いつもと同じバーで、いつもと少しだけ違う今日。
たった少しの違いだけで自分の心臓が今にも破裂しそうなくらいドクドクと脈打つ。
カウンターに座り落ち着くようにと自分の胸を撫で下ろし、マスターにいつものと言ってカクテルを出してもらった。
薄いピンク色で、飾り程度に桜の花びらが一枚浮いているソレ。マスターがいつも来てくれてる幸ちゃんだけのサービスと言って作ってくれるものだ。
「マスター今日は店こんでるね。あ、いつもの」
いつも幸陽が座っている席にいる男がマスターに話しかけ、『いつもの』というその言葉で男もまたこのお店の常連なんだと気付いた。
だけど週に一回しか来ていないとはいえ、かれこれ一年ほどこの店に通っている幸陽はこんな若い男が来ていることを知らなかった。
いつも他の客をあんまり見ないようにしているし当然か、と気にしないことにした。
幸陽がカクテルに口をつけようとしたとき、男が二人の間の空席になっている席に移動してきて、こちらをジッと見ている。
思わずビックリした幸陽は手からカクテルが入っているのグラスを滑り落としてしまった。
グラスは床に落ちて割れてしまい、カクテルは幸陽の胸やスカートにかかってしまった。
「大丈夫ですか?」
マスターが割れたグラスを片付けている時、隣の男がハンカチを差し出しながら話しかけてきた。
小声で大丈夫です、ありがとうございますとだけ言ってそのハンカチを受け取った。
ベタな恋愛ドラマじゃないけれど、ハンカチを受けとるその一瞬、差し出された男の手と幸陽の手が触れ、幸陽は大袈裟なくらい肩が跳ねた。
今日は本当に調子が狂う日だ。
尚もこちらを見てくる男に対して緊張感とどこか恥ずかしさを感じた幸陽。
まさか今の一瞬で自分が男なのがバレたのかと焦る。今ここでバレてしまうと、きっとこの店にはもう来れなくなるだろう。
「あの…名前、聞いてもいいですか?」
少し遠慮がちに聞いてくる男。
その時の男の顔が優しく微笑んでいて、なんとなく安心した。
暗がりで今までわからなかったが顔も結構かっこよくてスタイルもいい。
思わずみとれてしまいそうになった。
「幸です。」
そう答えると可愛らしい名前ですね、と言われた。
ここで逃げておけば、返事をしなければ…よかったのかもしれない。
よかったという表現があっているのかもわからないけれど。
その時はこの男が何故自分に近寄ってきたのかもわからなかった。
ただこれが男と幸陽の出会いなのかは、幸陽にはまだわからない。
何故なら、男がずっと前から幸陽をだけを見続けていた事も知らないのだから。