無償の下心
居酒屋でバイトを始めてから覚えたこと。
ひとつ、愛想笑い。ふたつ、酔ったお客さんの対応。みっつ、適当なナンパのいなし方。

「失礼いたします。お待たせいたしました、ジントニックです」
「──あ!お姉さんお姉さん!ねぇ!質問!彼氏いますか!」
「空いたグラスお下げいたしまァす」
「おまっ、相手にされてね−じゃん!」
「えー!無視!?じゃあ好みのタイプは?…てか、ぶっちゃけ俺とかどう?!」
「ごゆっくりどうぞ〜」

にっこり笑って後にしたテーブルから、ギャハハハ!と大げさな笑い声が聞こえて、愛想笑いに引き攣る頬をそっと労わる。定位置となりつつあるレジ前に戻ると、知らず知らずのうちに溜息がこぼれた。

今日は平日、時刻は深夜2時。閉店まで残り1時間を切った。
有線の流れる店内には、静かにお酒を楽しむカップルと男子大学生らしき3人組のみ。うちの店はラストオーダーを閉店の30分前に設定しているため、残りの時間はバイトだけでも問題ないと判断したらしい店長は、休憩室でシフトを組んでいる。もうひとりのフロア担当は洗い場に入って少しずつ締め作業を行っており、接客は実質私ひとり。客数的には忙しくないはずなのに、先ほどからくだんの男子大学生に何度も呼ばれ、ジントニックばかり作らされている。そのせいでドリンク周りの締め作業は一向に進んでいない。

ハァ、と再び溜息をついたところで、フードの追加注文もなく暇そうな烏丸くんが寄ってきた。

「どうした?」
「あー…31卓がね、」

あまり大げさにならないよう、なるべく軽く事情を愚痴る。
居酒屋でバイトをしているうちに流せるようになったとはいえ、あんなふうに好奇の視線にさらされていい気はしない。

「大学生くらいだったか」
「うん。なんか耐久勝負みたいになっちゃって…さっきからすごい勢いでジントニック作らされてるんだよね」
「ペース早いんだ」
「連絡先聞かれて無視したからムキになってるのかも」
「…へぇ」

話をしているうちに、再びピンポーンと店員を呼ぶ軽快な音が響く。頭上の受信機を確認すると、予想通りの卓番号が光っている。例の男子大学生の席だ。また面倒な絡みをされた後、ジントニックを作らされるのか。そろそろスマイルも品切れになる。分かっていても行くしかない。覚悟を決めて重たい足を踏み出すと、烏丸くんが私を呼んだ。

「いいよ、俺行くから」
「えっ」

サロンを外しつつキッチンから出てくる烏丸くんは、相変わらず涼しい顔。ざっくり畳んだそれを私に預けて31卓に向かおうとするので、背中側のシャツを掴んで慌てて引き留める。

「わ、私が行くよ!」
「絡まれてるんだろ?今フード注文ないし、掃除もあらかた終わって暇だし、俺が行く」
「でも、」
「ん?」

予想外の優しさがいたたまれなくて、つい足元に視線を落とす。言葉が続かない。

ただちょっと、やりにくいだけなのだ。腕を掴まれたり髪に触れられたりするわけでもない。ナンパと言い難い質問攻めは、愛想笑いで無視しておけばいい。ラストオーダーまで残り30分を切った。彼らがいくら酒豪でも、注文はおそらくあと数回。もう少しの我慢。あとちょっとの辛抱。話を聞いてもらえただけでなんとなく楽になったし、お金をもらっている以上、役目を放棄するわけにはいかない。

これが私の仕事だし、やっぱり自分で行こうと決めたところで、頭にトスンと手の平が落ちてきた。

何が起こったか分からない。されるがままになっていると、私の頭を撫でているらしい烏丸くんが細く息を吐いた。私の鼓膜だけを優しく揺らしたその吐息は、溜息よりもいくらか優しい響きをしていた。

「いつも真面目にやってるんだし、たまには甘えてもいいんだぞ」

言葉とともに、烏丸くんの手が頭上で数回跳ねる。ぽんぽんと続く軽い衝撃。そっと見上げた烏丸くんは無表情だったけど、こちらを見返す瞳は変わらず優しい。さすが、弟妹がたくさんいるだけある。圧倒的お兄ちゃんパワー。ひとりっ子で、兄姉に憧れのある私が対抗できるはずもなかった。

「…ありがとう」
「うん。他の店でフロアのバイトしてたこともあるし、まあいけるだろ。あ、ハンディだけ貸して」
「いいけど、このタイプ使ったことある?」
「ない。ポーズだけ。注文覚えてくるから、後で相楽が打ち込んで」

しれっと言う顔は相変わらずポーカーフェイスで、その動じなさに思わず感心する。私なんて、初めて注文取りに行くときガチガチに緊張して店長に呆れられたのに。ほんとに同い年なのかな。颯爽と卓に向かう烏丸くんの広い背中を、今度はそのまま見送った。

残された私はしばし呆然としたのち、熱を持った顔を冷ましつつドリンクの準備に向かう。めいっぱい氷を入れて用意をしたのはサワーグラス。烏丸くんが取ってきた注文はやっぱりジントニックだった。

▼▼▼

「(あ、)」

ラストオーダーも終わり、ドリ場(飲み物を作るところ)の掃除を始めていると、大学生3人組が席を立った。会計だ。小走りでレジ前に向かうと、執拗に絡んできていた男のひとがにっこり笑顔で「会計お願いしまーす!」と叫んだ。…やっぱり、けっこう酔っていらっしゃる。

「お会計8,236円です」
「はーい!いやぁごめんね〜いっぱい話しかけちゃって!」
「あ〜あはは…」

財布を漁りながらかけられる声に苦笑いで返す。ようやく帰る!と思ったら気が緩んで、接客も適当になってしまう。代表して出された10,000円をレジに収納しておつりを差し出すと、小銭を財布にしまい込んだ男性が軽く非難するように笑った。

「でもさァ、彼氏いるなら言ってくれてもよくない?!」
「、はい?」
「最初に教えてくれたらあんなダル絡みしなかったのにさ〜…ま、酒もつまみもおいしかったし、安いし!また来るわ!」
「あ、ありがとうございました!」

出口まで見送り、またお待ちしております、まで無意識に呟いた後、気になる言葉に首を傾げる。
…彼氏ってなんだ?
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