歩き出す
誰もいないリビング。
そこに響くのは流れる水の音が必死に「ある音」をかき消そうと勢いをつけて音を立てているだけだ。
「っ、…ごほっ、」
その音を響かせているのは、洗面所。
勢いを立てて蛇口から流れ出る水を眺めながら、口元を手で覆っているジンは悲痛な表情を浮かべ、必死に自身と戦っているようだった。
「っ、…う、ぐ…っ、!」
いつもの、本当にいつもの朝なのに。
うざったいくらい暖かな、スバメやキャモメ達が空を舞う、いつものホウエン地方の朝なのに。
何が切っ掛けか。
何が悪かったのか。
起きた瞬間に何も言わず、大量に噴き出ていた汗を拭くこともせずに洗面所へと駆け込んだジンはかれこれ一時間はこの状態だった。
(お兄、ちゃん…)
浮かぶ、あの光景。
暗く、灰色に染まった曇り空。
全身を打つ雨、白く照らす雷。
自分の足元へと流れてくる…
赤い…
「っ…!!」
流れる水を視界に映し、その透明な筈の色が段々と赤く色を染めていく幻覚を見てしまった瞬間。
ジンは紛らわすように顔に水をバシャリとかけ、ぐっと強く目を瞑る。
それと同時に強く拳を握り、天井へとそれを振り上げると勢いをつけて洗面台へと拳をぶつける。
その痛みで何とか頭の中で消えなかった光景がゆるゆると消えていくのを感じ、自分でも安堵なのかどうかすら分からぬまま、力んでいた全身の力を抜いたジンは力尽きたように床に腰を降ろすと、片手で額を抑えて誰に届くこともない、まるで空気を吐き出すかのような小さな声で…
「っ…ごめん…な…」
−…サキ…−
「さーて!今日はとことん遊ぶからね!まずはカイナのカフェでしょ?そこで椛ゼリーを食べて、美味しい珈琲も飲んで…そんで最後はミナモデパートで大量に欲しい服を買うんだから!!」
「ふふ。私も桃のモンブラン食べたい!…あ、そうだ。アスナ、何かお揃いで洋服買わない?」
「お!いいじゃん!赤と青の色違いとかあったらいいんだけどなー!」
一方、こちらはフエンタウン。
目の前でキャッキャッと今日の予定を立てながら笑い合っている最愛の恋人とその親友を数歩後ろから眺めていたダイゴは何を言うこともなく微笑む。
しかし、アスナの隣で笑っているシアナの表情が無理矢理に作った笑顔なのに気づいて、微笑んでいた筈の表情を変えて複雑そうに目を細めると、ダイゴは少し視線を地面へと落とす。
昨晩。シアナがアスナの電話を取った時から何かがあったんだなとは思ってはいた。
実際、シアナは電話を取ってから直ぐに家を飛び出してアスナの家へと向かったし、数時間後に軽い事情説明と共に「今日はアスナの家に泊まる」と連絡が来た。
正直、軽いと言っても事情を聞いた瞬間、ダイゴは直ぐに大体の想像はついたのだ。
そして、シアナがそんなあいつとの事を「応援する」とアスナに言ってしまった自分を少し責めていることも。
でも、責めながらでも、やはりアスナを止めることはしなかったらしい。
(…ジンくんもきっと…何か…あるんだよね…?)
電話越しで。
悔しそうに、縋るように聞いてきたあの時のシアナの声が、微かに聞こえてくるアスナの啜り泣く声が。
聞こえた瞬間、今すぐにでもあいつを殴りに行きたくて足がピクリと反応をしたのを覚えている。
でも、出来なかった。動かなかった。
だから必死に声をかけた。
大丈夫、あいつはそんな奴じゃない、シアナの判断は何も間違ってない。
アスナがあいつを想ってくれるのは本当に嬉しい、と。
(…うん…ありがとう…私…やっぱり応援するから…!)
(…シアナ…)
(それに、もし…もしだよ…?)
(…うん…?)
(ジンくんが、何かに苦しんでるなら…助けてあげたい…)
(!…それ…は…)
(理由を知っているだろうダイゴに、教えてだなんて言わないよ。……でも、何より…)
目の前で、未だに無理して笑うシアナと、それを分かっている上で同じように無理矢理笑っているアスナをもう一度見て。
昨日来たシアナからの電話の内容を思い出していたダイゴは、あの後に聞こえたシアナの言葉を思い出し、噛み締めるように目を閉じる。
(ジンくんには、アスナが必要だと思う。…きっと、アスナなら…助けられる。)
自分が、そうだったから、と。
そして…
(アスナは、どんな空も、明るく照らしてくれるから。)
あの時の、あの言葉。
本当に信じているんだと、親友を想っているんだろうと伝わってきた、あの時のシアナの声と、言葉。
あれを聞いた時は、思わず目頭が熱くなってしまった。
親友を傷つけられた筈なのに、悔しかっただろうに。
普通なら一番にあいつを責めたい筈なのに。
それをシアナがしないのは、きっと、あいつが、ジンが。僕の親友だから。
そして何よりシアナもジンを信じてくれているからなのだろう。
「あー…今日も良い天気だわー!やっぱり今日は買い物日和だね!昨日の雨が嘘みたいだよ!」
「あはは!昨日は土砂降りだったもんねー…でもアスナが風邪引かないで良かった!」
「!」
雨。
その単語が偶然だったのは分かっている。
でも、それでも、今まで閉じていた瞳を開けてしまった。
太陽は、どんな空も照らしてくれる。
ねぇ、シアナ…君はそう言ったよね?
その偶然に賭けて良いのなら…
賭けて良いのなら、僕は…
「でもアスナは滅多に風邪引かないから大丈夫じゃない?」
「あはは!まぁね!……あれ?とか言いつつあんたも中々引かないよね…?あ。体の丈夫さはおじさんに似たんじゃない?」
「え?…あれ?そういえば確かに…?うーんそうなのかな?ダイゴはどう思う?」
同時にくるりと後ろを向き、こちらを見つめる空と太陽。
そんな2人組と目があい、思わずくすりと笑ってしまったダイゴは優しく微笑んでこう答えた。
「そうだね…強いと思うよ、2人共ね。」
ねぇ、シアナ…君があいつを信じてくれているなら、君の大切な親友が、あいつを想ってくれると言うのなら。
君の親友が、僕でもミクリでも助けてあげられないあいつを助けてくれるって…断言してくれるのなら、
僕も、その隣に…立ってもいいかな?
「ほら!ダイゴさんもこう言ってるって事は体は丈夫なんだよシアナは!」
「そうみたいだね!お父さんに感謝し…ん?アスナ、今体は丈夫だって言った?!「は」って何?!」
「え?頭はふわふわしてるって意味だけど???」
「昔からそれ言う!!もう!してないー!」
「それはダイゴさんが身をもって体験してると思うけどねー?…てか、ダイゴさんなんでさっきから後ろにいるんです?シアナの隣に来ればいいじゃないですか。」
「?そういえば…どうしたのダイゴ?ほら、私の隣!一緒に歩こう?」
「!」
ふと、自分へと伸ばされた、大好きな手。
それを呆気に取られたような目で見つめ、時が止まったかのように動けなくなってしまったダイゴに対して不思議そうに首を傾げながらお互い顔を見合わせたシアナとアスナは一体どうしたのだろうかともう一度揃ってダイゴに視線を移す。
「っ、あははは!全く!君達は本当に…!」
「「へ?」」
すると、どうしたことか。
ダイゴは楽しそうに片手で腹部を抑えながら、急に笑い始めたのだ。
きょとんとしてみたり、急に笑ってみたり。
そんなダイゴに本当にどうしたんだと少し心配になりながらも首を揃って傾げたシアナとアスナが声をかけようとしたその時。
ダイゴはシアナの隣に移動すると、差し出してくれていた手を優しく取ると嬉しそうに笑ってシアナに声をかけた。
「ほら、そしたらシアナもアスナと手を繋いで。」
「え?…良くわかんないけど、うん?」
「ダイゴさん?本当にどうしたんですか?…うーん…でもシアナと手を繋ぐのって久しぶりだから、まぁたまにはいっか?」
「あ。確かに!小さい頃は良く繋いでたけど、大人になってからってタイミングとかもあって出来ないよね!」
そう、シアナはいつもそうだ。
誰かの為に何かをしようと一生懸命になってくれて、優しく微笑みながらこうやって周りの人達の手を取って、真ん中に立つんだ。
そして勇気をくれて、架け橋になってくれる。
そんな君が、僕は大好きだ。
優しくて、暖かくて、弱そうに見えて、心は強い。
「さ。歩こうか!今日は僕の奢り。まずはカイナのカフェに行くんだろう?」
「え?!マジ?!ラッキー!ごめんシアナ!あんたの旦那に今日はとことん甘えるわ!」
「まだ旦那じゃないってば!もう!別に構わないけど!…あ!ダイゴ!私は自分の分は自分で払」
「それは却下ですよシアナさん。」
「なんで?!」
ラッキーだと喜びながら。
顔を赤く染めながら。
得意気に笑いながら。
手を繋いで、フエンタウンから足を伸ばして、ほら。
3人で一歩、前へと踏み出して、カイナへと向かおう。
「…カイナの前に、キンセツを通るのは…これも偶然なのかな…?」
「?ダイゴさん何か言いました?」
「ん?ふふ。…いや、何も言ってないよ。」
…なぁジン。
僕、腹を決めたよ。
お前が助けを求めないから、僕やミクリを突き放すから、今までは強く言わなかったし責めもしなかったけど。
お前を助けられるなら、シアナの親友が幸せそうに笑える未来があるのなら、
お前が、心の底から笑える時がまた戻ってくるのなら、
「…僕は、先に踏み出すからな。」
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