枯れた大地





何か…そう。
悪い夢でも見ているのだと思った。
自分はまだ本当は起きていなくて、今も病院のベッドの上で。
気を失う前に起きた出来事の不安から、こんな夢を見ているだけなんだって。




「……?ねぇ、あの空色のネックレスって誰の?」




そう、きっとそうに違いない。
だって、だって目の前で起きているこんな事が現実なんだとしたら…そんなの誰が望んでいた事なのか分からないもの。
こんな事が現実なんだとしたら、そんなの。




「な…に、何の…冗談…?」



自分の身体が震えているせいなのか、隣にいるアスナの声が震えているように聞こえたと思えば。
後ろにいたお父さんの大きな手が私の両耳を塞いでしまう。

その後すぐ、アスナの声で私達が部屋に来たことに気づいたらしいジンくんとミクリさんと目が合えば、耳を塞いでいるお父さんの手を貫通して、ジンくんの怒鳴り声がはっきりと届く。




「てめぇ…っ!ふざけんなよ…?!まだ寝ぼけてんならその頭かち割って覚ましてやろうか?!あぁ?!」


「っ、…ジン!落ち着け!取り敢えず担当医の方を呼ぼう!話はそれからだ!まだそうと決まった訳じゃないだろう!」




あの、いつも怠そうにしているジンくんが。
ベッドに横になっていたダイゴの胸ぐらを掴んで…震える程力を込めた拳を振り上げている光景を見たら、嫌でも分かってしまった。
これが夢じゃなくて、紛れもない現実だと言うことが、嫌でも。

ジンくんをダイゴから引き離そうとその体を後ろから押さえつけるミクリさんと、ジンくんの行動に訳が分からないと言った表情で咳き込むダイゴ。

いつもなら、私が部屋に入って、その瞳に私が映った途端に優しい笑顔で名前を呼んでくれる筈なのに…彼は名前を呼んでくれるどころか私に気づかない。





私が彼の視界に入ることさえ、ない。





「っ…アスナちゃん、先生を呼んできてくれ。私はシアナと部屋に戻るから」


「っ……は、…はい…!」





何も言えず、ただただ見ているだけ。
声を出す事は出来ないのに、目の乾きは感じて瞬きは出来る。
なのにそこに存在している感覚がまるでなくて、気づいたら塞がれていた耳からお父さんの手が離れて…私はそんなお父さんにきつく抱き締められていた。

いつもと違う、火山の焦げ臭い匂いがしない真新しいスーツの匂いがやけに鼻を通って不思議な感覚を味わっていれば、ゆっくりゆっくりと自然に足が動き、気づけばいつの間にかジンくんの怒鳴り声が段々と離れていったのを、今でははっきりと覚えている。

















「記憶喪失だと言われた…恐らく、頭を強く打ったのが原因なのではと、先生が…」


「………記憶…喪失…」


「……でも…!ダイゴさんはジンのこともミクリさんの、ことも…!あたしやムクゲさんの事だって覚えてますよね…?っ…ねぇ、ねぇ…!何かの間違いだよね…?!」


「………それは…」


「っ、ねぇ!ねぇ誰か!間違いだって言ってよ!!だって…!だって!!そうじゃなきゃ…そうじゃなきゃさぁ!!こんな…こんなのってないよ!!!」





あれから何分、何十分…何時間経ったのかすら分からない。
自分がその間何をしていたのかも、何を思っていたのかも。
もしかしたらベッドで眠っていたのかもしれないし、ずっとお父さんの腕の中にいたのかもしれない。

はっきりしている事は、ベッドから上半身を起こしている私のすぐ横で涙を流しているアスナの声が痛いほど耳に良く通っていることと、その近くで先生からの話を教えてくれているお父様と、私のお父さんが苦しそうな表情をしている事だけ。
きちんとダイゴの状況を話してくれている筈なのに、どうしてもさっきからその言葉が上手く耳から脳に伝わってこない。




「…ダイゴは……」


「!やめて、やめてムクゲさん!いわ、っ言わなくていいよ!あたし聞きたくないよ!!」





うん、そうだね…アスナ…私もその言葉の続きは聞きたくない。
だって、だってきっと、その言葉を聞いた時…私は絶対にその言葉だけは、嫌味に感じる程に脳に伝わってしまう自信があるもの。

そんな事になったら、どうなるんだろう…?
自分のことなのにその先の自分が全く分からない。






「…シアナの事だけ、すっぽりと記憶が抜け落ちているらしい…」






あぁ…聞いてしまった、入ってしまった。
ふわふわして、ゆらゆらとして。
まるで水の上に浮かんで空をぼーっと見ているような、不思議な感覚の中にいた筈なのに。

目の前にいるお父様の震える声が、その言葉が。
すんなりと耳に入って、脳内に響き渡った途端に…水の上に浮かんで居た筈の体は呆気なく沈んで背中が底に着く。





「っ…シアナ…!!」


「…あ………ぁ、…ぁ…!」





自分の周りを満たしていた筈の水は、いつの間にか全て…全て無くなった。






「ぁ……!ぁ………、は…っ、あ…!」






(もう大丈夫だよ。危ないところをどうもありがとう。なんとお礼を言ったらいいか…!)


(ふふ。気にしないでください!困った時はお互い様ですから。)




あの時の…青い空の下で彼を見つけた時の事も




(シアナ!あぁ…!良かった…シアナ…っ!)


(…え?ダイゴさん…?あれ?…え?)




初めて、呼び捨てでこの名前を呼んでくれた時の事も




(…シアナが好きだよ…ずっと、好きだった)


(っ、ダイ…)


(何度でも言うよ。君が好きだ…)




今、自分の胸元で光っている…この空色のネックレスと共に渡された彼の気持ちも




(僕は彼女、シアナと真剣にお付き合いをさせて頂いてます。)



大勢の観客と、カメラの前ではっきりと世界中に私との事を宣言してくれた彼も



(…よくも…やってくれたね…)



アローラで、おばあちゃんに捕まった私を助けに来てくれた彼も



(…その時は…僕と、結婚して下さい)



髪が元の長さに戻ったその時はと、そう約束してくれた彼も



浅瀬の洞穴でギャラドスから助けてくれた彼も、
婚約発表パーティーのドレスの事で喧嘩した彼も、
そんなパーティーでさり気なく私の背中を摩ってフォローしてくれた彼も、
おばあちゃんにこてんぱんに脅されて親子して怯えていた彼も、
自分勝手に飛び出した私を空港まで追い掛けて来てくれた彼も、
そんな私をずっと応援して…気持ち一つ変えずにカロスまで迎えに来てくれた彼も、
自分が悪役になってでも…嘘をいくつついてでも。
今の私も、未来の私の事も、全て守ろうとしてくれた彼も、





もう、いない…?





「…っ…やだ…やだ、そんなの…!可笑しいよ…可笑しいよそんなの…!!なんで…なん、で…シアナだけ…?!」





(……明日、さ)


(…うん)


(全部が上手くいったら…君に伝えたい事があるんだ)


(…私も…ダイゴに大切な話があるの。話というより、お願い事なんだけど…)


(…うん、分かった。…なら、明日の夜は二人で話そう)





つい、ついこの間の。
あの言葉の続きは?




花火を見ていた彼が、静かに涙を流していた…あの意味は?






もう、全部全部…消えて…





「…っ、やだ…」




消えて




「…っ…ゃ…だ……やだ…っ…いや……っ、」





沢山の思い出の数だけ、満たしていた水が流れ出して




「やだ…っ、やだ…!!なんで…なん…で…?」





幸せに満ちた浮遊感も、何もかも。


落ちて、落ちて、全て無くなって。





「いやぁぁぁぁあぁあ!!!!」





それを理解した途端に流れ出した涙がそれを補うこともなければ、
一緒に泣いてくれているアスナの涙も補ってくれるわけでもない。

抱き締めてくれているお父さんの温もりが、もういない彼の…ダイゴの暖かさを補うわけでも、お父様の震えた拳が誰にもどうにも出来ないこの状況を壊してくれるわけでもない。




ただ、ただただ。

何も無くなってしまった空間に虚しく背中を枯れた地面に付けて。

上に広がる暗い夜空からいなくなってしまった月を、必死に手を伸ばして探す事しか、出来ない。




伸ばしても伸ばしても、そこに光はもう無いのに。



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