咲いた花





あれから、キンモクさんにここに泊まりたいとワガママを言ってしまってからどれくらい経ったのだろうか。
寝転んだふかふかのベッドから上半身を起こして周りを見てみれば、そこには可愛らしい物が沢山目に入る。

高級そうな花柄の絨毯、ピンク色の大きなソファ、ハート型のクッション、ピッピやエネコ等の可愛らしいぬいぐるみ…
そのどれもが自分の好みとは正反対で、可愛いな、と思った。素直に。

可愛いらしい、可愛らしいけれど…その持ち主はもういない。

それはそうだ、この部屋の主はもう、亡くなっているのだから。
怖がりなのは自分でも良く分かっている。暗い場所で何かの音が鳴るものならそれだけで心臓がビクリと跳ねてしまうのは何度も経験してきたし、笑われたことだって何度もある。

それなのにこの部屋に泊まりたいと思ったのは、正直自分でも分からない。でも何故かこの部屋でないといけない気がしたのは確かだ。「怖さ」は不思議と無くて、まるでそれを肩代わりするかのように「寂しい」という気持ちがとても強い。




「………ん?はーい。」


「アスナ様、温かいお茶をお持ちしました。よろしければ。」


「えっ、?!あぁごめんなさい!ありがとうございます…っ!何かワガママ言っちゃったのにこんなことまで…!」


「ほほほ。お気になさらず。」






自分が今いる部屋を眺めたアスナがそんなことを思っていれば、ノックの後に入ってきたキンモクがお茶を用意してくれた。
慣れた手つきでコポコポと椛模様が入った湯呑みに豊かな緑が注がれる様子を見て、何だか自分の部屋ではないのに妙に落ち着いてしまった。





「…この湯呑み…綺麗な椛ですね」


「えぇ。この湯呑みは昔、ジン様が使っていた物なんですよ。…この柄、アスナ様もお好きでしょう?」


「へ?あたし…キンモクさんに椛が好きだって言いましたっけ…?」


「あぁすみません。その…ポケフォン、でしたかな。そのカバーが素敵な椛の柄でしたので。」


「へぇ…!キンモクさん、良く見てますね…凄いなぁ…!あたし、あんまり周りを見ないからそういうの気付かなくて。」




何故、自分が椛を好きなのを知っているのだろうかとアスナが尋ねてみれば、どうやらポケフォンに付けているカバーを見たからのようだった。

「職業柄ですかね」と困ったように笑いながらお茶を差し出したキンモクにお礼を言って口をつければ、調度良い温度と和む香りが喉を通って流れていく。

こうして体が強ばっていた自分を気遣って、こんな美味しいお茶まで容れてくれて、自分とは正反対だなと息をついたアスナのタイミングを見計らったかのようにキンモクは優しく口を開いた。





「私は、アスナ様が羨ましいですよ。」


「…え?」


「周りを見ないとおっしゃいましたが、それは貴女が何事も一生懸命だからです。だからこそ、貴女は眩しくて真っ直ぐだ。」


「…キンモクさん?」


「…私はね、周りを見すぎて…怖くなって、それ故に大切な時に何も出来なかった人間なんですよ。何かをしようと息巻いても、空回りしてしまう。届いて欲しいのに届かない。もっと早く伸ばしていたら届いたかもしれないのに。」


「……。」


「でも、私が伸ばしても届かなかったものを、貴女は掴んでくれた。…だから今貴女はこうしてこの部屋にいて、未熟な私と共に強い覚悟で過去を背負い、真実にまで手を伸ばそうとしてくれている。……そんな貴女だから、きっとジン様も貴女に心を開いたのだと思いますよ。今日貴女がここに来て、サキ様の話を聞きに来たのが何よりの証拠です。」




必死だった。
ずっとその背中を見て、手を伸ばして、一瞬だけ振り向いてくれたその瞬間を絶対に逃さないと踏み込んだ。

手を離したら駄目だって、それだけで頭がいっぱいで…
自分の周りにいるみんなが大好きだから、笑っていて欲しかった。

笑えないなら笑わせればいいんだって、そう思ってた。
だってそうすれば、あたしも笑えるから。大好きな人が笑っていれば、自分も頑張る元気を貰えるから。





「貴女は、私が知っている誰よりも眩しく輝く、太陽のような方ですよ、アスナ様。……おやすみなさいませ。」


「っ…あの!キンモクさん!」


「…?はい?」


「あたし、思うんです。この家で、サキさんがサキさんらしく…ジンがジンらしくいれたのは、確かに、兄妹が…お互いが笑っていられたからだと思います。でもそれって…」


「…アスナ様…?」


「キンモクさんがいつも、2人と一緒にいたからですよ。」


「!」


「…なぁーんて!へへっ!明日は大切な日なんですからね!キンモクさんも早く寝てください!じゃ!おやすみなさい!」


「え?あ!アスナさ…っ」




バタン、と。
言いたいことを言って直ぐに照れ隠しをするように扉を閉めたアスナは再度ベッドに横になると早く寝てしまおうと瞳を閉じる。

先程まではこの部屋の中で寂しさを感じていた脳が、体が。
いつの間にか温かいものに変わっているのはきっと、あの美味しいお茶のせいだけではないだろう。

だって彼もまた、人を暖めることの出来る人なのだから。

段々と近づいてくるゆらゆらとした微睡みの中から微かに聞こえた「ありがとうございます」というさっき聞いたばかりの声に、微笑みながら。















アスナさん………アスナさん………


お願い、気づいて…………アスナさん………




「…………ん………?」





ふわふわとした感覚の中。
日向にいるような暖かさを感じて意識をはっきりとさせたアスナは普段感じたことのない浮遊感を覚えながらも何とか体を起こして周りを見渡す。

見渡しても何もない空間なのに、何処からか暖かい光を感じてそれを探せば、一瞬…本当に一瞬だけ見えたツツジ色を目で追いかける。

ゆらゆらと揺れているその光をハッキリと視界に入れたアスナが手を伸ばしたと同時にやんわりと眩しさを増した光に思わず目を瞑れば、何かがアスナの頬をふわりと掠めて目を開ける。





「…………?女の…子…?」


「良かった………やっと会えた……!アスナさん…っ!」


「………?なんで…あたしの名前……」


「お願い…あまりこうしていられる時間がないの…アスナさん……あのね、私…あの時本当は………」


「?…ねぇ待って………貴女………もしかして……っ!」





アスナが目を開けたその先。
そこにはツツジ色の髪を揺らした、鮮やかな緑色の瞳をした女の子が立っていた。

それは10代半ばくらいの、とても可愛い女の子。
その女の子は何故か自分の名前を呼んでいて、縋るような瞳を向けてくる。

赤いリボンタイがその髪と共に靡いているのを見て、何故かジンの顔が頭に浮かんだアスナは段々と瞳を大きく見開いていった。





「………アスナさん…お願い…お兄ちゃんを助けて…っ」


「………サキさん………サキさん…なんだね…?」


「………っ、うん…」






やっぱり、そうだ。
この子は…今目の前で大きな緑色の瞳を揺らしているのは、自分が今寝ている筈の部屋の主でもあり…ジンの心の中に今もずっといる、サキ。

ジンがずっと手を離さないでいる、妹のサキだった。

それが分かった途端に名前を呼んだアスナの問いに答えるように自分の拳を強く握ってゆっくりと頷いたサキはアスナの元へと近づいてすぐ目の前まで立つと、急に深々と頭を下げて見せた。





「お願い………お願い……します………アスナさんにしか、頼めないの……アスナさんじゃないと、お兄ちゃんに届かない……」


「…っ、え…?」


「違うの………あのね、私…!あの時お兄ちゃんに言いたかったことは、あんなことじゃないの…っ!お願い…お願いアスナさん…っ!誤解を解いて…!お兄ちゃんを嘘の私から解放して…!」


「っ、サキさん…分かったから…正直まだ状況は飲み込めてないんだけど、取り敢えずちゃんと話を聞くから!落ち着いて話してみて。」





お願い、お願いだとまるで藁を掴むかのようにアスナの両手を握ってきたサキの手を一度離し、今度はアスナがその両手を握って話せば、その暖かな感覚に少し落ち着いたのだろう、サキは取り乱してごめんなさいと再度頭を下げると、ゆっくりと…それでも確実にアスナに伝わるようにとハッキリとした声で言葉を繋いでいった。





「私が窓から飛び降りた時……あの時ね、私…走ってきてくれたお兄ちゃんの腕の中で…どうしても言っておきたいことが一つだけあったから、それを頑張って伝えたつもりだったの。」


「…うん…」


「でもね、正直あの時もう色々な感覚がなくて、上手く喋れなくて、でも…どうしても言わなきゃ、って…それしか頭になくて…無理矢理口を動かしたから、所々ちゃんと言葉に出来なくて…っ」


「…それって……」


「……私…お兄ちゃんに幸せになるななんて言ってない…っ!!本当は、本当にお兄ちゃんに…っ、」








幸せになってって、言いたかった…っ!!







その言葉が、何度も何度も木霊する。
最後の力を振り絞ってでも、死が目の前に迫っている中でも、それでもどうしても伝えたかった言葉なんだと。


ぽろぽろと零れる涙と共に口から吐き出されるその言葉の数々を聞く度に、それはアスナの瞳からも涙を零れさせていく。





「ずっとお兄ちゃんが大好きだった。ぶっきらぼうで言葉は優しくないし意地悪だったけど、本当は素直じゃないだけで凄く優しくて、自分を犠牲にして嫌なこと全部引き受けてくれた!そのせいで凄く嫌な思いを沢山したと思う…!きっと何度か私のことも嫌になった時があったと思う…!でもそれでも私を一番に考えてくれる…そんなお兄ちゃんに恋をするようになって…一緒にいるのが辛い時が沢山あった!手を伸ばしても届かなくて、その度に伸ばすことさえ悪いことなんだって自分に言い聞かせて…」


「っ…うん…」


「我慢してたの!妹だから、お兄ちゃんだから。血が繋がってるからって。だから血が繋がってないって知っちゃった時は凄く悔しかった!今までのは何だったのって!頑張っても良かったんじゃないのって!正直酷いと思った…お兄ちゃん、絶対私が好意を抱いてるって気づいてたと思うから…!!でも、でもね…!」


「……」


「それでもやっぱり、大好きなのは変わらなかった!お兄ちゃんとの思い出はどれもみんな暖かくて幸せなものだったから!だから…だから私は、例え妹止まりだとしても、妹としてしか見てくれないんだとしても、それでも大好きなお兄ちゃんが笑ってるなら何でもいいって思ったの!本当に好きな人と一緒になってくれるなら、それが私にとっても幸せなんだって!!だから、だからあの時…っ!」


「……本当に言いたいことが……伝わらなかったんだね…っ?」


「う…………うぅ…う、……ふっ、…う、うん…っ、うん…っ、!」






なんて、悔しい兄妹なんだろう。
なんて、こんなにも想いあっていて、すれ違っている兄妹なんだろう。

どう表現すればいいのか、本人じゃないから分からない。
言葉が浮かびもしない。
でも、それでも今こうして自分に想いをぶつけてくれているサキがどれだけ辛かったのか、どれだけ悔しい想いをしていたか。

それが、死んでも尚、いや…更に何倍にも増して「悔しさ」という負の感情を纏って今までこうして彷徨っていたのかと思うと、もうアスナは涙を零してその小さな体を抱き締めることしか出来なかった。




お願い、助けて、本当の言葉を届けて




そう何度も何度も嗚咽の混じった中で必死に叫ぶサキの頭を撫でて何度も何度もアスナが頷けば、サキはまだ呼吸の整っていない肺と喉で更に言葉を繋げる。



キンモクにも笑っていて欲しいのだと。



その言葉を聞いて、もうアスナも頭の中がぐちゃぐちゃになってしまい、考える事が不可能になってしまう。
出来ることと言えば、必死にその体を抱き締めて、頭を撫でて、背中を摩って。

少しでも気持ちが晴れるように、ただただ、救えるように。




「キンモクさんはねっ、頑張り屋さんなんだよ…っ、いつでも何処でも私を助けてくれたの…ずっと傍にいてくれたの…!あの人がいたから私もお兄ちゃんも笑っていられたんだ!なのに私…キンモクさんのことも縛っちゃった…!苦しめちゃった…!!」


「っ………」


「お願いアスナさん…っ!お兄ちゃん、ああ見えて馬鹿だから…沢山アスナさんを傷つけたと思う、キンモクさんも迷惑掛けちゃったと思う…っ!でも、でもね、それでも私にとって大好きな人達なの!家族なの…っ!!だからお願い…っ、アスナさん…っ、違うんだよって、大好きだよって、笑っていて欲しいんだよって…伝えて欲しい…っ!」


「っ…サキさん…………あのね…あたしも…貴女に言いたいことが、……ある………っ、」


「…っ……?」






頭がぐちゃぐちゃだったのに。
涙で視界が揺れていたのに。

サキの言葉と気持ちを全て受け止めた時にアスナの中で生まれたその言葉は何も無い空間の中で響く2人のすすり泣く声に混じり、一番強く輝く。




「サキさんのせいで嫌なことがあったとしても…それでサキさんのことを嫌になるなんてこと、ジンは絶対にない。そんなの違う。縛られたりなんかも、苦しんだりなんかもキンモクさんはしてない。……そう見えてたとしてもね…それは…」


「……っ?それ…は…?」


「2人が、サキさんのことを大好きで、笑っていて欲しかったからだよ。………サキさんと同じでね。」


「………っ!!」






何もない空間だった筈のその場所は、まるで一つのキャンパスに絵を描いていくかのように色が塗られていく。

地面に現れた、黒と赤と黄色…そして青い沢山の花の蕾は、強く輝く、真っ直ぐで眩しい光に照らされ…






「…………っ…………ありが………とう………っ!」






1人の少女の笑顔の花が、可憐に咲く。



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