い奴にそんな資格はねぇんだ…っ!だからもう…俺のことは放っておけ、この身がどうなろうと構わん。」
いつもの自信家なアルベルからは想像も出来ないその豹変ぶりに初めはきょとんとした表情をしてただ話を聞くだけしか出来なかったロアだったが、その話を聞いているうちに、その表情を見ているうちに、それがアルベルの本当の心の叫びなのではないかと思ったロアはしっかりと真っ直ぐにアルベルと向き合うと、いきなり自らの両頬をべちん!と叩いてみせた。
「いっったーい…っ!!!」
「何…してんだお前…っ!」
「っ、ほら!アルベルのそれが正しいなら私もこれくらいで涙目になっちゃう弱虫なんだから無価値なんでしょ!アルベルの阿呆!なんでそんなに勝ち負けにこだわるの!私はアルベルが生きててくれるなら強い弱いなんて関係ないよ?!」
「……あの時…俺が弱くなきゃ、死ぬことなんてなかったんだよ…っ、」
じんじんと痛む頬を擦りながら涙目になっているロアの突然の行動にすっかり呆気に取られてしまったアルベルはその言葉に何かを思い出したのだろう。
赤い瞳を歪ませ、震える程に力強く右手を握りしめ、後悔の言葉を口にする。
「…あの時…?アルベル、一体何のこと言っ……え?」
「…っ?!」
「な、何これ…?」
その言葉の意味が分からないロアが一体何を言っているのかと問おうとしたその時だった。
いつもは真っ白で何も無いこのアルベルの夢の中に、突然熱を帯びた風が吹いたと思った瞬間に辺りが光を無くして薄暗い空間へと姿を変えたのだ。
突然のことに驚きつつもここは何処だろうとロアが辺りをきょろきょろと伺えば、ふいに隣から息を飲む音が聞こえてちらり、とアルベルの方を見る。
「…っ、クソが…っ!」
「?アルベル…あの、ごめん私ちょっと理解が追いつかないんだけど…ここは何処?」
「何故だ、何故夢から覚めねぇ…っ!ふざけやがって…っ!」
どうやらアルベルはこの場所に見覚えがあるらしい。
そしてそれは思い出したくないことなのだろう、必死に夢から覚めようと意識を集中しているようだが、何度やっても覚めることが出来ないらしい。
そんな様子に何とかしなければと頭の中では理解しているのだが、如何せんどう対象していいのかも分からないロアはオロオロと周りを何度も確認することで精一杯だった。
確認したことで分かったのは、ここが何処かの洞窟の中であるということ。
そしてそうこうしている間にも時は進み、いつの間にか誰もいなかった筈のこの場所に、ある人間とある生き物が現れたことだった。
「アルベル…が2人…?!ちょ、本当に何これ?え、ええ?てかあれって…何?!もしかしてドラゴン?!もう訳がわかんないんだけど…!」
自分とアルベルしかいなかった筈のこの空間に現れた人物。
それはなんとアルベルだった。
つまり今この空間にはアルベルが2人いるということになる。
それでさえ訳が分からないというのに、更に頭を混乱させてしまうのはそのアルベルの姿が少し違うということ。
今自分の隣で表情を歪ませているアルベルよりもその身長は低く、髪も短い。顔も幼いし、何よりも左腕にガントレットをしていない。
「…っ…おい。ここは、俺の夢の中なんだろう…?」
「う、うん…そう、だけど…!」
「…チッ…そういうことかよ…!」
「ごめんどういうこと?!」
「……俺は見ねぇぞ。見るなら1人で勝手に見ろ。これは…」
俺の記憶だ
後ろを向き、目を逸らしたアルベルのその言葉と同時に聞こえたとてつもない声量の叫ぶような鳴き声に弾かれたようにその方向に目を向けたロアの目に映ったのは、もう1人のアルベルが刀をドラゴンの右腕へと突き刺している光景だった。
今さっきのアルベルはここを「俺の記憶だ」と言った。
つまりこれは過去のアルベルにあった出来事なのだろう。
やっと今の状況を理解出来はしたが、それにしたってアルベルが背を向ける程の事が今この瞬間に起きているのだろうか?
ロアがそう考えていれば、過去のアルベルの楽しそうな高笑いが洞窟の中に響き渡る。
「はははは!どうだ?痛いか?怖いか?…悪いがややこしい事は嫌いなんでな、止めて欲しくば今すぐ頭を下げ、この俺に忠誠を誓え。」
「キサマ…ッ!コノワタシニムカイ、チカラデネジフセルツモリカ…コノオロカモノメガッ!」
「儀式なんざどうでもいいんだよ。お前はこの俺にただ従えばいい!さぁ、忠誠を誓え。」
「イキテカエレルトオモウナヨ…ニンゲンフゼイガッ!」
「…何…?」
ドラゴンに対して力だけで自分に従わせようとしているらしいアルベルは楽しそうに刀で突き刺しているドラゴンの右腕をギリギリと踏みつける。
その行為にドラゴンは怒り狂ったのだろう、とてつもない殺気と怒声をアルベルに対して響かせると、何処からともなくずるり…と何かを引き吊るような不気味な音を立てた何かが数体アルベルへと向かってきた。
「…ドラゴンの…ゾンビ…だと…?!」
過去のアルベルが目を見開いて口にしたその容姿は、ゾンビ。
体の至る所が腐敗し、皮はべろりと剥がれ、そこからむき出しになっている肉は今にもドロドロに溶けてしまいそうだった。
両足も、その翼ももう無くなってしまったのだろう、両腕だけでズルズル…とアルベルの方へと向かうその巨体に着いている大きな瞳は虫が集り、言葉を失っているアルベルを映している。
「っひ…っ!」
そんな様子を目の当たりにしたロアは思わず小さく悲鳴をあげるが、それでも決して目は逸らさなかった。いや、もしかしたら逸らせなかったのかもしれない。
それ程までにこの光景が恐怖一色で染まり、カタカタと震える体が言うことを全く聞かないのだから。
そうこうしている間にも過去のアルベルへと向かっていたドラゴンのゾンビ達はアルベルから数メートル離れた所で一斉に動きを止めると、ゆっくりとその口を開ける。
赤く燃える光が一つ、二つ、三つ。
その光全てがアルベルへと一直線に向かい、それは地獄の業火となって放たれた。
「ぐ、がああぁぁあッ!」
言葉を失って動けずにいたアルベルだったが、瞬時に避けて致命傷は免れた。
しかし反応がかなり遅れたことで彼の左腕は業火の炎に触れしまい、その皮は変色して本来のそれとは想像もつかない姿へとなっていた。
まるで、目の前のゾンビのように。
そんな自分の腕を見て、頭で「焼かれた」と理解した途端アルベルは悲鳴のような叫び声をあげる。
痛みで思考が働かない、体が思うように動かない。
体験したことも無い痛みに逃れることだけを考え、じたばたと暴れ回ることしか出来ないアルベルは次の攻撃が再度放たれた事など気づきもしていなかった。
その瞬間、だった。
「いかんっ!!アルベルッ!」
響く、重く恐ろしい重低音のような轟音。
何かに強く突き飛ばされる体。
目の前も、心さえも焼き尽くす、まるで血のような炎の海。
それに包まれた人間の影は両手を広げ、地に足を付け、ドラゴンゾンビを従えている目の前のドラゴンへと声をあげる。
「すまなかった!どうか…どうか俺のこの命で許してはくれないだろうか?」
「…グラオ…キサマ…?!」
「な…?!」
「「強く」生きろ!アルベルッ!誰よりも「強く」!それが…それだけが…」
俺の望みだからな!
轟音と共に眩しく燃え盛る炎の中から、どうしてそれよりも眩しいと思えるものがあるのだろう?
どうしてその中にいた筈の自分は離れた場所にいるのだろう?
どうして、どうして、
「親…父…?」
こちらを向いて、これでもかと眩しい笑顔を向けて、そんなことを言った自分の父親は、その瞬間炎に包まれて見えなくなってしまう。
時が止まったかのように、ただ炎を見つめることしか出来なかったその瞳が次に映したのは。
全てを焼き尽くすかのように燃えていた炎がいつの間にかパチパチと地面の上で音を鳴らすだけになった光景。
ただ、それだけ。
「う…………そ………?」
何も無い。何も無い。何も無い。
何も、無い。
小さい頃から眺めていたあの大きな背中も、自分と同じ毛先だけ金色の黒髪も、赤い瞳も。
何も無い。
まるで夢だったかのように、その体は、あの笑顔が、
骨さえ残すことなく、炭さえ残すことなく。
初めから誰もいなかったかのように。
何も、無い。
「あ…あ…っ!」
「親父…親父?!…お、…っ!あ、あぁ…っ!うわぁぁぁぁあッ!!!!」
あるとすればそれは。
何かが焼けた臭いと、
何かを焼かせた炎があったと証明させるかのように残った、
変色して爛れた…アルベルの左腕のみ。
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