違和感の後悔




人間誰しも気が緩むなんてことはよくあることだと思う。
例えば…挫折を経験した後に何かを成し遂げたとか、嬉しい事があったからとか、本当にそんな些細なことで。

でも別にそれで気が緩んだって、何も無ければそれこそ何も起こらない。
仮に起こってしまえば「油断していたな」と反省すればいいだけの話。
次から気をつけようと肝に銘じればいいし、改めて気を引き締める切っ掛けになったなーとか、そうやって日々を乗り越えて更に成長していく材料にすればいい。




なんて、前向きな事を思えていたらどんなに良い事なんだろうなって…今は物凄く思う。







「ジン無理無理無理なんかもう無理しか言えないやだやだやだやだどこも行かないで置いてかないで…!!」


「取り敢えず落ち着け…る訳…ねぇよなぁ…」


「そりゃそうっ、そうっ!だっ、だって、だ…!!ぐす、う、うう…!!」


「…こりゃちっとやべぇかもな…」





目の前にわらわらと、ゆらゆらと。
綺麗だとは一切思えない、存在しない筈の光が何個も揺れ動き…ヒヤリとした風が頬を何度も掠り。
暗い暗い世界に「存在する」非常灯の緑色の光に照らされた…アスナにとってどんな時でも頼りになって、どんな時でも自信満々な筈のジンが…


お手上げだとでも言うような表情で…今にでも両手を上げてしまいそうな状況に…今まさに立ってしまっているのだから。




「ねぇお手上げだとか言わないよねまさか?!なんかあるでしょ!!いつも自信満々じゃんなんでこんな時に限ってそんなあれなの?!ねぇなんかあるでしょねぇねぇねぇ助けて助けて…!ほん、本当にマジで助けて…!!やだやだやだなんでこんなことにやだやだやだぁぁあ!!!」


「…あのな、腰抜けたお前を担ぎながらこいつらを撒きつつここから逃げ切れる方法があるなら寧ろ俺が知りてぇんだわ」


「ジンの根性無しぃいいいいー!!!!」


「自分の状況理解してから言えや!!!」




あぁ…どうしてそんな事になったのか。
そもそもどういう状況なのか。
それを説明するにはまず、今この時から何日も何日も前に遡る必要がある。

あれはそう…ジョウトから戻り、ジムリーダー試験の追試にも無事に合格し、順風満帆な時を過ごしていたアスナがご機嫌よろしく親友のシアナとゆっくりフエンの温泉にて日々の疲れを癒していた時に感じた小さな小さな違和感から始まった。





「あーーーーーー…エンジュの旅館の温泉もすっっごく良かったけど、やっぱりあたしにはここの温泉が何だかんだ一番な気がするなぁ…」


「ふふ。慣れ親しんだ所だもんね!でもいいなぁ…エンジュの旅館かぁ…私も行ってみたい!どんな感じだった?」


「そりゃもう!!すっっっごい最高だったよ!露天風呂付きの部屋だったから勿論貸し切りでしょ、しかもエンジュらしく露天風呂にも紅葉の木があって、灯篭なんかもあって!昼は昼で明るくて空も良く見えて…!上の階だったからエンジュも見渡せるし!夜は夜で灯篭の明かりに照らされる紅葉がこれまた綺麗で!!あ!勿論!源泉だったからお肌もつるつるすべすべ!マジで文句なしだったよー!!」


「やだアスナったら!立ち上がっちゃって!まぁ誰もいないからいいけど…あはは、興奮し過ぎ!」


「あっ、つい!ははは!でも本当に凄く豪華だったんだよ!まぁ逆にそんな豪華な所だったから、あたしはこっちの慣れ親しんだフエンのが落ち着くって話なんだけど…でもシアナもダイゴさんと旅行とか行く時あれば、本当に凄く最高だったからオススメしとく!」




色々な刺激を受ける為、そして何よりアゲハントを探しに行くため。
腕も心も。追試までに出来るだけのことをしようという気持ちでジンを説得…というよりも正確には折らせたに近いのだが、そんな彼と共に行った先のエンジュシティに古くからある老舗旅館。

そこが本当に素敵な旅館で、露天風呂が本当に凄く最高だったのだと、シアナからの質問に答えていたアスナは、ついつい興奮して説明を初めてから早々と湯船から立ち上がって熱弁してしまう。

つまり生まれたままの姿を見事に晒してしまっているのだが、今は昔からの付き合いで、それこそ裸を見られても何も問題はないどころか寧ろお互い見慣れている大親友のシアナ以外に誰もいないので、アスナからすればそんなことは「つい」と軽く笑って流せるようなことだった。


しかし……




「……ん?」


「?アスナ?…どうしたの?」


「……え?あぁ…いや、何でもない!」


「?そう…?取り敢えず、立ち上がったついでにもう上がる?流石にそろそろ逆上せちゃいそうだし…」


「あはは!それもそうだね!それならいっちょ、恒例のサイコソーダでもかましますか!」


「ふふっ、大賛成!」




何度も説明するが、別にシアナと自分しかここにはいないし、裸を晒したところで何も問題はない。
なんなら昔から馴染みの受付のおばあさんにだって「今はあんたらの貸し切りだよ」と言われたので確実だ。
そう思って軽く笑ったアスナだったのだが…ふと広いフエンの温泉の中にある岩陰から変な違和感を感じてそちらに思わず視線を向けてしまった。

しかしまぁ、最初からそうであるように自分達以外に誰もいないこの場所に誰かいるなんてことある筈もなく…故に勿論岩陰から誰かが出てくる…なんてこともありはしない。
なのでアスナはきょとん…?として首を傾げているシアナに笑って風呂上がりに毎度恒例のサイコソーダを飲もうと誘うと、大賛成したシアナと共に各々のシャンプーやコンディショナー等を持って浴場を後にしたのだった。



そう。
どうしてあの時に「気の所為」で終わらせてしまったのか。
どうしてあの時に一応確認をしておかなかったのか。

あの時にもっと注意深く警戒していれば、それこそ一応声を出してみるとか…きっと何かしらあっただろうに。
そしたら…もしかしたらここまで大惨事になることは…なかったのかもしれないのに。







「いナく…ナれ……消え、ろ…消えろ…」




近づくナ、触れるナ、笑うナ、アっちへ…アっちへ

おいで、おいで。こっちへ、アァ…おいで。

ここだよ、スぐだよ。

キずいて、ここだよ。ほら、アなたのスぐとなり。

いらナい、いらナいの…じゃまよ…アんたが…

どうして、ねえどうして?ねええ、どうして?キ、キキ…キにいら…ナい、のが、そこに、いるのお?





ぽたり…ぽたりと落ちるのは、何の音か。
ぺたぺたと、近づいてくるこの音は、何の音?





アナたが、ほしいの。
いらナい、の。ちがう、ちがうちがう、ほしい、ちがう。
ちがうちがうちがう、ちがう。

いナくなってよお、どこかへ、きえよう、きえよう?

ずっと…みてきたの、ずっと、だいスキナの。

わたしの、わたしの、



おいで、おいでえ。
ほら…ここ、だよお。わたしの、わたしはァ

アナたの、すぐ…とナりでね、ほら…ほらねえ





響き渡る音、音。
途切れ途切れに…這いずるように聞こえてくる、声。
ジンが耳を塞いでくれても、ジンに必死に抱きついていても。

聞きたくない音が聞こえてくるのはどうしてか。
聞く度に心臓が止まりそうになる声が響いてくるのはどうしてか。





「ア……ア、アァァア…!しアわせに、しアわせえに、して、アげるからア…アァァ」





涙でぐずぐずになっている筈の視界に、真っ黒ななにかが見えてしまったのは、どうしてか。



BACK
- ナノ -