涙の数よりも



事が一段落つき、やっと旅館に戻ってきたジンとアスナはお互いに入浴を済ませ、仲居さんが用意してくれた冷酒をグラスに注いでいるところだった。

暫くしてもまだ体中がぽかぽかとする気持ちの良い温泉に浸かり、その後は冷えたお酒を飲めるだなんてかなり贅沢で…最高の最終日の夜だなぁと思いながら、ジンによってグラスに注がれるお酒を眺めていたアスナはついその言葉を口から零してしまう。




「はぁ…ジョウトとも明日でお別れか…何だかんだあっという間だったなぁ…」


「そうだな。…つか、体はもう本当に平気か?」


「ん?うん!全然平気!元気元気!」


「…ならいい」


「?ジン?なんか帰ってきてから少し変じゃない?」


「…ん?そうか?」


「うん…ど、どうしたの…らしくもない…」




零れてしまった言葉を拾いはしてくれたものの。
それは簡単な同意の言葉しか返さずに別のことを聞いてきたジンに返事をしたアスナだったのだが、どうにもテーブルを挟んだ目の前に座っているジンの様子が何処かいつもと違うように見えたアスナはらしくもないと不安そうな表情でジンに問いかける。

すると、そんなアスナの言葉を受けたジンは酒を注ぎ終わった瓶をテーブルに置くと、すくっと立ち上がってアスナの隣へと移動する。
その際に彼が何も言葉を発さず、風呂上がりの為にいつもはワックスでセットしている髪型も素のままなせいで…長い前髪で表情が良く見えなかったアスナはこれからどうなるのかという予想も何も出来ずに身を強ばらせてしまった。




「…えと、ジン…?本当、どうし…」


「……」


「ジンさーん…?あのっ、……へ?」




体が硬直してしまっていても、何とか口を動かすことは出来たアスナのその言葉を聞いているのかいなかったのか。
急にアスナの腕を掴んで自分の方へと引き寄せたジンはそのままアスナの体を力強く抱き締める。
それに驚いたアスナが目をぱちくりとさせてジンの言葉を待っていれば、ジンは暫くしてゆっくりと息を吐いた。




「……はぁぁぁぁぁー……」


「えなに人を抱き締めといてため息って?!」


「…別にため息じゃねぇよ」


「え、じゃぁ何?よ、酔った?!」


「いやまだ飲んでねぇだろうが」


「じゃぁ何、何!も、もう心臓に悪いこの状況!」


「抱き締めてるだけなんだがな」


「なんかそれはそれで恥ずかしいじゃん…!なに、ど、どうしたの本当…!!」




息を吐かれたことが良く分からないが、それよりも。
確かにジンが抱き締めてくれるのは初めてなわけではないのだが、それがこうも長時間となるとアスナにとって話は別だった。
おまけにいつもよりもその力が強く、ゼロ距離通り越して押し付けられているようなその感覚はアスナには慣れない状況。
しかも彼が話す度に近過ぎるが故の吐息がダイレクトに耳にかかってくる始末で、アスナは今にも心臓が口から出てしまいそうなところまで行き着いてしまっている。

これがいつまで続くのか、一体全体急にどうしてしまったのか。
そう思いながらももう話すことすらまともに出来ないアスナが目をぎゅっと瞑って黙っていれば、今度は両肩に手を置かれてゆっくりと距離が離れていった事に気づいてやっと目を開ける。




「……っ、」


「………アスナ、」


「ひゃ、ひゃい…」


「……お前、馬鹿なこと考えてた訳じゃねぇよな」


「……へ……?」




近い近い近い。
そんなカッコイイ顔をキスが出来るくらいに近づけないで欲しい、そんなため息混じりみたいな色気のある声を間近で発さないで欲しい。
そう思って思わず目を逸らしそうになってしまったアスナだったのだが、ジンがそれを許してくれる筈もなく。
ジンにぐっと両手を頬に添えられて逃げられなくなってしまったアスナが見たものは、ジンの赤い瞳が冷たく研ぎ澄まされていながらも何処か寂しそうにしているものだった。

そして、そんな彼の赤い瞳に真っ直ぐに映っている自分の困惑した表情と目が合い、ジンの良く分からない質問に対して返すべき言葉を失ってしまいそうになれば、ジンはそんなアスナを見越したのか言葉を続ける。




「話の続きは後だってあの時炎の中で言ったろ」


「…あ、う…うん…」


「…お前、あの時諦めてたよな?泣きながら床にしゃがみこんで、じっとしててよ」


「!それ、それは…だって、く…苦しかったし…声だって上手く出な、かったから…だよ…?」


「…まさか、死んでもいいだとか思ったわけじゃねぇよな」


「…!それ、は…」


「…サキに負い目でも感じてんだろうなと俺は思ってるんだがな」


「っ…!」




話の続き。
それはジンがアスナを孤児院から助けに来た時に言っていたことだった。
そして、そんなジンから聞かれた質問に上手く答えられなかったアスナは今度こそ彼から目を逸らしてしまう。

それくらいに…図星だったのだ。ジンから言われたその言葉の数々が、アスナにとって。

今この瞬間、笑って誤魔化せたらどんなに良いだろう。
そんなことないよって笑って、もう氷が溶けかけているグラスに入ったお酒を飲み干して…眠くなってしまったと布団に入ってしまえたら、どんなに良いだろう。

そんなことをアスナが思っても、目の前のジンはアスナから目を逸らさずに真っ直ぐに彼女を見つめる。




「……お前がサキに対してどう思ってんのか、何を思ってんのか。俺はお前じゃねぇからそこら辺のことは詳しくは分かんねぇし確信もねぇよ」


「……」


「ただな。自分の今の状況だって崖っぷちの癖に…アゲハントのことにここまで必死になってるお前を見たら、嫌でもそこら辺の察しはつく。…サキに恨まれてるとでも思ってんのか?」


「っ…思って…な…」


「…だからあの時死んでもよさそうな態度だったわけか。…あいつがそんなことをお前に思うわけねぇだろ。あいつは昔からそういう、」


「っ…!分かってる!!分かってるよそんなことは!!ジンならもっと分かってるでしょ?!大好きで大切なサキさんのこと!!あたしを恨む筈ないって!!違う、違うの!そうじゃないっ!!」


「っ、アスナ…?」




ジンからサキの名前が出て、そこから彼女はそういう人間ではないとジンの口から出た瞬間。
アスナは弾かれるようにジンの両手を跳ね除けるように退かすと、彼から少し距離を取って大声を上げてしまう。

そんなアスナの突然の態度に初めこそ驚いたジンだったのだが、少し遠くなったアスナの瞳からぽろぽろととめどなく大粒の涙が零れ落ちている光景を目にして、今度はジンが言葉を失ってしまった。
すると…アスナは蓋が外れたかのように涙と共に心の底からの言葉を零していく。




「分かってる!!分かってるんだよ…!サキさんがそういう人じゃないのは!とっても良い子なのは!でも、違…違くて…っ!あたっ、あたしだったら絶対…!絶対…っ、悔しくて、悲しくて…恨んじゃうだろうから…っ!!だから、だからジンからそんなサキさんの事を聞きたくない…っ!」


「…お前…」


「ジンがサキさんを妹としてしか見てなかったのも、今もそうなのも、分かってる!分かってる…けど…っ!でもそれでもあたし…!あたしだったらきっと!サキさんみたいに優しくなれない!他の誰かに託したりなんて出来ない…!自分じゃない誰かを選んだジンなんて…!見てられない!あたしはそこまで強くない…っ!」


「……」


「アゲハントのことだってそう!口では良い風に言ってても、実際にそうは思ってても!別のどこかから「罪滅ぼし」だなんて言葉が浮かんでたのは事実なんだよっ!!だから…だからあたし、あの時!自分に罰が当たったんだと思った!死んでも仕方ないと思ってた…!!思っちゃった…っ!!あたし、最低なんだよ…じぶ、自分がここまで性格悪いだなんて、思っ、思ってなかったぁ!!」




ぽろぽろ、ぽろぽろと。
零れ落ちる涙と同じ分だけ…いや、それ以上の言葉を吐いて。
止まらなくなってしまった、止める方法も分からなくなってしまったそんなアスナの様子を目の当たりにしたジンは、一呼吸置くとゆっくりとアスナに近寄って今度は震える彼女の体を優しく包み込むように抱き締め、アスナの顎に指を添えて上を向かせると、何故か嬉しそうに笑いながらアスナと視線を合わせる。




「っ、なに、笑って…!」


「いや、なら俺はもっと性格が悪いと思ってな」


「っ…?」


「そんなお前を好きで仕方ねぇんだ。なら俺だって性格が悪いだろ。…ま、性格が悪いのは今更だけどよ」


「う…ぐす、」


「正直…怖かった。お前が死ぬんじゃねぇかと思ったら。…周りも見えねぇし頭も働かねぇし…お前の安全を一番に確認すれば良かったって後悔だけが頭ん中ぐるぐる回って…その癖お前を見つけた途端に何もかもがどうでも良くなった。…確かに俺は今でもサキのことは大事に想ってる。勿論妹としてな。それはお前にどう思われようが変わることはねぇし、俺にとってあいつは一生大事な存在だ」


「っん、それ、は…!分かってるってば、!」


「そんでお前は、死んだ後も大事な「女」……この俺がここまで言ったんだ。あとは察しろこの馬鹿が」


「!…う、うえ…う…っ、むか、ムカつく…けど、あり、ありが…ふっ、ありが、と…!う、うわぁぁぁあんごめんなさい、ごめんなさあい!!だいすき、だいすき…!ジン、ジン…!あたしも死んだ後も、ジンがだいすき…!」


「はいはい、ったく…俺は幸せもんだな」




性格が悪いというなら、一緒に悪くなればいい。
妹が一生大事な存在ならば、お前は死んでも大事な俺の女。
そう言ったジンの言葉が全部全部耳に届いた瞬間、引っ込みかけていた涙が再度ぽろぽろと零れ落ちて止まらなくなったアスナは何度も何度も謝って、何度も何度もだいすきだと言う。

そんなアスナの背中を笑いながら摩って、はいはいと返事をするジンがその後彼女にしたキスの数が…彼女が零した幾つもの涙の雫よりも遥かに多かったのは、ここだけの話。


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