04
ディーノさんとの4度目の遭遇は、とある水曜日に起こった。
いつも通りに帰り道を歩いていると、突然腕を掴まれて路地裏に引っ張り込まれた。かと思うと、すぐに甘い匂いのするハンカチを口に当てられた。何を考える間もなく、私の意識は暗闇へと引きずり込まれていった。
そして目が覚めたら、銃口が目の前に突き付けられていた。わあ、何て急展開。……泣いても良いですか。
とりあえず、自分の体を見下ろしてみる。あまり座り心地の良くない椅子に、ロープぐるぐる巻きで縛り付けられているようだ。そんな私の状況とは裏腹に、部屋はホテルの一室のように豪華な内装だった。扱いが酷いなぁ……。
「気分はどうですか?」
拳銃を私に突きつけている男が言った。その声には紛れもない嘲りが込められている。
「……まあまあです」
「それは良かった」
ちゃんと聞いてたのか、この人。まあまあだって言ってるのに。
私の内心には構わず、目の前の男の人は笑顔で話を続けた。
「貴女は何故自分がここにいるか分かっていますか?」
「……皆目見当もつきませんね」
「跳ね馬ディーノという男を知っているでしょう」
跳ね馬、ディーノ。
ディーノさんは知ってるけど、跳ね馬って……何?
頭の上に「?」を浮かべまくる私に構わず、男性は続ける。
「貴女は、人質です」
「は…?」
「いえ、貴女は跳ね馬に対する人質として、非常に価値が高いという話を耳にしまして」
言われた言葉を脳内で反芻する。人質として、非常に価値が高い? 私が、人質?
ディーノさんをおびき寄せるための、餌?
………………よく分からないけど、1つだけ分かった。
人質なんて、ただの重荷だ。
ダメだ、そんなの。あの人の重荷になるなんて。優しいあの人の、お荷物だなんて。冗談じゃない。迷惑なんて、かけられない。かけたくない。
多分、クロロホルム? みたいな薬品で眠らされたのだろう。頭がぐるぐるしている。それでも私は必死に考えた。
ディーノさんが来ないようにするにはどうすればいい。
私が……そうだ。この人が、私が人質としての価値がないと思ってくれればいいんだ。
頬でも叩いて気合いをれたいところだけど、生憎のぐるぐる巻きじゃそれもできない。
代わりに、思いっ切り息を吐いた。
よし頑張れ、私。……絶対来ないでくださいよ、ディーノさん。
「……無駄、だと思います」
「は?」
「知り合いにディーノという人はいますけど、別に親しくありませんし」
銃口が、怖い。
溢れそうになる涙を抑える。
吐き出したい衝動を堪える。
震えるな。
揺らぐな。
ディーノさんを危険な目になんて遭わせられない。
と、そこまで考えて気が付いた。
……ああ、そうか、私は───
「…誰からの情報かは知りませんが、」
お荷物になるくらいなら、いらないだろう。
「私を誘拐したって、ディーノさんは動揺すらしないでしょう」
私なんか、価値がない。
「だから、ディーノさんは来ませんよ」
目の前の男の人に、同情する。哀れだ。
「貴方の行為は無駄に終わります」
笑った。可哀相に。
「……可哀相に…」
私は───私は、ディーノさんが好きだったんだなあ。
見ると、男はパチパチと手を叩いて微笑みながら私を見ていた。ただその目には怒りが浮かんでいる。
「役に立ちそうもない人間を連れて来てしまったわけですか…。私は無駄なことは嫌いなんですが」
パン、と乾いた音が響いた。頬に鋭い痛みが走った。男性が持っていた銃から、煙が出ている。
撃たれた。
顔が引き攣った。
怖い、この人が怖い。
「もう一度だけ聞きますよ。貴女は、跳ね馬にとっての人質になりますか?」
怖い。怖い。
死んじゃうかもしれない。
……でも、ディーノさんが危険に曝されるほうが、ずっと怖い。
「今、話した通りです」
「……ああ、残念だ」
彼は引き金に掛けている指に少しだけ力を込めた。
「本当に残念ですよ。こんな人質にもならない女を誘拐して殺すなんて、無駄なことをしなくてはならないなんて。…ねぇ?」
初めて、人の笑顔に恐怖を覚えた。
初めて、拳銃がこんなに恐ろしいものなのだと理解した。
ああ、あの、他人を安心させるような笑顔を浮かべられるディーノさんは、なんて凄い人だったんだろう。
全然、へなちょこなんかじゃないや。
私が浮かべた笑みを見て、男が引き金に力を込めたとき───
「なまえ!」
───爆発音が響いた。
びっくりしたのか、男が部屋の扉の方を見た。私もつられて目をやると、そこには今まで1度も見たことがないくらい、凄く……多分、物凄く怒っているディーノさんがいた。その手には鞭が握られている。彼の後ろに並ぶ黒服さんには見覚えがあった。財布を拾ってくれたおじさんだ。……あれ? え…じゃあ、ボスってまさか……
「ディーノ、さん?」
「残念でしたね。貴女の予想は外れました」
男性はニヤリと笑い、私に向けていた拳銃をディーノさんに向けた。何発も乾いた音が響く。迫りくる弾丸を、ディーノさんは鞭で裁き、弾き、あっさりと男の元へたどり着いてしまった。その間に黒服さんがやって来て、ロープを解いてくれた。
それにしても、やけにあっさり…。ていうか鞭の使い方が手慣れてるなあ。何でドジらないんだろう。火事場の馬鹿力?
ディーノさんが怖いわけではないけれど、少なくともこんなディーノさんのことは、知らない。
男はディーノさんの一撃で昏倒させられて、黒服さんに連れて行かれた。ディーノさんがこっちに駆け寄ってきた。
「なまえ、」
ディーノさんが、私の頬の傷をなぞった。痛い。思わず顔を歪めた。
「痛かっただろ? ごめん」
何故かそのままディーノさんに抱き締められて、喋れなくなってしまった。
「怖かったよな?」
優しく訊ねられ、小さく頷く。
私の体は、未だに小刻みに震えている。拳銃を向けられた時の恐怖が、続いていた。
「悪かった」
何で、ディーノさんが謝るの。迷惑かけたのは、私の方なのに。
「俺のせいだ」
違う。
否定しようとしても、抱き締める力が強すぎて喋れない。
「俺が、なまえを巻き込んじまった」
違います。違うんです。ディーノさん。私の話、聞いてください。
「本当ごめんな。…なまえ」
耳を塞ごうとしても、身動きが取れない。
「もう……会いに行かねぇからさ、安心してくれ」
そう言って体を放したディーノさんは、寂しそうな? 悲しそうな? 苦しそうな? つらそうな? どんな顔をしているんだろう。見えてるはずなのに分からない。分からないのは何でだろう。
そのまま、ディーノさんは振り向かず去っていった。黒服さんたちが、寂しげに私を一瞥してからディーノさんの後を追って出て行く。1人、呆然とする私だけが残った。
ふらふらと建物の外へ向かうと、雨が降っていた。
「傘、持ってないや…」
頬を伝った滴をごまかすように、私は雨の中を駆け出した。