割れない貯金箱




当てられた部屋についていた露天風呂に順番で入り、旅館らしく用意されている浴衣に着替えてから、持ってきてもらった夕食を食べ終わったジンとアスナは、広縁に置いてある椅子に座って優雅に酒を飲んでいる所だった。
この部屋に来て一番初めにアスナを感動させた、エンジュシティが一望出来るこのスペースはジンにとっても落ち着く場所のようで、実はホウエンから持ってきていたらしい「あの本」をパラパラと捲りながら再度テーブルに置いてある酒に手を伸ばそうとしたジンの手を止めさせ、視線を本から逸らさせたのは突然神妙な様子で声を上げたアスナの言葉だった。




「…ねぇ、ジン」


「ん?」


「…先に言っておくとさ、これ別に酔ってるからってわけじゃないんだけどね…ちょっとお願いがあって…」


「?妙に念を入れるな…?まぁ言うだけ言ってみればいいんじゃねぇの?」




さて、新しく仲間になったあのギャロップと今後どういった戦い方をしようか。
そんな風に考えながら記憶の整理の為にアスナから受け取った、昔住んでいた自分の部屋に置き去りにしていたその本をパタン、と閉じたジンは、何やら緊張しているのか、小さなぐい呑みをわざわざご丁寧に両手で持っているアスナを真っ直ぐに見る。

すると、アスナは一度ジンから目を逸らして窓から見えるエンジュシティの街並みを見た後、何故か深呼吸をしてからまた再度ジンの顔を真っ直ぐに見つめ返し、意を決したかのように声を上げた。




「ジンの家!ど、何処にあったの?!」


「…は?」


「だ、だから!ジンの家!いや、燃えちゃったのは知ってるけどっ!ど、何処ら辺にあったのかなって…!ジンがご両親と暮らしてた家…だし、ジンが生まれた場所、だからさ…?」


「……覚えてねぇって言ったら?」


「えっ?!えっ、っ…!お、…思い出し、て…?!」


「っ、…!はいはい、嘘だよ。あーっと…あそこら辺だな。ほら、あの住宅街の一角だけ不自然に更地になってる場所があんだろ」


「!…あ、本当だ…!…そっか、あそこか…!」




目の前のアスナがあまりにも念を押して、神妙な様子を見せるから一体何を言われるのかと思ったジンだったのだが、それはアスナからの言葉を聞いて直ぐに身構える必要のないものだと理解する。
そして理解したと同時に、身体の内側から込み上げてくる熱を感じ、それと同時に目の前のアスナからひしひしと感じる必死な顔に思わず笑いそうになってしまったのだが、ジンはそれを何とか堪えてアスナからの質問に指を指して答えた。

すると、その方向を見て気持ち前のめりになってただの更地をまじまじと見詰めたアスナは、余程ジンが答えてくれたことが嬉しかったのだろう、「それなら」と更に質問をジンに投げかけた。




「ジンがお世話になったっていう孤児院は?!」


「あー…あれは確か……あぁ、あった。あの森の手前にある白い建物」


「あっ!あるね白い建物!そっか!あれかぁ!そっか…そっか…!」


「………くっ、…!ふ、」




今度は自分が世話になった孤児院の場所を聞いてきたアスナに、すんなりと再度指を指してそれを教えれば、アスナはまた嬉しそうに今度は更地からその建物の方を眺め、無意識なのだろうがその体は完全に前のめりになっている。
そんなアスナの横顔からでも分かる嬉しそうな様子に、今度は笑いを堪える事が出来なかったジンはくつくつと喉を鳴らしながらとうとう笑ってしまった。

すると、そんなジンの笑い声で我に返ったらしいアスナが不思議そうに視線をジンへと戻せば、そこには今もまだ笑いながら自分を見ているジンの顔。
まるでその表情は「可笑しい」と言われているようなのだが、彼には珍しく眉が八の字になっているし、何より素直に歯を見せて笑っているその姿があまりにも素朴に感じたアスナは素直に頬を染めてしまう。




「………っ!ちょ、何で笑うの?!」


「いやっ、お前って、…ふっ、本当に俺が大好きなんだなって…っ!」


「?!は、はぁっ?!」


「はははっ、!まぁ付き合ってるわけだしな、それで構わねぇんだけどよ。にしたってお前があまりにも、その…っ、俺の事を聞きたがるし、嬉しそうにするもんだから…っ、」


「っ!!!!」




どうして笑うのか。
そう聞いてきたアスナに対してその理由を説明している内に、本格的に笑いが込み上げてきてしまったのだろう。
素直に笑いながら楽しそうに残りの酒を飲み干したジンにそう言われたアスナは、自分の言動と行動を思い返して更に顔を真っ赤に染めてしまう。

なんだろうか、いや、確かに根掘り葉掘り聞いてしまったし、何より素直に教えてくれた事もそうだが…つまり自分はこんなに笑われる程嬉しそうな態度をとってしまったということなのだろう…と。
そう思ったら、まるで風でぶわりと紅葉が舞うかのように感情が爆発して、あまりの恥ずかしさに裏返った声を大声で出してしまったアスナは思わず自分の顔を両手で覆ってしまった。




「っ…で?あと他には何かあんのか?」


「………まだ聞いていいの…」


「はははっ、何でも聞けよ」


「……その本、わざわざ持ってきたってことは、やっぱり大切なものなんでしょ?」


「………まぁな」


「?……ジン…?」




初めは手を伸ばしても伸ばしても届かなかったあのジンが、今ではこうして自分の目の前にいて…何でも素直に答えてくれるのが嬉しくて、恥ずかしくて。
初めて会った時とは比べ物にならないくらい大好きになった…そんなジンを未だに見れずに顔を両手で覆ったまま言われるがままに質問を追加したアスナだったのだが、その両手は次の瞬間にゆるゆると解けていった。

それは…あれだけ恥ずかしくて固く力を込めていた筈のアスナの両手が解けてしまったのは、先程まで面白そうに笑っていた筈のジンの声にゆっくりと「寂しさ」のような物を感じてしまったからだった。
そして案の定それは聞いた通りの感情だったのだろう。
指の隙間からジンの伏せがちになった瞳を見てしまったアスナは思わず完全に両手を顔から離してしまう。

すると、そんなアスナの心配した瞳と目が合ってしまったジンは我に返ったように一瞬目を見開くと、困ったように笑い、その質問に対して更に詳しいことを話してくれた。




「…この本はな、言っちまえばもう用済みなんだよ。内容は馬鹿みてぇに頭ん中に全部叩き込んであるからな」


「…え、ぜ、全部…?!こんな分厚い本を…?!」


「まぁな」


「っ…な、なら…えっと、36ページの内容!はい!」


「コータスの生態。石炭の適切な量とか一般的に見た理想的な体内の温度のことだな」


「あ…あってる…!!す、凄……」





恐らく100ページ以上はあるだろうこの本の内容を、全部叩き込んだと言ったジンの言葉に驚いたアスナが思わずジンの手からその本を借りてジンへと問題を出してみれば、それはなんと見事に当たってしまった。
言われてみれば確かにアスナもこの本をダイゴからジンに渡してやって欲しいと預かった時に「かなり読み込んでいるな」と思うくらいに背表紙が傷んでいたり付箋の跡があったりというのが目についていた。

前に話してくれたエンテイの加護の事もそうだが、それにしたってここまで読み込むというのは他に何か理由があるのかもしれない。
しかし…そう思っていても、先程のジンの伏せがちになった寂しそうな瞳を脳内で思い出してしまったアスナがそれを聞くか聞かないか迷ってしまえば、ジンはアスナのその迷いに気づいたのだろう、ふとアスナの頭に手を置いて、まるで声でその頭を撫でてやるかの様に優しくその答えを口にした。




「…サキからのプレゼントでな」


「…!」


「トレーナーになった時にジム巡りするっつったら、次の日に「これで勉強するといいよ」ってそいつをくれてな。…キンモクが言うには、大事にしてた貯金箱を叩き割ってまで買ってきてくれたらしい」


「…そう、だったんだ…」


「ガキの貯金箱なんて、中々溜まるもんじゃねぇだろ?…多分その時入ってた全額使ってやっと買えたくらいのもんなんだろうよ」


「……ふふ。そっか…そりゃ大切にするわけだ?それで思い出しちゃうから置き去りにもしてたわけだ?」


「まぁ…正直に言うとそういうこったな」




大好きなお兄ちゃんに、大好きな男の人に。
ジンの言う通り…きっと大切にコツコツと貯めてきたのだろう貯金箱の中身を全部使って買ってきたのだろう、サキの想いが篭っているその本を持っている手に思わず力を込めた後、ゆっくりとその手を本からジンの頬へと伸ばしたアスナは、何とも言えない表情をしてから瞳を閉じた。

この時。
瞳を閉じたことで見えなくなったジンの表情がどんなものだったのかは分からない、いや「分かりたくない」と思ってしまった。
どうして大好きなジンに対してそう思ってしまったのかは…きっと、きっとずっと…自分よりもずっと前から彼のことが「好き」だったのだろう、サキの気持ちと…そんなサキがもし「妹」でなかった場合、ジンはその気持ちをどう受け止めたのだろうかということが、怖かったからなのかもしれない。



でも、それでも。



「…っ、大好きだよ、ジン」


「…よく知ってる」



たらればの話を考えてしまいそうになっても。
たらればの世界を想像しそうになってしまっても。

それでもこうして、唇に降ってきてくれるジンからの答えが同じ「大好き」という気持ちなのがどうしようもなく嬉しくて、じわりと涙が滲んでしまいそうになる。

ごめんねと、ありがとうを。
彼に対して、自分と同じ気持ちをずっと持ち続けていたのだろう…自分を信じてくれて、背中を押してくれたあの時の夢の中のツツジ色の少女の泣き顔と笑顔を思い出しながら…脳内でだけでそう呟いて。


「もっと」と彼の首元に腕を回して彼を強請るあたしは……
彼女と違って想いの貯金箱を割れそうにないあたしは…
確実に彼女よりもずるい女なのかもしれない。



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