割れた硝子
夢か現実か。
現実か夢か。
分からなくなってしまう中で確かなことは、自分が微かな煙草の匂いに包まれているということだった。
煙草を吸っている身近な知り合いなんて、ジンしかいない。
いつも余裕そうにして、人を小馬鹿にして、何事もすぐ面倒だと言って欠伸をして、バトルが強くて、カッコよくて…
そんなジンが今、こうして自分を抱き締めてくれていることがもう夢のようなのに、
「好きだ」なんて言葉を言ってもらえるなんてそんなの、夢でしか有り得ない筈なのに、
自分の心臓の音に負けないくらいに響いてくる彼の早い鼓動がそれを確かな「現実」なんだと実感させてくれた。
「…夢じゃ、ない?」
「夢じゃねぇよ。」
「っ、…う、うあ…ふ、意味、わか、ん、ない…んだけど」
「…まぁそうだろうな。」
「付き合うつもり、ない癖に…好きとか、何なの…てかいつからだよ…っ」
もう意味が分からない。
これが夢ならばどんなに分かりやすいことか。
それはそうだろう、夢ならば自分の願いが夢として現れてしまうだけなのだから。
それなのに今もまだ自分を抱き締めているこの男は耳元でハッキリと「夢じゃない」と否定する。
本当に意味が分からないし、まず一体いつ何処で自分を好きになったというのか。
頭の中がぐちゃぐちゃで本当ならもっと聞くべきことがあるような気がするのに思わずそんな事をアスナが口にしてしまえば、ジンはゆっくりとその体を離すと真っ直ぐに目の前のアスナを見る。
「今さっき。」
「……………………は?」
今さっき。今さっき?
今さっきって何、どういうこと。
今ってこと?さっき?うん、さっき。ついさっきってことか。そうか。ついさっきか。
いやいつだよ。
「ねぇふざけてるよね?あたし今そんな冗談受け入れられる程のメンタルないんだけど。気持ち切り替えたばかりでそんな余裕ないんだけど。」
「お前なぁ、俺が嘘つく人間だと思うか?」
「めちゃくちゃ思うけど。」
全くもって全然真剣な雰囲気に思えないこの空間にいるせいか大切な事がすっぽりと抜け落ちてしまっている気がするが、目の前のジンは真剣にも見えて、何処か諦めたような雰囲気も感じる。
嘘つく云々は否定するが、こんな自分を思って壁を作っていたくらいの彼が今更そんな嘘をつくとは正直思えなかったのは本当だ。
「まぁ冗談は置いといて。…さっき、お前がシアナに言ってた言葉だよ。」
「……へ?」
「諦めなきゃいつまでも終わりじゃない。好きなんだから仕方がない。…お前、そう言っただろ。」
「っ…いっ、言った……けど…」
「ダイゴ辺りに聞いてると思うから端折るけどな。…お前、サキに似てんだよ。…いや、似てると思ってたの方が正しいか。」
「ジン…?」
アスナが妹の事を知っているのだと察していたジンはスパッとその経緯を飛ばすと、唖然としているアスナから視線を外し、遠くの方で降り続いている雨を見てからゆっくりと、それでもハッキリと話し出した。
アスナが妹に似ていると思っていた、と。
その表情が寂しそうで、思わず名前を呼んでしまったアスナに応えるようにジンは言葉を続けた。
「…あいつから気持ちを打ち明けられた時にな、俺はあいつに「血が繋がっていようがなかろうが、お前は俺の妹だ」って返した。傷つくことを承知でな。」
「っ…」
「…その時のあいつは、泣きながらこう言ったんだよ。」
(分かってるよ!諦めなきゃいけないことなんて!どうせ叶わないんだって!好きになっちゃ駄目なんでしょ?!分かってるよそんな事!自分が一番良く分かってる!)
「…何でお兄ちゃんなの。何で妹として生まれて来ちゃったの。こんな思いをするなら生まれて来なければ良かった。」
「…っ…!!」
「…あいつが死ぬ前にそう泣き叫ばれててな。それをお前のあの言葉を聞いて思い出しちまった。笑っちまうくらい真逆過ぎてよ。」
「…ジン…もう、」
「それを思い出した時に思ったんだよ。お前はサキとは違うってな。てっきり俺もお前を妹みたいに好いてるかと思ってたんだが…どうやら違ったみたいでな。普通に女として好きだったんだわ。ったく、我ながらダセェのなんの。」
「っ、ジン…!」
「お前の頑張りは決して無駄じゃねぇ。叶わないなんてこともねぇ。現に俺はお前の真っ直ぐな気持ちに惹かれた。…けど、悪いな。やっぱ付き合うとなると話は別なんだわ。」
あいつを置いて、幸せにはなれねぇから。
ねぇ、何で笑っていられるの。
何でそんなに寂しそうに笑うの。
確かに最初はあんたのふいな笑顔に惹かれたよ。
でも、でもそんな表情は見たくない。
やっと気持ちが届いたのに、認めてくれたのに。
今ここで手を離してしまったら、諦めてしまったら。
もう二度とジンを救うチャンスなんて来ないかもしれない。
「っ…ジン!」
「あ?」
行かないで。置いて行かないで。
そうやってまた1人で歩いて行かないで。
やっとこっちを見てくれたのに、やっと振り向いてくれたのに。
やっと本当の表情を見せてくれたのに。
このまま手放すなんて、あたしがするわけないだろう。
手を伸ばす。
心の中で、雨の中ただ佇んでいたジンへと。
手を伸ばす。
名前を呼んでも願っても振り向いてくれなかったジンへと。
手を伸ばす。
その心の部屋から出ようとしないジンへと。
伸ばしたその手は、まるでその心の温度を映したかのような冷たいガラスの壁に届く。
「やっと、届いたんだから…っ!」
そうだ。後は、ここまで届いたのなら。
伸ばした手を強い強い拳に変えて、思いっきり殴ってやればいい。
ただ、それだけでいい。
「っ…、」
パリィン…ッ!
音を立てて、響かせて。
自分の目の前にあったはずの硝子の壁が割れて飛び散ったその先に現れたその女は、力強い瞳で真っ直ぐにこちらへと距離を詰める。
後ろへ下がらないといけない。早く離れなければいけないのに。
急いで後ろへと下がった足は、またすぐ後ろにあった壁にぶつかって、これ以上後ろへと下がれない。
あぁ、なんて馬鹿なのか。
こんなにも自分は狭い箱に篭っていたというのか。
それに気づいた時、力が抜けたように、降参とでも言うように目を閉じたジンの唇に触れたものは、火傷しそうな程に熱かった。
「っ、付き合う云々とか取り敢えずどうでもいい!それよりもあんたはまずその怪我を治すこと!」
「……お前なぁ…」
「あたしはやる事が出来たから!だからお見舞いにはもう来ないからねっ!」
取り敢えず大人しくしていろっ!
そんな声がもう既に遠くから聞こえ、見えなくなってしまったその後ろ姿を見ていたジンはやられた…と自らの顔を片手で覆うと、誰もいなくなった空間に1人ぽつんと声を響かせた。
「…どうしろってんだよ……なぁ、サキ…」
見上げた世界は、広くて、眩しくて。
久しぶりに外の空気を吸ったような、そんな気がした。
きっと、もうすぐだね。
(大丈夫だよ、お兄ちゃん)
何故そんな声が聞こえた気がしたのか。
何故こんな柔らかな気持ちになったのか。
分からない、分からないが、確かに聞こえたその声は一体自分に何を伝えたいのか。
取り敢えず言えることは、
それを考えるまでに聞こえたダイゴの怒鳴り声が物凄くうるさいということだった。
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