苺
「……あのね、肥前くん…」
ゆっくりと、丁寧に。
まるで小さな子に童話を聞かせるかのように。
自分の目の前に座り、少し怯えた目をしてしまっている肥前に話し掛けた紬はそんな話し方をしながらも真剣な表情は一切崩さず、一度も肥前から目を逸らすことは無い。
そんな紬の視線に思わず逃げたくなってしまっても、それよりも彼女の話をきちんと受け止めなければならないと本能で感じ取った肥前は同じくその瞳から目を逸らすことは無かった。
「私は、肥前くんを蔑ろにしてた訳でも、嫌ってる訳でもない。寧ろ好きだよ。君は私の大切な子」
「っ…だったら…何で俺を使ってくれねぇんだ…」
「…実はね、君がこの本丸に来てくれる前。私は事前に陸奥守から君の話を聞いてたんだよ」
「……え……?」
大切に思っている、嫌いどころか寧ろ好きだ。
そんな事を言ってくれるなら、それならどうして刀である自分を使ってくれないのか。
そう問うてきた肥前の質問に対して紬が答えたのは、肥前にとっては予想外なものだった。
(主、もんてきたぜよ。行かせてくれてありがとう)
(うん、おかえり陸奥守。旧知の仲に会ってきて、どうだった?)
(たーーのしかった!まっこと楽しくて嬉しかった!!……けんど……それと同じくらい、えらい堪えた……)
(……そっか…頑張ったね)
(………いんや……頑張ったのは、わしだけやない。祢々切丸や日本号、あの場におった南海先生も頑張っちょった。……けんど……けんど、わしは……それ以上に…)
「肥前が心配だって、陸奥守が言ってたの。きっと、一番頑張ったのは肥前くんなんじゃないかって」
「……は…?…俺が…?…何で、そんな事……」
「それはどういう意味?って聞いた時にね…あの子、今にも泣きそうな顔で、思いっきり私に頭を下げてきて…」
「頼む…頼む主…!肥前と南海先生をこの本丸に迎えて欲しい!我儘なんはよぉーく分かっちょる!けんど、けんどわしは…南海先生にも肥前にも、もっと…もっっと楽しいことを沢山味おうて欲しいがよ!特に肥前は、きっとあいつは…斬ることでしか自分の存在価値が分からん男なんや。そがなこと、悲しいし寂しいぜよ。折角人の身を受けたんに、どいてそがに苦しまんといけん?わしはあいつに楽しい事を沢山教えたい、味あわせちゃりたい、もっと笑わせちゃりたい。もっと一緒におりたい!だから…だから頼む!!」
紬から聞いた陸奥守のその言葉が、今の肥前にどれだけ突き刺さったか。
正直な話、自分がこの本丸に来たのは政府からの報酬のような形だと思っていたし、実際政府の方からもそんな説明をされていた。
それなのに、まさかそれが陸奥守から紬にお願いした結果だったとはまるで予想していなかった肥前は言葉を失ってしまう。
それと同時に、あの刀は元の主に良く似て何処までもお人好しなんだと再確認もしてしまって。
この本丸に来てから一度もそんな様子を全く見せなかったことに少し呆れてしまう。
「その時に聞いたの。肥前くんが岡田以蔵の刀で、「人斬り」と呼ばれていたこと。祢々切丸達が来る前に、そんな岡田以蔵と肥前くんが鉢合わせたってことも、諸々聞いた」
「っ…!」
「…だからごめんね。実はあの時…君のその包帯の下にある傷跡を見た時に君が言っていた「斬りたい訳じゃない」って言葉は、直接でなくても私は二回聞いていたことになる」
「……あのお節介野郎………」
紬が何処まで詳しく陸奥守からあの時の事を聞いたのかは定かではないが、「斬りたい訳じゃない」という言葉を聞いたのが二度目だとすると、大凡の話は聞いていたのだろう。
本当に、何処までもお人好しが過ぎる…と元の主である坂本龍馬にそっくりな陸奥守に心の中で笑ってしまいながら。
脳内であのうるさいくらい眩しい笑顔の陸奥守の顔が浮かんでしまった肥前はそれに釣られてしまうかのように豪快に意を決して紬に話し出す。
「…自分と同じで、洗ってもどうにも取れない人斬りの匂いがする。…あいつに鉢合わせちまった時、そう言われた」
「……うん」
「…そんな事分かってるんだ…言われなくたってそんな事、俺が一番よく分かってた。…あいつがそうであるように、その刀だった俺も同じ匂いが染み付いて…こびり付いて消えない事なんて」
「……」
「誰かを斬りたかった訳じゃねぇことも、俺が一番良く分かってた……でも、でもそうしないと生きる意味が分からねぇから…っ、存在価値がねぇから……自分に生きる意味をくれた武市に恩返し出来るのは、それ以外分からなかったから…斬ることしか、斬ることしかなかったから……だからあいつは……俺は……」
「…………」
「…だから…だからあいつと同じで…俺だって…斬るしかねぇんだよ、俺が今ここに居る意味は、それしかねぇって……!そうしねぇと…そうしねぇと俺は…!「人斬りの刀」である俺は…っ!それが出来ねぇなら、一体何の為にここにある…?!刀の筈なのに、その刀ですらもない俺は!一体何なんだよ…?!」
「…だからだよ」
斬らなきゃいけないんだ。
斬らなきゃ、斬らなきゃ自分は何の意味もないガラクタ。
ただの刃なだけで、そこに意味は何もない。
そうしなければ、存在している筈なのに、その実感さえ湧かない。
今の自分に何の意味があって、一体どんな価値があるというのか。
事情を知っていた上で自分を頑なに使ってくれなかった紬に縋るようにその感情を剥き出しにしてしまえば、それは紬の凛とした表情と、それこそ刃のような研ぎ澄まされた声で肥前の呼吸はピタリと止まってしまった。
「だから君を戦いに出したくなかった」
「っ、だから…!それは何で…!!あんたが陸奥守に言われたことなら、俺は別に…!!」
「確かに君を気にかけたのは陸奥守に言われたのが切っ掛けだったよ。正直、初めは斬ることを存在意義にするのは刀である以上普通の事だとも思ってた。実際そういう刀剣もこの本丸には結構いるからね。私は刀じゃないから気持ちはきちんと分かってあげられていないけど、それでもそこは理解しているつもり。だから、戦いたいって子がいれば優先して出陣させるようにはしてる。同田貫や大倶利伽羅なんかは特にね」
「なら何でだよ?!」
「…この本丸に君が来た時に、君が私の知っている誰よりも素直で純粋だと思ったからだよ」
「っ、俺が…素直…?純粋…?…はっ、馬鹿じゃねぇの…っ?」
目の前の紬が真剣な表情を一切崩さずに言ったその言葉が心底理解出来なかった肥前は、そんな紬に失礼を承知で鼻で笑ってみせてしまう。
だってそうだろう、「人斬り」であるこの自分を、素直で純粋だなんて、一体何を見たらそんな事が言える?
自分の存在価値を見出す為に、自分自身の為に数え切れない数の首を斬ってきた岡田以蔵の刀である自分が、素直で純粋?
分からない、いくら考えてみても、全く理解出来る表現ではない。
寧ろ考えることすら可笑しいとさえ思ってしまうくらいなのだから。
そんな事を肥前が思って、理解出来ずに紬から目を逸らしてしまったその時。
紬はまるでその時を待っていたかのように両手を広げると、少し震えている肥前の細い身体を優しく包んでみせた。
「初めは陸奥守に頭を下げられてお願いされたのが切っ掛けだったよ。それは確か。…でもね、君に会って、少しずつ話をしていく内に、私自身も何よりも君に笑っていて欲しいって思うようになった。人斬りであることを自分の存在価値だと思って、自分の罪を背負いながらまた罪を重ねる事で自分を保とうとしている危なっかしい君を見たくなかった。君のその包帯の下を見てしまった時は、何よりも純粋で愛おしいとさえ思うようになった」
「…っ…」
「だからね、日に日に君がこの本丸の子達と距離を縮めていくのを見るのが嬉しかった。美味しいご飯を食べて、会話をして、岡田以蔵に愛されていた証拠である付喪神になってその身を受けた君が、それを謳歌出来ている姿を見るのが毎日の楽しみで……いつの間にか私はそんな君が大好きになった」
「…!」
「でも………斬るのが楽しい子、面白い子、斬るよりも料理を作ることの方が好きな子、斬ることでもっと高みを目指したい子…この本丸には沢山の子がいる中で、君はやっぱりその考えは変わらなかった。誰よりも苦しんでいるのに、臆病なのに、純粋で優しい君は「人斬り」だった岡田以蔵の尊厳を、存在意義を。その刀として刃を振ってきた自分の身をもって今でも守ろうとしてる事なんて、とっくに分かってるよ。……本当に、彼が大好きだったんだね」
「っ…………………、ぁ……………く…………、」
「…ごめんね、ごめん。私の我儘だった。…でも、それでもごめん。私は岡田以蔵の刀であろうとしながらも、私の刀にもなろうとしてくれる頑張り屋な肥前くんと同じくらい…戦を忘れて陸奥守や南海先生、この本丸の皆とわいわいやっている君の事も愛おしいと思う。…ふふ。だから…そこは許して欲しいな?」
「っ………………馬鹿………じゃ、ねぇの………お前…本当……っ、何も、考えて、……なさそうな、顔……してる癖に……っ、」
「あはは、もう…失礼だなぁ…うんうん、でも、いい子いい子。よしよーし」
ぽんぽん、ぽんぽん。
優しく語りかけるように、すらすらと、それでもリズムはゆっくりと。
自分の腕の中で、震える身体を必死に押さえつけるように無理矢理呼吸を整えようとして何度も何度も長く息を吐いている肥前の頭を撫でる紬は、減らず口を言ってくる肥前に対して困ったように笑いながらもその手を止めることはない。
例え自分の肩に今すぐにでも拭ってあげたい程に数え切れない雫がぽろぽろと零れていることに気づいていても。
それでもその細くて白い身体を抱き締め続けてあげたくて。
しかしそれは数十秒もしない間に、そんな紬の気持ちとは裏腹にその腕の中にいた肥前は濡れていた紬の肩に両手を置いて引き離してしまう。
「ん?もう泣き止んだ?」
「………………」
「?肥前くん?どう………」
自分の腕から無理矢理離れていった目の前の肥前が泣き止んだのかそうでないのか。
その顔が下を向いてしまっている事でそれが判断出来ない紬が心配になって、問い掛けながらその顔を覗き込もうと、俯いている彼の方へと顔を寄せたその時だった。
不思議な程自然な流れで顎の下に手を添えられ、上を向けられたかと思えば、それを理解した時には自分の言おうとしていた言葉を、肥前は声ではなく唇で飲み込んでしまった。
まるでそれは…柔らかな赤い一粒の果実を食べてしまうかのように。
そしてそれは数秒間続き、やがてゆっくりと離れていったことを紬が理解出来た時には、肥前の姿はもう目の前にはなく、いつの間にか立ち上がって襖に手をかけている状態だった。
「……………………」
「………………部屋に戻る」
「…………え?あ、……あぁ…あ、は、はい…」
訳が分からず、ただただ未だに座っている自分の上の目線にいる肥前を見上げることしか出来なかった紬に。
肥前は「戻る」とだけ言い放つと、一度も振り返ることなく部屋から出ていってしまう。
そのまま1人残された紬の耳から脳内に流れてくるのは、無常にもカチカチと時を知らせる壁掛け時計の針の音のみで、その音を聞く度に段々とそのリズムよりも自分の心臓の鼓動の方が早くなっていくのを感じられるようになるまでピクリとも動けなかった。
そのまま。
やっと動けるようになって初めてしたのは、その細く長い指を自分の口元に持っていったこと。
そこは熱く熱く熱を帯びた感覚があり、触れた瞬間にぶわっと鮮明にもう何分前か分からない時の出来事が脳内で再生された紬は顔を真っ赤にして口をぱくぱくとさせてしまった。
「…………い………苺……た、食べるみたいに……!!…な…なんだべ今の……!!!?」
その衝撃は、思わず地元を思い出させる表現と言葉を放ってしまう程にとてつもないものだと、もう肥前の姿がない目の前の襖を見つめたまま。
もう目の前にいない筈の肥前の顔が浮かんでは浮かんでは消えてくれないのが恥ずかしくて恥ずかしくて、それから逃げるように何となしに知っていた苺の花言葉を思い浮かべた紬は、それで余計に自分自身を苦しくさせてしまったのだった。
尊重と愛情。
あなたは私を喜ばせる。
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