受けた恩




夢を見るんだ。

青く、青く。どこまでも透き通るような真っ青な空が一面に広がる世界の中で、ぽつんと女の子が立っている夢。

女性だとは分かるのに、逆光でその顔は見えなくて…
声を掛けたいのに不思議と声が出ないんだ。

手を伸ばしても届かなくて、いくら歩いても近づけなくて。
まるでそこに、テレビのような透明な壁があるかのように感じてしまって…諦めて目が覚める。




「…まただ…」




その度にこうして勝手に流れ出す、理由の分からないこの涙を拭うのはこれで何回目だったか。
涙が流れてくるのに、それでも悲しみも虚しさも感じない自分の感情が、まるで「心を無くした」と言っているようで。
何気なく見る窓の向こうの青い空がそんな自分を慰めてくれるような、そんな気もして。

その度に何故かテーブルの上に置きっぱなしの、持ち主が分からない空色のネックレスを見てしまう理由も、僕には分からない。




「…君は…誰なんだい…?」



















「外部との情報をシャットアウトする?」


「そうらしい。何でも担当医の方の話だと、失われた記憶…つまり、シアナちゃんの事を思い出そうとすると、ダイゴに負担が掛かりやすいようだ。酷い頭痛と目眩の症状が見えるから、無理に思い出させるのは良くないと判断したと聞いた」


「…成程な…そんな状況でマスコミやらテレビやらの情報をあいつに与えると、嫌でもシアナの話が出てくるだろうしな…」


「そういう事だ。だから今は外部との接触を一切させず、カウンセリングで記憶の整理を優先するらしい。シアナちゃんの記憶が無くても、何故か彼女の父親のことは知っていたり、お前がホウエンに戻ってきた事も知っているから、本人も情報が入り交じって混乱しているようでな…」





早朝早く。
カナズミシティにある総合病院の渡り廊下でダイゴの話をしていたジンとミクリは窓から見える嫌味な程に青い空をバックに立っていた。

面談が許されている時間になるまでの間にこうして情報をジンに共有したミクリは、相変わらず昔から理解力の早いジンに内心助けられながらもその表情が晴れることはない。
正直まだこれから先自分達がどうしていいかも判断するのが難しい状況なのだ。
立場上考えるべきなのは分かっていても、それよりも友人2人の状況が目を背けてしまいたくなる程に残酷で、気持ちが追いついてこない。





「…そうか、分かった。…シアナにその話は?」


「彼女にはムクゲ社長が説明してくれたらしい。…反応は…すまない、聞けなかった」


「…まぁ、そりゃそうだろうな」





手摺りに寄りかかりながら話しているジンは、ふと振動を感じたらしくライダースの胸ポケットからポケフォンを取り出すと、何やら返事を打つと、ミクリに視線は移さずに、まるで後ろにある真っ青な空に向かって話すかのように視線をそちらへ向けた。
ミクリの暗い雰囲気を察してそれ以上の事は聞かず、どちらかと言えば今度はジンがミクリに何かを話す番なのだと言いたげなそんなジンの雰囲気を今度はミクリが察してその言葉を待てば、意外な事にジンはミクリに対して謝罪をしたのだった。




「…悪かったよ」


「……どうした?お前らしくもない」


「…いや、流石にあの時は考え無しに感情を表に出し過ぎたと思ってな」


「…あぁ、あの時か」




ジンが謝罪した事。
それがどんな事に対してなのか明白にされなくても、ミクリにはその事が直ぐに分かって、気にするなと静かに首を横に振る。
それはダイゴが目覚めてすぐの…あの時の事だ。
普段のジンは怒りや悲しみという感情をあまりはっきりとは表に出さない。
しかもそれが行動にまで出るというのは中々に稀だ。
だからミクリからすれば、寧ろあの時はダイゴの胸ぐらを掴んで怒鳴ったジンが衝撃でダイゴの記憶喪失の事を考え込んでこうして暗くなるのが「今」になってしまっただけで。

正直あの時ジンがああしてくれていなかったら、あの時の自分は何を言ってしまっていたか分からない。




「別に気にしていないさ。まぁ驚きはしたが、そのお陰で私はあの時ダイゴに余計な事を言う暇が無かったし…こうして考え込んでマイナスな雰囲気を晒してしまう事も無かった。鉢合わせてしまったシアナちゃんもダイゴに気づかせずに冷静に部屋に戻せてあげられたしね」


「…まぁ俺もあの時怒鳴った分、お陰さんで冷静になるのが早かったから…今お前が探し求めてる事を今の俺は答えてやれる」


「…答え…?」




あの時怒鳴った分、ジンは今のミクリとは逆でいつもの冷静さを取り戻していたらしい。
お互いがお互い、あの時真逆の感情をさらけ出したお陰で上手くバランスが取れたというのが不幸中の幸いだったのだろう。

自分が今この先どうすればいいのか、何から始めればいいのか。
考えなくてはいけないのに…今あるこの状況が残酷過ぎて答えを見つけられていなかったミクリを助けるかのようなジンのその言葉は、伏せ気味だったミクリの目を丸く開かせるには充分過ぎる答えだった。






「…ミクリ、お前がホウエンのチャンピオンになれ」





とっくに面談開始の時間になっていたのだろう。
いつの間にかざわざわと人が増えていた雑音の中でもハッキリと聞こえたその言葉を耳に入れたミクリは思わず横にいるジンの顔を見る。

すると、今まで廊下に背を向けて窓の向こうを眺めていた筈のジンの赤い瞳と目が合ったミクリはその真剣な表情を目の当たりにして言葉を失ってしまった。





「……冷静になってから色々考えてた。何であの時ヘリが落ちて来たのか。ニュースでは「整備不良」なんて報道されてたが、それにしちゃぁどうも怪しい。本当の原因は何処にあったのか、最悪の原因からしらみ潰しに推測してって、もしかしたら…って所までは考えついた」


「…もしかしたら…とは…?」


「それはまだ確証も何もねぇから言わねぇよ。だから俺はそれを探る為に一旦リーグから離れるつもりだ。隠れて調べもんすんのは昔から得意だからな」


「っ…だが、それで私がダイゴの代理というのは…!別に他の四天王が一時的でも代理をすればいいだろう?それにお前だってその実力は充分に…」


「…「成り上がりチャンピオン」だなんてレッテルをあいつらに背負わせんのか?…お前が当時四天王を倒したのにチャンピオンにならなかったのは、その後ダイゴに負けたからって訳じゃねぇだろ。四天王にだってならなかったのはコンテストとの両立がジムリーダーの席の方がやり易かったからだ。それに俺は「チャンピオン」なんて柄じゃねぇよ」


「…それは…」


「まぁそれは、お前が公式戦やって今の四天王全員を倒せたらの話だがな。…まぁその後がちっと問題なんだが…それは落ち着いたら後で話す」




まるで出る杭は打つとばかりに。
この先の先を見通していたらしいジンの言葉を淡々と聞くことしかほぼ出来ていないミクリは、その話をきちんと聞いて理解しながらも上手く言葉を返せずにいた。

いつだったか。
こんなジンを見たのは、本当にいつだったか。
昔から自分を犠牲にして…見えない所で周りを持ち上げていたこの男のこんな姿を、まさかまた見ることになるだなんて。
それがホウエンに帰って来たのが原因か、はたまたアスナが原因か。


それとも、今最悪の状況にいるあの2人が原因か。


ジン本人でないからそれは分からない。
分からないが…それでも。





「…シアナの様子は今から俺が確認してくる。アスナも着いてるだろうしな。…お前はその話、ちゃんと考えとけ」





ジンが本来のジンらしく、昔の様に下らない事で競い合って笑っていた…あの頃のジンに戻りつつも、その背中は明らかにあの頃よりも大きく広くなって、頼もしさが一層強くなったその遠くなっていく後ろ姿を見送ったミクリは、やっとその瞳を細めて笑みと共に言葉を零すのだった。





「……お前は、そうやっていつも私達の尻拭いをするんだな…昔から……ずっと、そうだった」





分からない。
どれだけ帰って来なかった時間が長くても、目の前から居なくなった時間が長くても。

こうして帰って来て、自分を取り戻して。
その途端にお前はまた自分達の為に身を盾にして守ろうとする。

昔からそういう所は敵わないと思うのに
それでも言葉では絶対に言わない今回の根本的な理由が…


一時的でも、ホウエンを代表する…チャンピオンという地位から身を引く事になってしまったダイゴの評判も名声も…ダイゴがチャンピオンとして今まで築き上げてきた、この「ホウエン」という地方全体の評判も。
そして、その婚約者であるシアナとの関係も悪い方向へ向かないようにとの事なのだと。


そう分かった自分もまた、少しは成長しているのではと思ったミクリは一度目を伏せるとゆっくりとその瞳を開き、ジンとは真逆の方向へと歩きながら自分の師である男に数ヶ月ぶりに電話をかけるのだった。







(そんな人に、会いたくない理由なんてある?!何があったのかなんて知らないよ!教えてだなんて馴れ馴れしい事も言わない!でも私はそれでも絶対に烈火くんを連れて帰る!ダイゴにもミクリさんにも会わせてみせるから!)


(あぁ分からないねっ!!好きで帰らないだなんて言っておきながら、その首の刺青も、ピアスも律儀に身につけてるお前の気持ちなんて分かるわけないだろう!!)





「……受けた恩は返す主義でな…」






真剣な表情で、そう呟いていたジンの背中を見送ることをせずに。



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