かんぴょうの卵とじ
あの場所であったことは、正直あまり鮮明には覚えてない。
私の手を叩いたことで、首元を抑えていた肥前くんの手が退いた時に見えた彼のその傷跡が見えた時に、どうしようもなく涙が溢れて止まらなかった。
虚しさと一緒に愛しさが込み上げて来て、気づいたらその傷跡ごとあの細い身体を抱き締めて、そのまま何も言わずに手を引いて…
そうして辿り着いた自分の自室のソファに未だに戸惑っている彼を座らせた今、私は黙って戸棚から包帯を探す為に彼に背を向けている。
「…………俺、自分で……」
「……あった。これこれ」
「…………」
カタカタと音を立てるのは、戸棚の中にあった包帯を取り出したからか。
それとも自分の震える指が扉を揺らしてしまったからか。
はたまたどちらもか。
そんな下らない事に笑いそうになってしまうのに、後ろでやんわりと自分が今からしようとしていることを断ろうとしていた肥前の言葉を遮った紬は包帯をソファの近くに置いて、不安そうな顔をしている肥前の首元に手を伸ばす。
「…っ、」
「……触られるの嫌?」
「…そう…じゃねぇけど…気持ち悪いだろ…こんな傷…」
気持ち悪い。
ゆっくりと首に伸ばした紬の手を上から控えめに掴んでそう言った肥前の目は、いつもの鋭い目付きと違って弱々しい。
でも、そんな手を払い除ける事もせずに、黙ってゆるゆるになってしまった包帯をするりと解いたのは、きっとすぐにこの傷跡を隠してあげたかったからなんだと思う。
隠してあげれば、肥前の不安そうな顔が晴れてくれるのだろうと思って。
それなのに、包帯を全て取ったことで露わになったその傷跡があまりにも愛おしいと感じてしまった紬が思わず指で優しく撫でてしまうと、肥前はその肩をびくりと跳ねさせて目を細めてしまう。
そんな肥前の様子を見た紬は一旦その指を退けると、目の前の肥前と顔を合わせ、優しい声色で話しかけた。
「……私は愛おしいと思うよ、この傷跡」
「…………は………?」
「…どうして肥前くんにこの傷跡があるのか、それは分からない。…でも、きっと、この傷跡があるからこその肥前くんなんだろうなって思ったら、愛しくて涙が止まらなかった。だからこそ私が隠してあげたかった。…変なこと言ってごめんね」
「…………」
「…!あぁ、ごめんごめん!本当に変なこと言った…待ってね、今すぐ包帯巻いてあげるから、じっとしてて」
「……なぁ、」
「…うん?」
思ったことを一字一句変えずにそのまま口にした紬の言葉を聞きながら。
あれ程見られたくないと思っていた首元に再度手を伸ばして用意した包帯を巻いていく紬に大人しく身を預けた肥前は、ふとまるで何かを掴むように紬の服の裾を握ると、身を預けたまま紬へと声をかける。
すると、紬がその手を止めずに声だけで返事をしたのを確認した肥前はそのまま話を続けた。
「…岡田以蔵はさ、最後に首を跳ねられて死んだんだ。自分が何人も何人もやってきたことを、結局最後は自分もそうなった。…自分を道具のように使っていたのに、それでもあいつにとっては意味を与えてくれた武市の為に「天誅」だって言い聞かせて斬ってきた男だ」
「…うん」
「…そんなあいつが俺を使うなら、俺もそれでいいと思った。俺を使うことで、俺があいつの手で誰かを斬る度にあいつ自身に意味を与えてやれるなら、俺はそれで良かった」
「…そっか」
「折れても使い続けたってのは、物持ちが良かったんだか貧乏性だったんだか分かんねぇが……お陰で人の身を受けたらこんな傷までもらっちまったよ。もらいもんなんて、「人斬りの刀」と言われるようになった事で充分だったのに」
「…その傷は、そういうことだったんだね…」
「…別に、斬りたかった訳じゃねぇんだ…斬りたかった訳じゃねぇ。…誰もそんな事、信じちゃくれねぇと思うが…」
聞かれてもいないのにどうしてこんな事を言ってしまったのか、自分でも分からない。
分からないのに、聞かれてもないのに、それでも言葉が勝手に口から出て止まらなかった。
斬りたかった訳じゃない。人を斬りたかった訳じゃない。
楽しかったわけない、苦しかったに決まっている。
でも、それだけの事を自分は、岡田以蔵は実際にやっていたのだ。
だから「人斬り」という名で呼ばれるようになった。それが何よりの自分達の罪の証。
そんな事を思って、口走って。
そうこうしている内に包帯を巻き終わっていたのだろう。
相槌をうちながらも決して手を止めなかった紬は「これでよし」と軽く手を叩くと優しい笑顔で焦げ茶と赤の不思議な髪をぽんぽん、と叩く。
その動きに釣られて、彼女の耳に飾られている同じ色のピアスが揺れるのを視界に入れた肥前は、その事に気づくとほんのりと頬を染めてしまった。
何やらいつの間にか大きなものが耳についていると思っていたが、まさか自分と同じ色だったとは気づかなかったから。
「…えへへ…バレちゃった……これ、無意識で作っちゃったんだよねぇ。普段使い出来ると思ってほぼ毎日付けてるんだけど…うーん、改めてバレると恥ずかしいなぁ……まぁでも、そんな事は置いといて、うん。肥前くんはそのままでいいよ。そのままでいい」
「………」
「だって、その過去があるから、肥前くんは肥前くんなんだもん。例え肥前くんが岡田以蔵の刀として活躍していなかった世界線があったとしても、それも肥前くんだし、岡田以蔵の刀として活躍して、その証拠に傷跡がある肥前くんだって肥前くんなんだから。どんな肥前くんだって、どんな名残りだって私は全部含めて、可愛くて愛おしいと思うよ。乱暴な所も、優しい所も、臆病な所も、全部。だから私は信じるよ」
「…っ…俺が言うのもなんだけどよ…あんた、自分で言ってて恥ずかしくねぇのか?」
「ふふ。恥ずかしかったりする」
黙って紬の言葉を聞き入れてしまったのは、きっと。
ゆらゆらと目の前で揺れる自分と同じ色のピアスと共に、ゆらゆらと自分の心までも揺れている感覚になったからかもしれない。
可愛いだの、臆病だの、…愛おしいだの。
そんな事を平然と言ってのける自分の「主」に頬を染めてしないながらも、首元がすっかり元通りに隠れた事による安心感が徐々に出てきたのか、いつも通りに少し棘のある言葉を口にした肥前を確認した紬は照れ隠しのように舌を出して見せると、急に立ち上がって部屋の奥にある簡易的なキッチンへと歩いていく。
「まぁそんな事はさておき…まだそこまで元気の無い肥前くんに特別なご褒美をあげましょう。ちょっと待っててね〜」
「?何をだよ…」
「不安になってお腹空いたでしょ?馬のことは陸奥守達に任せて、肥前くんには腹ごしらえさせて早く元気になってもらわないとね。えっと…確か作っておいたものが鍋の中にまだ残って……た!うん!良かった!」
「…何の匂いだ…?」
「ふふ。これはね〜…私の一番の得意料理」
突然何をしているんだろう、ときょとんとしている肥前の目の前で鍋の中を確認し、上機嫌で火をつけて中身を温め始めた紬にその中身を聞いた肥前だが、紬は人差し指を口元に添えて見せると、内緒とばかりに悪戯な表情をして教えてくれない。
その間にもその耳についている大きなピアスはゆらゆらと揺れており、思わず見入ってしまった肥前は何も言えずにその中身が自分の心のように温まるのを待つことしか出来なかった。
「はい、どーぞお食べ〜」
「…何だこれ?」
「かんぴょうの卵とじ。これね、めちゃくちゃ美味しいんだよ。しかも使ってるのは私の実家から届いたかんぴょうだから尚のこと美味しい!ほらほら、食べて食べて」
「…ふーん…じゃぁ、いただきます」
「よし、いい子いい子」
かんぴょうの卵とじだなんて初めて聞く料理に首を傾げながらも、めちゃくちゃ美味しいだなんて太鼓判を作った本人から押された肥前が思わずご丁寧にいただきますと手を合わせて言うと、紬はいい子いい子とご機嫌で再度その頭をぽんぽん、と叩く。
そんな紬に心の中で「俺は犬か」と文句を言いそうになった肥前だったが、それは目の前のお椀から漂ってくる美味しそうな匂いにかき消され、その代わりに口から出たのは、ゆっくりと流し込んだそれが食道を通って胃に辿りついた瞬間に弾かれるようにして出た言葉だった。
「…っんだこれめちゃくちゃ美味ぇ…!」
「でしょー?!ふふ。良かった良かった!お代わりもあるから沢山食べていいよ!」
「ん。お代わり」
「って早っ?!」
なんだこれ、なんだこれ。
あまりの美味しさにそう頭の中で疑問を抱きながらも、そんな疑問を明確にする暇があるならもっと欲しいとすっかり夢中になった肥前は、にこにこと笑っている紬に負けないくらいのキラキラした瞳で容赦なく空のお椀を突き出して見せたのだった。
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