無償の下心
人生で初めての横抱きに、痛みを忘れるほど動揺した。

できるだけ負担をかけないよう大人しく抱えられたままでいると、早足で飛び込んだ休憩室のソファにそっと下ろされた。不測の事態の連続に呆然とする。烏丸くんは無言のまま来た道を戻って行った。
静かな場所でひとり冷静になると、割ってしまった皿のことやシフトのことが頭を占めていく。頭の芯は冷えているのに、背中だけはじっとり汗ばんでいる。脱力して背もたれに体重を預けると、骨組みの部分が嫌な音を立てて軋んだ。酸素が足りない。支えられていた肩が、指のかたちに痛む。

再び休憩室のドアが開いて、思考の海からふと浮かび上がった。そこには、キッチン備え付けの救急箱を抱え、少しだけ呼吸を乱した烏丸くんが立っていた。ポカンとしていると、烏丸くんはソファに座る私の前で膝をついて救急箱を開く──手当てしてくれるつもりらしい。消毒液でひたひたになったガーゼを前にして、ようやくハッとした。

「か、らすまくん、ありがとう。迷惑かけてごめんね。後は自分で…」
「怪我したの右手だろ」
「…でも、」
「店長に報告して、早いけど休憩もらってきた。卓の掃除はいつものお詫びに田中さんがするって」
「あの、」
「フロアも土曜にしてはそこまで混んでないし、吉田さんいるし、まあなんとかなるだろ」

二の句も継げずにいる私に、烏丸くんは淡々と説明してくれた。…だめだ。いろいろなことが一気に起こりすぎて、ぜんぜん頭が働かない。反論はないものと見做したのか、そもそも聞く気がないのか、烏丸くんはそのまま私の右手を取る。その瞬間、不安に占められていた思考は目の前の男の子に釘付けになった。
いつでも冷静な烏丸くんの手は、想像しているよりずっと熱かった。繊細そうな見た目とは裏腹に、指先の皮も硬くしっかりしている。水仕事のせいか少しかさついているのが、まるでそのへんの男の子みたいで。私の中のどこかぼんやりしていた烏丸くんが、点と点を結んで線となり、たしかな輪郭を持った瞬間だった。

「…消毒するぞ」

低く潜められた声が、まるでひとりごとみたいな響きをしてたから。それが忠告だと、ツキンとした痛みでようやく気付いた。右手には冷たい消毒液とザラザラしたガーゼの感触。同時に傷の感覚も確かになっていく。…痛い。沁みるとかいうレベルじゃない。めちゃくちゃ痛い。もしかして、思いのほか深めに切れてる?

「…これは…」

私の心の声に応えるように、烏丸くんが呟く。

「縫わなきゃまずいかもな」
「エッ!!?!?」

予想もしなかったセリフに、先ほどまでの罪悪感も忘れて大きな声が出る。

「う、うそ!ぬう、縫うって、針と糸でってこと?そんなに深いの?」

そんな恐ろしいことを言われたら、もう怖くて傷口なんか見られない。そんなにひどかったの?消毒するまであんまり痛くないと思ってたけど、もしかして痛覚すらなくなってる感じ?ほんとは大きな傷なの?やばいもう無理、泣きそう。そう思った途端、瞳にじわりと涙が滲む。
ふとこちらを見た烏丸くんがぎょっと目を瞠った。

「ちょ、相楽」
「うぅ〜…ッ」
「おい」
「こ、怖い、」

事態を受け止められなくて、烏丸くんの視線を避けるように俯く。膝に顔を埋めてぎゅうっと目を瞑れば、なんて簡単な現実逃避。けれど逃げることは許されなかった。ガッと肩を掴まれ、思わず顔を上げてしまう。びっくりして涙も引っ込んだ。間近に見る顔にはかすかに焦りが浮かんでいて、あんなに落ち着いた烏丸くんでもこんな顔をするんだなぁと場違いな発見をする。

「ごめん、嘘だ」
「…え」

混乱しすぎて、何を言われてるかも分からない。クエスチョンマークを浮かべる私に申し訳なさそうな顔をした烏丸くんは、手当てを続けながら弁解した。

「薄く切れただけ。縫うほどの怪我じゃないし、たぶんきれいに治るぞ」
「え」
「落ち込んでそうだったから、和ませようと思って」
「…な、」
「?」
「…和むわけ、なくない…」

安心したせいで力が抜ける。ソファの背もたれに身体を預けると、追いかけるように烏丸くんが顔を覗き込んできた。まっすぐな瞳。思わずドキッとしたのも一瞬で、今度は消毒液を染み込ませたガーゼで右頬を押さえられる。痛い。けれど手首ほどではない。冷たいガーゼが私の顔と烏丸くんの指で体温を共有して、少しずつぬるくなっていく。

「悪い、まさか本気にすると思わなくて」
「烏丸くんほんとに針と糸取り出しそうだし…縫えそうだし…」
「さすがに縫えない」

ボーダーに所属している烏丸くんは、その仕事の一環で手当てにも造詣が深いらしい。そのあとは軽口も叩かず、手首、顔、足首の順で、あっという間に治療をしてくれた。

「ごめん、取り乱して。助かりました」
「こっちこそごめん。脅かしすぎた。動かしにくいとことかない?」
「うん」
「今日はとりあえずこれで大丈夫だと思うけど、替え方分かるか?」
「た、たぶん」
「…絆創膏は防水の使ったから、お風呂は包帯だけ取ってそのまま入って大丈夫。でもあんまり長湯はしないように。明日は出勤?」
「えーっと、たしか18時から」
「じゃあ明日休憩のときに絆創膏替えよう。そのときにやり方教える」
「あの、何から何までほんとに…」

ごめんね。そう続けようとした口を、大きな手のひらが塞ぐ。びっくりして顔を見上げると、優しい目をした烏丸くんが「謝ってもらうためにやったんじゃない」と呆れたように言った。離れていく指からはかすかにアルコールの匂いがして、この手に手当てしてもらったんだなぁと実感する。

「こういうときはなんて言うんだっけ?」
「あ、ありがとう」
「うん」
「お礼はまた後日、応相談…」
「お」
「え?」

かすかに目を瞠った烏丸くんは、いつもと変わらない温度で淡々と続ける。

「じゃあ今度シフト組むとき、週末どっか空けといて」
「ん?」
「合わせて休み取るから。よろしく」
「え?」

それだけ言って休憩室を出て行った烏丸くんは、湯気の立つできたての賄いをふたり分持って戻ってきたけれど。先ほどの言葉の意味が気になっている私は、いつもよりちょっと豪華なシーフードトマトパスタの味がまったく分からなかった。
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