二つの選択肢





まだ雀が鳴き始めてからそう時間は経っていない時間。
物置部屋から大切に保管されていたとある物を取り出してきた珊瑚は、誰もいない部屋にそれを置くと、静かにそっとその弦を撫でる。




ぽろろん、ぽろん…




こうして、この音を聴くのは何度目だったか。
上品で何処か懐かしさを感じるこの音は、昔祖母が良く自分に聴かせてくれた音。

昨日の晩、「修行道具一式を寄越せ」と言い放って1人部屋へと戻ってしまった大倶利伽羅の、あの時の背中が忘れられないまま布団の中で目を閉じたことが原因かは分からないが、夢の中にこの琴と祖母が出てきた。




(おばあちゃん、琴ってキレイな音がするんだね!)


(そうだろう?琴は昔から伝わる伝統的な楽器でね。刀剣達も皆この音が大好きなんだ。…おばあちゃんもね、この音を聴くと不思議と心が洗われるんだよ。)


(?心を洗濯しちゃうの?)


(んー?あっはっは!そうだねぇ。言ってしまえばそんな感じだよ。何かあった時、辛いことや悲しいこと、困ったこと。…こう…心がもやもやしてどうしようもない時、この琴を弾くとそれがいつの間にかなくなっちまうんだ。)


(もやもやを?へぇ…!琴ってすごいねぇ…!)


(そうさ。だから珊瑚も、もし心がもやもやしたり、自分に自信がなくなったり。…覚悟を決めた時や、ここぞって時に何かに頼りたくなったら、おばあちゃんみたいにこの琴を弾いてごらん。きっと、力になってくれるよ。)


(うん!わかった!そしたら私、琴のお勉強もする!)


(そうかい?なら、ちょっと教えてやろうかね…ほら、おばあちゃんの膝の上においで)


(わーい!)





ねぇおばあちゃん、私ね、今やっと思い出したよ。
小さい頃は良く分からなかったけど、今になってやっと貴女の本当のことが分かりました。

貴女が誰かと結婚しても、審神者を続けていたのは刀剣達が好きだったから、審神者という仕事が好きだったから…霊力が強くて、要領が良かったから。
ただそれだけじゃないってこと。

今までは分からなかったけど、分からなかったんだけどね…





「……懐かしい音色ですね…」


「……ねぇ長谷部」


「…何でしょうか」


「長谷部はおばあちゃんと一緒にいて、幸せだった?」






琴を弾く手を止めて。
いつの間にか、後ろで聴いていた長谷部に振り返らずにそう聞いた珊瑚は、まるでその答えが最初から分かっているかのように穏やかな表情を浮かべている。





「ええ。…世界一、俺は幸せでしたよ」





ねぇおばあちゃん、今なら分かるよ。
やっと、分かったよ。

おばあちゃんは仕事が好きだったわけじゃない。
本当に、本当に好きだった存在が、ずっと隣に居たからだったんだね。

ただ、ただ違っていたのは…二つしかない選択肢の中で、貴女が私と違うものを選んだだけだったんだ。






「ねぇ長谷部、私はね…」


「…はい」


「一緒になれなくても、子孫を残せなくても、結ばれなくても。…それでもくーくんを想い続ける私自身が好きだよ。だからこの先も誰かと結婚はしない。…私はおばあちゃんと違って、長谷部が望む通りには出来ない」


「それがどれだけ辛いことか、分かっていますか?」


「分からない。正直まだ想像もつかない。」


「……」


「それがどれだけ寂しくて、どれだけ悔しくて…どれだけ惨めなことなのかも、どれだけ周りを傷つけるのかも。まだ想像出来ない。…親に孫を抱かせてあげられないのは申し訳ないとは思ってるけどね」


「…俺達は刀剣男士。人の姿はしていても、「刀」です。心や力は成長しても、貴女達人間のように心身共に成長したりはしません。俺達がどれだけ生きて、どれだけ変わらなくても、貴女はこれから先、1人で老いていく。……それでも、ですか?」


「…うん。それでも私は、このままがいい。くーくんが私をどう思ってるのかも分からないけど、それでも私は私が思うままに…心に素直に生きたいから」


「………負けましたよ、貴女には」





幸せだった、世界一。
少しも揺るがないその一言を聞いた珊瑚は笑って振り返ると、同じように微笑んでいた長谷部に自分の気持ちを伝えた。


この先待っていることがどんな事なのかすら分からないということも、どれだけ辛いことなのだろうことも。
親を悲しませるだろうことも、大好きな皆と一緒にいる度に自分1人だけが老いていくということも。

でも、でもそれでも自分は自分の思うまま、大倶利伽羅を、くーくんだけを想い続けて生きていきたいのだと。


その心はきっと、長谷部も聞く前から分かっていたのだろう。
真剣な表情で珊瑚の言葉を聞いた後、少しだけ間を置いて目を伏せてから困ったように笑うと降参だとでも言うように両手を軽く上げてみせる。
そんな長谷部に珊瑚もまた釣られたように笑うと、長谷部は琴を挟んで珊瑚の向かいへと静かに腰を降ろす。





「ふふ。…もしかして私の子供まで面倒見てくれようとしてた?」


「そのつもりだったんですけどね。…私の役目は、どうやら貴女で終わりのようだ」


「…長谷部もおばあちゃんも、強いね。」


「貴女だって強いじゃないですか。俺が全員の前であんなに言ったのに、それでも決して折れなかった。…昨晩は出過ぎた真似をして、申し訳ございませんでした。陸奥守にも何やら思い詰めさせてしまいましたし…」


「…うん。むっちゃんのことは私も気になってるし、いいたいことも伝えたいこともあるから私から話をするつもり。…でも別に私は長谷部のことを悪く思ってないよ。寧ろ嬉しいと思った」


「主……」


「…私ね、この琴とおばあちゃんとの思い出を夢に見て思い出して……それで思ったことがあるんだ」


「思ったこと、ですか?」


「きっと…ううん。私もおばあちゃんも、想いは同じでも選んだ選択肢はどっちも絶対に間違ってないってこと」


「……それは…」





それは…
珊瑚の言葉に対して、目を閉じた長谷部は柔らかく浮かんできた、かつて自分が愛した…いや、今も愛している「人」のその笑顔を見ると、目を閉じたまま優しく笑う。




「その通り。…ですね」




その後に呟いたその言葉を合図にして。
何も言わずに琴を弾くことを再開した珊瑚の指は、まるで全てを優しく包み込むかのように弦を撫でる。

初めに弾き始めた時にはまだ昇りきっていなかったはずの太陽の光が障子の間から漏れ、僅かに掠った珊瑚の目元には今まではしていなかった赤い目張りの化粧が施されていた。






「……いい音色だな」






まるでそれは、その赤は。
部屋に入ることなく、太陽が明るく照らし始めた障子に影となって現れた、旅支度を済ませた彼の毛先と同じ色だった。

ほんの少しだけ立ち止まり、片手で笠を深く下げたその横顔が、何処か笑っているように見えた長谷部は静かに笑う。
後ろにある障子を一度も振り返らずに、黙って穏やかに琴を弾き続ける珊瑚は、通り過ぎたその影が障子から消えた時。琴を弾く手は止めずに、言葉だけをそっと呟いた。





「いってらっしゃい」






ぶっきらぼうで、無愛想で。
何を考えているのか分かり辛くて。
いくさばかりで、働き者で。
手入れは断るし、ご飯は1人で食べるし。
でも「馴れ合わない」と言うわりには心配性。

お礼の仕方が下手くそで。
膝枕は硬くて。
冗談を言えばため息をつくし、
急にデレてくれたかと思えばすぐ無表情に戻る…



そんな、私の…大好きな。
大倶利伽羅という一振りの刀に。




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