涙と言葉を止めて




あれからどれだけ歩いたのだろうか。
例えそれが十分だとしても、仮に一時間だったとしても。
彼に会えなかった、待ち望んでいた年数に比べたらとても可愛い時間とさえ思う。
大きな桜の木の下で再会した彼が、先程から何も言わずに自分の手を引いて前を歩いている後ろ姿を見ていた珊瑚はそんな事を考える。

ずっと見たくて仕方がなかったその背中は、記憶の中での彼と何も変わらない。
あの頃は…見るだけで罪悪感で胸が締め付けられそうになっていたこの背中が、その後は見るだけで抱き着いてしまいたくなるものに変わっていった。

そしてその背中は、今こうして自分の目の前にある。
勿論、本当なら今すぐにでも飛びついて腕を回したい。
でもそれが出来ないのは、「ついてこい」と言った彼がその後何も話さずに前を歩いているからだ。
珊瑚からすれば、まず馴れ合いが好きではない彼がこうして外で自分の手を握ってくれているだけで充分幸せだった。





「「……」」




聞こえるのは、少し離れた道路を走る車の音と、草木を揺らす風の音。
そんな、比較的静かな街の中で響く彼と自分の足音がふと止まった先に見えたのはまだ出来てそんなに経っていないだろう、三階建てのアパートだった。
カンカンと外付けの階段を登って、一番奥の部屋の鍵を開けた彼は、ここでやっと大好きな声を聞かせてくれた。





「ここだ」


「…くーくんの家?」


「あぁ」


「わぁ…!もしかして一人暮らしなの?」


「ついこの間までは実家だったがな…まだ最低限の物しか揃えていない」





鍵を開けて扉を開いたままの大倶利伽羅が先に珊瑚を家の中へと入れると、そこには幾つかの扉がコの字に並んでいる光景だった。
きっと、真ん中の扉を開ければリビングに繋がるのだろう。
ただ桜が見えたからという理由で部屋を決めた珊瑚からすれば、あの桜の木に徒歩でも行ける距離の場所に、まだこんな良い物件もあったのかという感想が出てきてしまう。

まぁそんな事を今更気にしても仕方がないし、何より再会出来た大好きな彼が自分の家を紹介してくれたことが嬉しくて入った先の玄関から既に色々と興味深々な珊瑚は、ふと備え付けの靴箱の上に置いてあった見慣れたパンフレットを見つける。




「そうだったんだ…私ももうすぐ一人暮ら……あれ?この大学のパンフレットって…」


「それがどうかしたか?」


「……え?あ、あぁごめん勝手に!あのね、私この春から大学生なんだけど、丁度この大学に通うんだ。ここって凄く大きな大学だから邦楽科もあってね、知り合いがそこで講師をしてるからって理由もあるんだけど…」


「………」


「あ、私ね!今は琴奏者を目指してるんだ。えへへ、琴を見たり触れたりするとくーくんを思い出すからってのもあったんだけ、ど………っ、…くーくん…?」





自分の通う大学なんだと粗方の説明をし、パンフレットを元あった場所に戻した珊瑚が少し照れながら振り返れば、そこには何とも珍しく目を丸くしている大倶利伽羅の姿があった。
そんな姿にどうかしたのだろうかと口を開こうとした珊瑚だったが、それは突然押し当てられた彼の唇で塞がれる。

再会した直後の優しいものと違い、離れたかと思えばまた瞬時に塞がれるという状況を何度か繰り返すうちに、どんどんと後ろに押し付けられて身動きが取れない珊瑚はいつの間にか靴箱の上に肘を乗せ、床から離れて浮いてしまった脚は距離が1ミリもない大倶利伽羅の太腿の上へと乗せられる。





「…っ、は、っ!…くーく、どうし、」


「……ふ、…いや……頭よりも先に…体が動いた」


「ん、…え?…ど、どういう、こと…?」





こんなに激しいキスを、昼間から彼がしてくる事なんていつぶりだったか。
前世の時を思い出そうとしても中々出てこないその記憶を辿っていく内に、懐かしさと嬉しさで入り交じった感情でぐちゃぐちゃになりそうになりながらも、一向に止まないキスの合間に声を掛けた珊瑚はやっと目の前の彼の金色の瞳と目が合う。

その瞳が、どんな世界でもどんな時代でも、何年、何十年経っても相変わらず優しい色をしている事が愛おしくて目を細めてしまえば、そんな瞼にそっとキスを落とした大倶利伽羅が「頭よりも先に体が動いた」と答える。

そんな答えに、肩で息をしながらも何とか更に質問をした珊瑚の真っ赤な両頬を優しく撫でてみせた大倶利伽羅は、昔から珊瑚にしか見せなかった優しい表情を一瞬だけすると、また更に火照っている珊瑚の唇に自分の熱を重ねる。





「ふ…、」




もうこのままでは熱で溶けてしまいそうだ…と珊瑚が思わず震えた手で大倶利伽羅の服の袖をぎゅ、と握ってしまえば、それに気づいた大倶利伽羅がその手の上に自分の手を重ね、あろう事か今度は首元に唇を寄せてくる。

もうここまで来ると、何故大学の話をしただけでこんなことになっているのか、頭よりも先に体が動いたとはどういう意味か…という疑問なんてどうでも良くなってきてしまう。
確かに珊瑚は、ずっとずっと、会いたくて会いたくて仕方がなかった大倶利伽羅…「くーくん」が目の前に現れてくれたらと何度も何度も願って、何度も何度も恋焦がれて泣いてしまった時さえ数え切れない程体験してきたが、だからと言ってここまでの事は想像していなかったのだから。





「…はっ、くーく、…ね、ねぇちょ…!」


「…っ、…ふ」


「…ね、ねぇ何でこの状況で…はぁ、笑っ…」


「俺も、この春からその大学に行くからだ」


「あっ、なるほど…そういうこ………え?」





ずっと降り続ける大好きな「人」からの沢山のキスを受けながら、何とか会話をする事に成功した珊瑚だったが、その会話の内容が先程の質問への回答だった事は理解出来ても、その先のその意味までは理解出来ず、完全に沸騰してしまっている頭の隅で何とかそれに対して聞き返すということしか出来なかった。

そんな珊瑚が面白かったのだろう、一言だけ「悪かった」と謝罪をし、ゆっくりと体を離して珊瑚の脚を床へと戻した大倶利伽羅は今にも湯気が出そうな珊瑚の頭を優しくぽんぽん、と叩いて言葉を続けた。





「俺はそこの農業科だから、敷地内ですれ違ったりはあまりしないだろうがな」


「……ほ、本当…に?…い、一緒の大学…?」


「そういう事だ。…つまり、今日あの場で会えなくても、結局は大学で会っていたんだろう。…そう思うと、気持ちが高ぶって自分を抑えられなかった」


「っ……!どうしよ…嬉しくて無理…何も考えられない…っ!幸せ過ぎてなんか…その内バチが当たりそう…っ!」


「今の言葉を鶴丸や光忠が聞いたら笑うだろうな」


「…………………」


「あいつらも俺と同じ農業科だ」


「……も、もう無理本当に無理!!う、うわぁぁあん!!くーくん…!くーくん私もう無理っ!今までそこそこ堪えてたけどもう無理っ!!限界…っ!!」





こんな嬉しいことがあって良いのだろうか。
前世の記憶を思い出してから、ずっとずっと願ってきて、ずっとずっと、何度も夢にまで見て、ずっとずっと…ずっとずっと思い描いていたことがこうも揃って叶うだなんて。

話したい事が山のようにあって、伝えたいことが沢山あって。
会えたら何を話そうかとか、会えたら沢山想いを伝えたいとか、そんな事を記憶を思い出してからずっと考えて、ずっと頭の中で予行練習までしていたのに。

そんな事が全部吹き飛んでいってしまうくらい沢山の「嬉しい」がありすぎて、沢山の「幸せ」が目の前にあって。
それが涙でぐちゃぐちゃになってしまった視界の先に広がる大好きな色が常に涙を拭って視界をクリアにして、それを確実な物にしてくれる。





「っ…も、もう無理本当に無理…っ!もう今日は帰りたくない…っ!これから毎日くーくんと一緒なの、分かってる…けど…っ!それでも離れたくない…っ!色々ありすぎて離れたくない…っ!」


「そうか。…元々帰すつもりはなかったがな」


「うわぁぁあんそういうところ本当に大好き…っ!大好き、大好き…くーくん大好き…っ!もう絶対離さないで…!いやごめん先に離しちゃったの私なんだけど!駄目だこのままだと口が止まらなくなるお願い止めて!」


「また塞げばいいか?」


「お願いします…っ!」





ぽろぽろと。
零れてしまうのは涙か、言葉か。
涙を止めたくて零す言葉が余計に涙をまた零してしまって。
自分の事なのに、結局どちらも上手く止めることが出来ないこの二つを…

昔も、今も。
無愛想で素直じゃない彼が、目の前で愛おしそうに優しく笑ってみせたその唇で簡単に塞いで止めてしまう。

いつも、いつもそうだった。
初めて唇を重ねたあの時も、その後も。
その唇は、ぽろりぽろりと…まるで琴のように静かに音を奏でて、全てを洗い流してしまうのだから。





(止まったか?)


(ん。止まった…ありがとう…取り敢えずむっちゃんと長谷部に今日くーくんの所に泊まるって連絡する)


(…は?)


(ぐす、…あ、ごめん。私のお兄ちゃんとお父さん、むっちゃんと長谷部なの)


(拷問か何かか)



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