無償の下心
一瞬、何が起きたか分からなかった。

──ガシャーン!

何かが落ちた鈍い音に次いで、ガラスの砕けるいやな音が耳に刺さる。脳を直接揺さぶられたかのような衝撃。瞑っていた目を開けて真っ先に視界に入ったのは、ひっくり返ったトレンチと粉々になったサワーグラスだった。

お客様がお帰りになったので、使い終わった小上がりの卓のバッシングを始めて、グラスやおしぼりをまとめて持ち上げようとしたときのこと。卓と卓を繋げる際に外す可動式の足場が、どうやらしっかりはまっていなかったらしい。体重をかけたはずみに足場ごと掘りごたつの下に落下してしまい、宙に放り出されたトレンチはそのまま重力に従って──その惨状を、私はテーブルの下から確認した。

ゆっくりカウントみっつ、遠のいていた現実がようやく目の前に戻ってくる。

やっちゃった。どうしよう。どうしよう!
頭が状況を理解した途端、したたかに打ちつけた身体──主に手首のあたりがズキンと痛んだ。

「…ッ、いた…」

衝撃的な痛みに、恐る恐る怪我の状態を確認する。割れたグラスで盛大に切ったらしく血が出ている右手首と、ちょっとだけ捻った右足首。その他、床に打ちつけた身体のいたる部位。食器を割った挙句に転んで怪我までして、最悪だ。今日は厄日かな。痛いし辛いし…ハァ〜〜もう帰りたいな。店長になんて謝ろうかな。

「相楽!」

想定外の事態に、いったん現実逃避を始める私の思考回路。それを遮るように勢いよく飛び込んできたのは、なぜか、キッチンにいるはずの烏丸くんだった。

「……なんで?」
「いやそれこっちのセリフ。どうした?転んだ?」
「足場、外れて…お、落ちちゃった。あ、どうしよ、グラスとかいっぱい割っちゃって、」
「いやそれはどうでもいいから。怪我は?立てるか?」

珍しく焦った様子の烏丸くんは、私と一緒に転がり落ちた足場を引き上げ、テーブルをよけて手を貸してくれる。いまだに呆然としている私は、とりあえず差し出されたその手を取って、優しく導かれるまま立ち上がろうと力を込める。

「いっ、!」

けれど、負傷した足首は私の体重を支えてくれなかった。いつも通り立ち上がると、足首に鋭い痛みが走る。思わず大きな声を出してしまった私に、烏丸くんが目を見開いた。

「相楽、」
「あ、だ、大丈夫」
「何が」
「捻ってはいないの、ちょっとぶつけただけ。ゆっくりだったら──」

歩けると思う。続くはずの言葉は、体勢が変わった衝撃で半端に途切れた。息が止まる。ぐるりと回った視界と浮遊感に慄く身体。不安定な感覚と唐突に変わる景色。足が浮いている。支えを求めて縋った先、見上げた烏丸くんの顔がいつもより近くて、動揺に声が裏返った。

「な、…はっ!?」
「静かに。向かいのテーブル、お客さんいるぞ」
「や、烏丸く、」
「大丈夫だから、ちょっと我慢して」
「お、下ろして…!」

軽々と私を抱き上げた烏丸くんは、混乱のまま投げかけた言葉をことごとく無視して、早足に店内を駆け抜けていく。助けを求めて走らせた視線の先、驚いた店長や、なぜか浮足立つバイトメンバーの表情だけがよく分かった。

鍛えているのか、男の子だからか、安定感はある。それでもすべてを預けているこの体勢はさすがに怖くて。思わず烏丸くんの首元に腕を回すと、背中を支える手にグッと力がこもった気がした。

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長いので分けました。ちょっと続きます。
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