夏強化月間 | ナノ


注意!臨也が死んでます









鈴虫の鳴く声がする。
りんりん、と本物の鈴ようだとはいかないけれど、目をつむって聞けば多少近づくような気がした。
夏の終わりにはまだほど遠い。夕焼けが空に滲んで夜と同調しはじめている。
ふいにたくさんの人の黒い背中がまぶたの裏によみがえった。それは比較的新しい記憶だ。それから仰々しくなってしまった彼の新しい名前の漢字の羅列と、僧の朗々と響く声、涼しげな着物や草履が砂利を踏む音。
彼の妹たちは普段の煩さが嘘のようにおとなしく、涙がその瞳に光っていた。
静雄は彼女たちの顔を直視できなかった。良く似たその目許や癖のないまっすぐな髪を。そうすればまだ記憶の中の彼が嘘だよ、と笑う姿が見えるような気がして。
りんりん、とまた鈴虫が鳴く。
寂しいのだろうか、彼らも。そう静雄は思う。
彼はもう死んでしまった。




臨也が鈴虫を預けに来たのはまだ夏のはじまりの頃だった。良く覚えている、暑い日で静雄は半袖を着ていた。しかし彼はいつもと同じ黒い服を着ていて暑くはないのだろうか、と静雄は思った。臨也は汗ひとつかいてはいなかった。
「これお土産」
臨也はそう言って箱を差し出した。静雄はそれを訝しく思いながらも受け取る。箱は素っ気のない白いもので、側面に穴が空いていた。開ける前に振って中身を確かめようとすると臨也は慌ててそれを制した。
「大丈夫。おかしなものじゃないから」
臨也はそう言って笑い、静雄は軽く臨也を睨みつけながらも箱を開けた。
「虫?」
新手の嫌がらせかと臨也の様子を伺うと彼はただ静かにそこで微笑んでいた。
「鈴虫だよ、まだ鳴かないけどね」
虫たちは全部で五匹ほどいた。どれもちいさくて羽をわずかに震わせている。箱には土が敷き詰められていた。
「大事にしてよ」
臨也からもらったというそのことは静雄にとっては癪だったけれど、その小さな生き物たちを静雄は愛らしいと思う。真意は読めなかったけれど、いつものことだと割り切った。
「ああ、」
静雄は答えて台所へ立った。ちょうど先日実家から野菜が届いたばかりだった。胡瓜を取り出し輪切りにして爪楊枝に突き刺しながら、子供の頃の記憶が頭を掠めた。
土にそれを差すと臨也は可笑しそうに声を上げて笑った。
「何が可笑しいんだよ」
静雄はむっとしてそう言ったが、臨也は笑うばかりだった。
「大事にしてくれるんだなあ、と思ってさ」
「お前の持って来たものでもこいつらに罪はないからな」
「そうだね…ねえシズちゃん?」
呼ばれて顔を上げる。
するとごく軽いキスを落とされた。唇が触れるか触れないか、それくらいの拙いものだった。
驚いた静雄の頬を臨也はさらり、と撫でて「またね」と囁くと出て行った。それが彼を見た最後の記憶だ。




臨也の葬儀はひっそりと行われた。裏の稼業をしていたのだから当然なのかも知れない。
臨也の友人として出席したのは新羅と静雄だけでほかには同級生もいなかった。
生前友人だったと静雄は臨也の両親に名乗ったけれど、実際に友人だったことは一度もなかった。ましてや恋人でもなければ客でもなかった。ただの同級生。そして殺し合いに近い、けれど極めて幼稚な喧嘩をしていただけ。
骨になった臨也は小さな壷の中におさまるほどの大きさになってしまった。彼は静雄より幾分小さかったけれど、そんなところにおさまるような男ではなかったのに。
帰りのバスの中で新羅は泣いた。
「寂しくなるね…僕にとっては大切な友人だったんだ…」
そう言って肩を震わせる新羅を静雄は黙って眺めていることしかできなかった。
悲しいとも寂しいとも思わなかった。ただ身体の中心に穴が空いたような、そんな気分でそのことに絶望を覚えた。




鈴虫が鳴く。
りんりん、と羽を震わせている。
死んでしまった臨也を焼くためのボタンを押す、彼の両親の指は震えていた。臨也の死に顔は綺麗でまるで眠っているようにさえ見えた。静雄は一度も彼の寝顔を見たことがなかったけれどそう錯覚した。花に囲まれた臨也はそれが恐ろしいほど良く似合っていた。
もう二度と見れない。
生きているときだってきっと生涯一度もないだろうと思っていたけれど、それも本当に永遠になってしまった。
死ぬ間際に彼はなにを思っただろうか。両親や妹達、それから友人である新羅のことを思っただろうか。
自分のことを一瞬でも考えていなければ良いと静雄は思う。
憎くてたまらない、殺したいほど憎い相手のことをやがて失われていく視界の中に留めておくなんて、それではあんまりだ。生きているときならばそれを嘲笑ってやれたかも知れない。しかしそれももう出来ない。




夢を見た。夢の中で静雄は白い場所に立っていた。なにもない、ただ真っ白い場所。
少し進んでいくと彼の姿が見えた。記憶と少しも違わないいつもの黒い服。
途端に腹が立って静雄は彼を殴ろうと地を蹴って駆け出した。音に気が付いたのかも知れない、臨也は一度こちらを振り向いて走り出した。表情はわからない。逆光のせいだった。
いつもの追いかけっこだ。どうせすぐに追い付く。そうしたら思い切り殴ってやろう。そう思うのに臨也は遠ざかる一方だ。
目一杯手を伸ばす。背中が遠い。時々振り向く臨也は笑っているのだろうか。
遠すぎてちっとも見えなかった。



目を覚ますと部屋は真っ暗だった。闇の中で鈴虫が鳴いている。
りんりん、という音が静かな空間に寂しい。
手を伸ばしてもあたたかな肌はそこになかった。
そっと唇に触れる。何も言わずに去った彼はあのときどう感じたのだろうか。何を思ったのだろうか。もうすべては失われてしまった。そう、すべてが。
突然携帯電話の着信音が鳴り響き、静雄はテーブルの上に乗せてあったそれを手に取った。ブルーのライトが点滅している。着信は幽からだった。
「兄さん?」
「ああ」
「良かった」
幽はそう言った。
「どうした?」
静雄は尋ねる。良かった、と言った意味をはかりかねたからだ。
しかし彼はそれを濁し「元気?」と言った。静雄はああ、と答える。
「そう…」
その時また鈴虫が鳴いてそれを拾ったのか幽に「外にいるの?」と尋ねられた。「いや」と静雄は答える。
鈴虫のことを幽に話そうかと考え、やめた。何故そうしようと思ったのか良くわからなかったけれど、話したくないような気がした。彼を相手にそんなふうに勿体をつけるのは初めてのことで静雄はそれに戸惑った。
「兄貴、」
電話越しに幽の落ち着いた声が聞こえる。
「なにかあったら、いつでも言ってね」
「ああ、ありがとう」
電話の向こうで少し躊躇うような気配がした。
しかし幽はそのあとで電話を切った。
鈴虫が羽を震わせている。




「ねえもしね、」
それはいったいいつだっただろうか。
もう定かではない記憶だった。高校の制服を着ていたような気もするし、いつものあの黒い服を着ていたような気もする。どちらも同じ色だったから鮮明に思い出せない。
ただ季節は夏で、見上げた先に広がる青空と肌を焼く太陽の光が眩しかったことは良く覚えている。
「もしだけど、俺が死ぬときにはさあ」
静雄はくだらない戯れ言だと思いながらその話を聞いていた。
そんなことを言い出すなんて殊勝なところがあったのかと思わないではなかったけれど、どうせ彼のことだから、と高をくくって、静雄は側にあるペットボトルを引き寄せ一口飲んだ。
「もし俺が死ぬときには君がそばにいてね」
「安心しろ、手前を殺すのは俺だ」
そう答えると臨也は嬉しそうに笑った。子供のような笑顔だった。なにが彼にそんな顔をさせるのか静雄にはわからなかった。しかしそれがあまりにも眩しくて目を伏せた。
臨也は「そうだね」と言った。視線をはずしてしまったせいでどんな表情をしているのかはわからなかった。
ペットボトルの中の飲み物はあたたまって不味かった。




「臨也」
暗い部屋にその名前が落ちる。呼び慣れた響きだ。そして久しぶりに呼んだ名前。
そうだ、俺はお前を殺すと言った。なのにお前は勝手に遠くへ行ってしまった。
来世の約束なんてしていない。待ち合わせ場所すら決めていない。そんなものはじめから、彼が生きていたときですらしたことがなかったのだから当然だ。
きっとどれだけ待ってもお前は来ないだろう。わざわざ殺されに来る人間なんていない。それが自分を良く知り、憎んでいた彼ならなおさら。
「臨也」
もう一度名前を呼ぶと応えるように鈴虫が鳴いた。
新羅の涙を思い出した。寂しくなるね、と言った彼の声は掠れていて、今にも嗚咽がこぼれだしてしまいそうだった。
彼の妹たちの良く見れはしなかったけれど目元に光る涙を思い出した。臨也が泣いたところを静雄は一度も見たことがなかったけれど、こんなふうに静かに泣くのだろうかと一瞬それが頭を掠めた。
臨也が死んだらもう忘れてやろうとずっとずっと考えていた。はじめから彼の存在なんかなかったことにして記憶の彼方へ葬り去ってやろうと。それが長年憎しみ続けてきた男への一番の復讐だとすら考えていた。
けれど彼の死が静雄にもたらしたものはいったいなんだっただろう?
こうして彼の持ってきた鈴虫を前にして、決して手の届かない場所へ行ってしまった彼を夢に見ながら、暗い部屋で明かりもつけずに座り込んでいる。
臨也の骨はしろく、小さかった。
あのとき静雄はそれをひとつポケットへ入れ持ち帰ろうかと考えた。けれど、結局はそれが出来ずに骨はひとつ残らず納められてしまった。
後悔していた。
鈴虫はやがて死んでしまうだろう。夏が終われば役目を終えたとばかりに、ある朝目覚めたらきっとひとつ残らずそのちいさな命を燃やし尽くしているのだ。彼のことなど忘れるかのように。
あの日ここへ来て口づけを落としていった臨也のことを記憶しているはずの虫たち。やがて彼のところへ行くのだろうか。自分は決して行けないその場所へ。
手を伸ばす。
素っ気のない箱のがさがさとした感触が指先に伝わった。それ以外にはなにもない。あの日の面影も、臨也の静かな笑みも、穏やかな声も、すべて、なにも。
「臨也」
もうここにはいない彼の名前を呼ぶ。
部屋は暗い。テーブルに頬をつけると、その冷たい温度にかはわからないけれど、世界のすべてが滲んだ。
鈴虫が鳴く。

2011/07/21

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