無償の下心
「店長、お先に失礼します」
「おつかれ。気を付けて帰れよ」

深夜3時すぎ。
売上表を作成する店長に一声かけて、店を後にする。休憩後、心配した店長は帰ってもいいよと言ってくれたけど、皿を割りまくった挙句に早帰りするなんて体裁が悪すぎる。手首に包帯を巻かれてしまったので洗い物はできないけれど、幸いトレンチなどの重いものを持つのは左手だ。フロアに出るのに支障はない。迷惑分を取り返すべく、必死に働けば今日のバイトはあっという間に終わった。

店長は送っていくとも言ってくれたけど、ただでさえいつ寝ているか分からないひとだ。家はそんなに遠くないし、足も休んだおかげで痛みが引いたし、丁重に辞退した。
その結果として、店長の命でなぜか田中が私を送ってくれることになったのだった。

「ごめん、お待たせ」
「おー、帰るか」

ほぼ半日ぶりに出た店の外は、明け方が近いとはいえまだ暗かった。店前の自販機が煌々と輝く。冷たい空気が鼻を通って肺に落ちていく。この寒さの中、最寄り駅とは逆方向の私の家まで遠回りさせようと言うのだから罪悪感が止まらなかった。
せめてさっさと帰ろうと足を進めた先、視線をやった来店客用の駐車場には、見たことのない大きな車が停まっていた。店にはもう店長しかいない(そして店長は店から目と鼻の先にあるアパートに住んでいる)はずなのに、不思議だなぁと思っていると、不意に私を呼ぶ声が聞こえた。

「え。…烏丸くん?」

そこには、2時間前に退勤したはずの烏丸くんの姿があった。ゴツい車の運転席は、あまりイメージにそぐわない。パワーウィンドウを一番下まで下げた烏丸くんは「さむっ」と首を竦ませた。

「どうしたの、忘れ物?」
「相楽を待ってた」
「…私?」

約束をした覚えはない。不思議がる私を見ても表情を変えない烏丸くんは、淡々と言う。

「家まで送ってくから、乗って」
「は?」
「田中さんも乗りますか」
「あー…、俺はいいよ。逆方向だし。店長の命令で送ってくつもりだっただけだし。てかこれ、烏丸の車?」
「いえボーダーの。支部のやつ借りてきました」
「へぇ〜」
「え!わ、わざわざ?」
「明日の買い出しに使うためだから、わざわざってほどじゃない」

むしろこっちがついでだよ、と言った烏丸くんはどこかそっけない。

「せっかくだし乗せてもらえば?」

田中がマフラーに顔を埋めてあくび交じりに言う。連勤明けで眠いのだろう。駅に向かってふらふら歩き出した背中にお礼を告げると、小さく手が振り返される。背中を見送る頭の中で、私は頭をフル回転させていた。助手席と後部座席、どっちに乗るべき?

バイトで疲れ切った頭に鞭を打つ。
今はふたりしかいないし、わざわざ後部座席に乗るのはちょっと距離感じるよな。烏丸くんに彼女がいたら別だけど。てか普通に友達だしな。意識しすぎって思われるのも恥ずかしい。
でも、『みんなの烏丸くん』の助手席に乗ってるところなんて、誰かに見られたら確実に質問攻めにされる。下手したら刺される。あと、男の子の運転する車の助手席に乗るのって緊張する──うん、後部座席!

そんな逡巡もむなしく、もたもたしている私を不審に思ったのか、烏丸くんが「なんで百面相してるんだ?」と車内から助手席のドアを開けてくれた。

誰にも見られませんように、と念じながら乗り込んだ車は発進も停車もスムーズで、きっと普段から運転しているのだろう。前を見据えるその表情は真剣そのもので、なんだか知らないひとみたいだった。

運転中の烏丸くんはしゃべらない。音楽もラジオもかかっていない。私だけが緊張している無音の車内で、外気温に必死に対抗するエアコンの音だけが低く唸っていた。
バイト中は意識したことなかったのに、ふたりきりになると何を話していいか分からなくて黙ってしまう。ふだんどんなことを話していたっけ。思い当たるのはバイトの話題ばかりで、出会ってそれなりの時間が経つのに、私は烏丸くんのことをほとんど何も知らないのだなぁと思う。悴んだ指をコートの袖に隠す。なんだか居心地が悪くて、見慣れたコンビニを指で示す。

「ん?」
「そこのコンビニで大丈夫、もう家近いし」
「こんな時間だし、家の前まで行く」
「でも烏丸くん家の方向、真逆じゃない?帰り大丈夫?眠くない?」
「大丈夫だって」

あっさりコンビニを通り過ぎ、そのまま最初伝えたとおりの道を行く。運転中だから仕方ないけど、目線が交わらない烏丸くんの声がやっぱりなんだかそっけない。続けられる言葉も見当たらなくて、ぎこちない雰囲気のまま黙ってしまう。変だな、バイトのときは、ふたりになっても平気なのに──怪我した手をぎゅっと握り込んだのと、烏丸くんがあくびをもらしたのは同時だった。

「あー…悪い」
「…やっぱ眠いんじゃん」
「強がった。実は、ちょっと眠い」
「やっぱり」
「家に辿り着く前に寝そうなくらい」
「ちょっとじゃないね」
「このまま家まで帰ったら途中で事故りそうだし、相楽、泊めてくれる?」
「ああウン…ん!?」

予想だにしない返答に素っ頓狂な声が出た。

と、泊める?泊めるってなに?烏丸くんを?誰が?…私が!?
動揺に固まる私を見て、烏丸くんが吐息だけで笑った。ふと空気が軽くなる。

「嘘」
「あ、焦った〜…!」
「面白かったぞ、相楽の慌てよう」
「いや泊めるのが嫌ってわけじゃなくてね?送ってもらった恩もあるしね?」
「冗談だ。逆に、いいよ!って言われたらどうしようかと思った」
「そんな簡単に男の子泊めないよ…」
「そうか」

騙された私がそんなに面白かったのか、機嫌のよさそうな烏丸くんはなめらかな動作でアパートの前に車を停めた。

「ごめんね、本当にありがとう。助かりました」
「うん。じゃあ、これ。一応預けとく」
「え?…わっ!」

車を降りようとした私の膝に置かれたのは、薬局のレジ袋に入った消毒液と脱脂綿、テープ不要の包帯に防水の絆創膏──いわゆる救急セットだった。

「わざわざ買ってきてくれたの?」
「絆創膏くらい家にあるかと思ったけど…まあ、自分の買い物のついでに」

盗み見た横顔に直感が言う。
自分の買い物のついでだなんて、私に気を遣わせないための嘘だ。きっと。

「…烏丸くん、嘘が下手だね」
「さっき騙されただろ」
「うん、でももう引っかからないよ、たぶん」

向けられる優しさが嬉しくて、袋をぎゅっと握りしめる。慌てて財布を取り出した私に、烏丸くんは頑なに代金を言わなかった。でも、さすがに申し訳ない。ここまでしてもらって、このまま帰れない。どうしようか悩んでいると、烏丸くんが「お礼はまた後日、だろ」と呆れたように言った。バイト中のやり取りを思い出して、心臓が跳ねる。空気に熱が、緊張が戻る。

「う、ん」
「忘れてた?」
「わすれてない」
「そうか。防衛任務の都合もあるから、ちょっと先になるかもだけど」
「ハイ」
「…なあ。これ、意味分かってる?」
「う、」

瞳の奥深くを探るように、烏丸くんが視線を合わせてくる。わずかな街灯を反射するのは、黒いとばかり思っていた虹彩。鼻同士が触れ合いそうなほど間近で見ると、チョコレートみたいな優しいブラウンが見えて、彼の穏やかな気性を思わせた。

「俺は今、お前の怪我と律儀さに付け込んでるんだぞ」
「…そんな言い方しないでよ」

少なくとも私は、そんなふうには思ってない。
意を決して小さく告げたら、溜息を吐いた烏丸くんがレジ袋を掴む私の右手を上から握り込む。

「悪い。ちょっとずるかったな」

外はこんなにも寒いのに、烏丸くんの手はあたたかくて、混ざり合う体温が心地いい。どうしていいか分からず固まっていると、お得意のポーカーフェイスにわずかに緊張を滲ませた烏丸くんが、内緒話みたいに言った。

「相楽のバイト以外の時間、一緒にいたい」
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